第63話 ゼノンとシェイド

 その日のリハビリを終えたシェイドが、夜風に当たろうと思い大神殿の外へと出ると、そこには意外な先客がいた。


「…………」


 四十代半ばとは思えぬ精悍な顔立ち。何処か憂いを帯びた表情で、遥か遠くに聳え立つ、不規則に輪郭を変える巨大な砂時計を──"崩壊の砂時計"を見つめている。


「──其方も、夜風に当たりに来たのか?」


 シェイドが来たことに気付いたのか、ハルモニア皇帝ゼノンは音もなく振り向くや否や相好を崩し、彼に自分の隣に来るようそっと促した。


「……ハルモニアの夜風は、心地良かろう?」


「……確かに、悪くはないな。砂時計が視界に入りさえしなければ完璧だった」


「そればっかりは、どうしようもないな。世界の何処にいようとも、あれは常に視界に入り込んでくる。そういうものだと、諦めるしかなかろう」


 光のない灰色の瞳でじっと砂時計を見つめながら、ゼノンはふっと笑う。その手には、やや古びた懐中時計が握られていた。


「……それは?」


 シェイドが尋ねると、ゼノンは昔を懐かしむかの如く遠い目をしつつ答える。


「……形見だ。今は亡き妻ソフィアの、な」


 懐中時計の蓋を開け、時刻を確認しながら、ゼノンは淡々とした調子で語り始めた。


「二十五年前──"最終戦争ハルマゲドン"が勃発したあの時。剣聖アレスの登場、天使の参戦など諸々の要素が積み重なり、我がハルモニアは窮地に立たされた」


「…………」


「ハルモニアを救うため、私は禁忌を犯した。女神シェオルの使徒たる、死天衆を召喚する儀式を執り行ったのだ。五十名を超す巫女の……まだ年端もいかぬ少女たちの尊い命が、それにより喪われた。だが──」


 召喚に応じて顕現したベリアルは、それだけでは不足だとゼノンに告げた。そして、力を貸す代わりに、ゼノンが最も大切にしているものを供物として捧げるよう要求したのである。


「──ベリアルは、最初から気付いていた。私が自分の命よりも、妻ソフィアを大切に想っていたことを」


 ゼノンはベリアルの要求を呑み、ソフィアは命を落とした。血の海と化した寝室の中で、変わり果てた姿となって見つかった。ハルモニアの至宝と呼ばれた美しき王妃はこの時、まだ二十歳になったばかりだった。


「憎いとは思わなかったのか? 王妃殿下の命を奪ったベリアルのことを」


「勿論、憎くて仕方がなかった。だが、ハルモニアを聖教会の魔の手から救うには、最早そうするしかなかったのだ。それに……それに、だ」


 刹那──ゼノンの瞳の奥に、仄暗い焔が灯る。


「……気付いてしまったのだよ。死天衆の力を借りねばならなくなったのも、我が妻ソフィアが悲惨な最期を迎えたのも……元を辿れば、戦を仕掛けてきた聖教会が原因である。そう──全ての元凶は聖教会だという、疑いようのない事実に、な」


「……!!」


「──聖教会さえこの世になければ、ソフィアが死ぬことはなかった。無用な争いも起こらず、死天衆の力を借りる必要もなかったのだ」


 憎い。聖教会と、天空の神ソルが憎い。静かに憤怒の激情を露わにしつつ、ゼノンは吐き捨てるような調子で、聖教会に対する呪詛の言葉を口にする。


「……其方なら、理解出来よう? 枢機卿クロウリーによって、愛する家族を皆殺しにされた其方なら。この私の気持ちを理解出来る筈だ、元聖教騎士のシェイドよ」


 何故、そのことを知っているのか。そう疑問に思うよりも、ゼノンへの共感が勝った。未だ、怨敵クロウリーへの憎悪は心の奥底で燻っている。


 出来ることなら、この手で奴の息の根を止めてやりたいと、強く願うほどに。


「……あぁ。出来る」


 その反応に満足したのか、ゼノンはまるで何事もなかったかのように再び遠方へと目を向ける。


「あの砂時計の砂が、全て落ちきってしまうまでに、聖教会のクズ共を根絶やしにする。ハルモニアが真の平和を勝ち取るためにも、このまま奴等を野放しにしておく訳にはいかぬ。それが私の願いであり、亡き妻ソフィアに捧げる誓いだ」


「……そう、か」


 レヴィやガブリエルのように、異教の教えに対して一定の理解を示してくれる者もいるが、それは数多いる聖教徒の中のごく一部に過ぎない。大多数の聖教徒が、自分たちは神に選ばれし者だという強い選民思想を持ち、ハルモニア人や異人族を差別、迫害していることは否定出来ない。


 ハルモニアの長であるゼノンの言い分は、至極尤もであると言えた。ハルモニアの民が安心して日々を過ごすためには、聖教会という脅威を取り除かなければならない。元聖教徒であるシェイドとしては、些か複雑な気分ではあったが。


「ふふっ……不思議なものよな。其方と居ると、柄にもなく饒舌になってしまう」


 蜃気楼の如く揺らめく砂時計を眺めながら、ゼノンはそう言って笑う。


「……実はな。初めて会った時から、其方には一目置いていたのだ。この人間は、何処か普通ではない。何か持っている……他者にはない何かを、とな」


「それは流石に、買い被りすぎじゃないか? パズズと戦った時、俺は敵の手でセラフィナを攫われた上、一矢報いることも叶わなかった。護衛としてあるまじき失態だ」


「そうかな? 人の身で、万夫不当の大精霊を相手に善戦したのだ。アモンは疎か、あのベリアルでさえも、其方とキリエの奮戦ぶりを高く評価しておる」


「善戦しても、負けは負けだからな。失態であることに変わりはない」


 益々気に入った──そう言わんばかりに、ゼノンはニヤリと不敵な笑みを浮かべる。


「……実に面白い男だよ、其方は。私の近衛兵として、召し抱えたいくらいだ」


 だが、とゼノンは続けて、


「其方はそれを望まない。そうであろう?」


「仰る通りだ、皇帝陛下」


「だから、敢えて私はこう言うとしよう──ハルモニア皇帝ゼノンが命ずる。シェイド、其方はキリエと共に引き続き、セラフィナ・フォン・グノーシスの護衛の任に就くように」


 シェイドの顔に困惑の色が浮かぶ。失態を犯した者に引き続き、セラフィナの護衛を命ずる。とても正気の沙汰とは思えない。


「……出来ることなら、セラフィナには何時までも籠の中の鳥で居てもらいたい。それが、あの者にとっての幸福だと信じていたからだ」


「……アレスの捜索を打ち切ったのも、それが理由か?」


 剣聖アレスの捜索打ち切り。養父の生存は絶望的だと突き付けられたセラフィナの胸中は、察するに余りある。


 ゼノンもそれは重々承知しているのか、溜め息混じりに首肯しつつも、


「否定はすまい。親の心子知らず──今のセラフィナに、我が思いは理解出来ぬであろうからな」


「……親なら敢えて、子のやりたいようにやらせてみたらどうだ?」


 シェイドがそれとなく言ってみると、どうやらゼノンも同じ考えに至っていたようで、


「うむ──だからこそ、其方とキリエに引き続き護衛を任せようと言っておる。気の置けぬ朋友たる其方たちが護衛ならセラフィナも安心するであろうし、私も安心してセラフィナを旅へと送り出せる。考えてはくれぬか?」


「……なるほど、ね。まぁ、考えておくよ」


 時間も時間なので今日はこれで、とシェイドは身を翻す。去りゆくその背を見送るゼノンの双眸は、何と言い表せば良いのか分からぬ狂気に彩られていた。


「……飛びたいように飛ぶが良い、セラフィナ。ハルモニアの愛しき子よ。籠の中の空が狭いと言うのならば、な。だが、其方も直に、気が付く時が来るであろう。養父ちちの幻影を追い求めたとて、その先には虚しさしか残らぬことを。そして思い知るであろう。其方の終の棲家となるのも、其方がその身を埋めるのも、地上に残された最後の楽園たる、我がハルモニアであることを。なぁ……セラフィナ?」


 そう呟くと、ゼノンは独り声高らかに嗤った。

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