第62話 軍神と謳われる者

 バアルの聖地カナン襲撃と時を同じくして、涙の王国に隣接する諸国家からなる連合軍は、帝国第三軍の所属と思われる一千余騎の騎兵と会敵。


 彼らは連合軍の大軍勢を見るや否やパニックとなり、武器や手持ちの食糧などをその場に投棄して逃げ出した。


 投棄された武器を見聞すると、殆どが旧式のみすぼらしいマスケット銃であり、それも所々が傷んでいる粗悪品であった。


 三十万を優に超す大軍勢からなる連合軍。数の上では圧倒的優位にあったが、国家毎に指揮系統が異なるためか、その足並みは全くと言っても良いほど揃っていなかった。


 ──"無敗の貴公子とやらも、名ばかりか"。


 ──"帝国第三軍、恐るるに足らず"。


 連合軍を形成する一部の国軍は後方に控える聖教騎士団への報告を怠り、そればかりか前線へと突出。逃げるハルモニア騎兵の追撃を開始した。


 ハルモニア騎兵は阿鼻叫喚と言った様子で、ひたすら北へ北へと逃げ続けた。逃げる度、その場に打ち捨てられる武器や食糧、そして空馬。気を良くした連合軍の一部はそのまま、逃げる騎兵の追撃を続行した。


 追撃を開始してから、凡そ一週間後──


 ハルモニア騎兵は"死の谷"と呼ばれる、周囲が険しい斜面となっている場所へと逃げ込み、その後を追って数万もの大軍勢が"死の谷"へとなだれ込んだ。


 だが……全ては、彼の者が仕組んだ罠であった。


「──馬鹿だなぁ、本当に救いようがない」


 蟻の如く"死の谷"へと殺到した敵兵を見下ろすと、堕天使エリゴールは相手を心底馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


 エリゴールは予め、囮を担う騎兵たちに複数の指示を出していた。


 一つ、会敵したら、パニックを起こして逃げるふりをすること。


 一つ、罠と悟られぬよう、武器や食糧を打ち捨ててゆくこと。敢えて傷んで使い物にならない武器を選んだのもその一環で、軍事技術の流出を防げるだけでなく、ハルモニア軍は武器が行き届いていないと誤認させることで、相手の油断を誘えるというメリットがあった。


 そして、最後の一つは──第三軍本隊が万全の体制で待ち構える、"死の谷"へと敵軍を誘い込むこと。


「──では、心ゆくまで楽しませてもらうよ?」


 エリゴールが片手を挙げて指示を出すと、不気味なマスクを装着した帝国兵たちが次々と、小さな筒のようなものを谷底に跋扈する敵軍へ向けて転がす。


 それから間もなく──


 敵軍の中から、体調不良を訴える者が続出し始める。目や鼻、呼吸器官などに激しい痛みを訴える者、皮膚が焼け爛れたかの如く大きく損傷する者。一人、また一人と倒れてゆくその光景は、見る者に得体の知れぬ恐怖を植え付けるには十分であった。


 エリゴールが用いたのは、所謂毒ガスである。能う限りの苦痛を以て、広範囲の敵を一掃することを目的とした、ハルモニアの軍事技術の結晶とも言うべき最新兵器。


 空気の流れに左右されやすいという欠点こそあるものの、霧がよく立ち込める"死の谷"で用いればその効果は絶大。知らぬ間に、相手はその身を蝕まれ、苦痛と共にゆっくりと時間を掛けて死に至ることとなる。


 置き土産としても有効で、長期間に渡って散布された地域を汚染し続ける。正に非人道的なる大量破壊兵器だった。


 呻き声や苦痛に悶える声が、谷底から聞こえてくる。エリゴールはそれを聞いて満足そうに頷くと、続けて傘下の兵たちに指示を出した。


「砲兵、投石兵──攻撃開始。無理に当てようとしなくても構わない。各々、やりたいようにやると良い」


 それを聞くや否や、まるで待ってましたと言わんばかりに、伝令の兵たちが軽い足取りで、各所にエリゴールの指示を伝えに向かう。


「──撃ち方、始めぇい!!」


 エリゴールからの指示を受け、霧の立ち込める谷底目掛けて、次々と山砲が火を噴く。それとほぼ時を同じくして、投石器から発射された無数の岩塊が、まるで雨の如く谷底の敵軍へと降り注いだ。


 砲兵は時に、"戦場の女神"と呼ばれることもある。圧倒的な火力を以て戦場を制圧することで、戦況を有利に変えてくれるからだ。


 況してや、敵軍は毒ガスで満足に動くことが出来ず、統率も取れていない。谷間という地形的な恩恵もあり、砲兵からすれば正に格好の的であった。


 何処からともなく飛来する、無数の砲弾に石の礫。毒ガスで判断力が低下していることもあり、敵軍は殆ど壊滅状態である。


「──頃合いだ。ゴーレムを投下しろ。何人たりとも生かしては帰さん」


 エリゴールは白い歯を見せてにこりと笑いながら、底冷えのするような声で呟いた。


「──だ」


 "死の谷"の入り口に轟音と共に、複数の巨大な影が屹立する。人の形をしているそれは、目もなく鼻もない。ただ、顔の中央にぽっかりと空いた大きな空洞から、地の底から響くような不気味な音を発するのみである。


 ゴーレム。魔術で生み出された、自立式の泥人形。


 その場から逃げようと入り口に殺到する敵兵たちを、泥で出来た彼らは迎撃する。攻撃して傷を負わせても、瞬く間に再生してしまう。


 ゴーレムに吹き飛ばされた敵兵たちの屍が、後続の敵兵たちにぶつかることで敵軍全体の動きの停滞に繋がる。動きが止まれば、砲弾煙雨に晒され、運良くそれらの直撃を免れたとしても、毒ガスによってじわじわと嬲り殺されることになる。


 苦しみから解放される道はたった一つ。自ら命を絶つことだけだ。それが出来ねば、帝国第三軍によって弄ばれ、苦しみ抜いた挙句に惨めに死ぬ。"死の谷"へと誘い込まれた時点で、結末は既に決まっていたのだ。


 最早、これは戦闘などとは呼べない。一方的な蹂躙、或いは殺戮。エリゴールの策に嵌り、数万の敵兵の命が、わずか数時間ほどで喪われたのである。


「──戦闘終了。皆、よく頑張ってくれたね」


 エリゴールが労いの言葉を掛けると、将兵たちが一斉に歓喜の声を上げる。その多くが、"最終戦争ハルマゲドン"の頃からエリゴールの指揮下で戦い抜いてきた、歴戦の古豪たちだった。


 囮を引き受けた騎兵も然り。彼らは、指揮官たるエリゴールに全幅の信頼を寄せていた。故に、囮という危険な役目も全うすることが出来たのだ。エリゴールなら必ず、自軍に勝利を齎してくれると信じていたから。


 そんな古参とは対照的に、第三軍に配属されたばかりの新兵たちは皆、眼下の惨状に言葉を失い、腰を抜かしていた。中には恐怖で失禁している者もおり、古参兵たちが優しくフォローしているのが見える。


「…………」


 これが戦争なのだと、彼らはその身を以て実感したことだろう。如何に効率良く敵戦力を削いでゆくのか。そのためには、相手を同じ人とは思わぬ冷酷無比なる心が必要である。


 これは慣れの問題……戦闘を重ねてゆけば、直に敵を殺すことを何とも思わなくなるだろう。怖いのは最初だけ……慣れれば、堪らなく楽しくなることを、エリゴールはよく知っていた。


 当事者から正気を奪い去り、その身の奥底に眠る獣としての本性を曝け出させるのが、戦争という娯楽なのだから。


「──おや?」


 ふと、一人の若い士官と目が合う。エリゴールは穏やかな口調で、何やら物言いたげな様子のその士官に尋ねた。


「──何故、こんな惨いことを……と、君は心の中で思っているね?」


「……はい、エリゴール卿」


「──では、君に聞こう。戦争を手っ取り早く終わらせる方法は、何だと思う?」


 重ねて問うと、士官は力なく項垂れる。エリゴールはそんな士官の肩を優しく叩きながら、続けてこう口にした。


「……正解は、敵対者を根絶やしにしてしまうことさ。生かして帰せば、新たな災いの火種となりかねない。傷が癒えたならまた、戦場に戻ってくるかもしれないだろう?」


「捕虜にして、その場に留め置くという手も……」


「確かにそういう手もある。でもそれは、我が方の要人が敵の手に落ちていた場合だ。捕虜交換に使えるからね。だが、今回はその条件に当てはまらない。無理に生かしておく意味は皆無だ。違うかい?」


「…………」


「理解は出来るが、納得は出来ないと。まぁ、考え方はそれぞれさ。君は君なりに考え続けると良い。何れ、君なりの真理に辿り着くことだろう」


 エリゴールは再度、ポンポンと優しく士官の肩を叩くと、端正な顔に柔和な笑みを湛えながら、他の士官たちを引き連れてその場を後にした。


 いきなり数万の将兵を喪失した連合軍……彼らはまだ、知る由もない。"軍神"と謳われる端麗なる貴公子の秘めたる、本当の恐ろしさを。


 此度の惨劇がまだ、連合軍に迫る破滅の序章に過ぎないことを。彼らはこれから、その身を以て思い知ることとなるのである。

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