幕間
第61話 勇猛苛烈なる戦闘王
"都市国家アッカド、焼滅"──
その凶報は風に乗り、瞬く間に世界各地へともたらされた。信仰対象たるパズズと最高指導者ラマシュトゥを同時に喪った精霊教会は事実上瓦解し、砂漠地帯を支配していたパズズの死で水源が枯れた各オアシス都市は、民衆たちによる殺し合いが激化。間もなく、砂漠地帯から人という種が消えてなくなることが確定した。
パズズとラマシュトゥ……二大精霊が願って止まなかった砂漠地帯からの、人間という種の根絶。両者が死天衆に討たれ消滅することでそれが完遂されるとは、何という皮肉であろうか。
アッカド、そして精霊教会の消滅により、ハルモニアは聖教会のみに注力出来る状態となった。
だが、裏を返せばそれは、聖教会もまたハルモニアのみに注力出来るということ。
各国からの要請に応じ、遂に聖教騎士団が重い腰を上げ、涙の王国に進駐した堕天使エリゴール率いる、ハルモニア帝国第三軍を退けるべく出陣することとなった。
"
エリゴール率いる帝国第三軍は、先んじて陣地構築に当たっていた工兵を始めとする支援要員凡そ三万五千に、遅れて合流した戦闘要員凡そ三万五千を併せた計七万。
対する聖教会側は、涙の王国に隣接する諸国家の軍勢に、聖教騎士団の第五騎士団凡そ二万、第六騎士団凡そ二万を併せると、計三十万にも及ぶ大軍勢であった。
数の上では優勢。たとえ相手が、無敗の貴公子エリゴールであろうとも恐るるに足るまい。冬までには、祖国に帰れるだろう……戦地に赴いた誰もが、この時はそう思っていた。
聖教会自治領、聖地カナン──
大聖堂の最奥にて、聖女シオンは胸の前で手を組み静かに祈りを捧げていた。戦地へと赴く勇敢なる戦士たちの、無事の帰還を願いながら。
「──護衛もなしに祈祷とは、随分と呑気なものよな。簒奪者ソルの下僕シオン」
蝋燭の灯がふっと掻き消えたかと思うと、大聖堂の中は氷を思わせる冷たい敵意に満たされる。
シオンが振り返ると、大きく開かれた大聖堂の入口にハルモニア帝国軍所属であることを示す黒い将官服を身に纏った大男が、巨像の如く佇んでいた。頭上には
「──死天、衆……!」
男がくぐもった笑い声と共に顔を覆っていた、自らの顔を象るデスマスクを外すと、初老の域にありながらも精悍なる顔が露わとなる。白髪混じりの黒い髪が夜風を受けて僅かに靡き、鷹を思わせる金色の瞳は、星の如く煌々と輝いていた。
「──我が名は、バアル。誇り高き死天衆の末席に名を連ねる者なり」
名乗り終わるや否や、バアルは音もなくシオンの目の前へと瞬間移動し、手にした剣を大きく振り上げていた。
シオンが必死に身を躱したと同時、轟音と共に天空の神ソルを象った像が一撃で粉砕される。シオンには目もくれず、バアルは粉々に砕け散ったソルの像の成れの果てを見下ろし、心底愉快そうに笑っていた。
「なるほど、ベリアルの言っていた通りだ。これなら何時如何なる時でも、奴等を殺すことが出来よう」
シオンはその隙に何とか外へと逃れようとするも、バアルはそれを易々と見逃してくれるほど甘くはなかった。
「──逃がすと思うか、小娘?」
「──嫌あぁぁぁあ……っ!!」
突然、右足の甲に激痛が走り、シオンの口から甲高い悲鳴が迸る。身動きが取れないよう、バアルが彼女の足に短剣を突き刺したのだ。
「あ……あぁ……!」
痛みに悶え、嗚咽を漏らしながらも、シオンは懸命に、自らの足を貫く短剣を抜こうと試みる。
白のストッキングに包まれた足の甲に、じわじわと赤黒い染みが広がってゆく。短剣は足を貫通して床に深々と突き刺さっており、非力な彼女ではそもそも抜くことすらままならなかった。
「──ここに居たのが、アスモデウスでなくて良かったなシオンよ。奴が居たならば、お前は純潔も何もかも奪われた挙句、廃人となるまで奴に玩弄されていたであろうよ」
穏やかな声音でそう言いつつ、バアルはゆっくりと剣を抜いた。鈍く光る刃に、涙でくしゃくしゃになったシオンの、苦痛に歪んだ端麗なる顔が映り込む。
「私は生憎、武器を持たぬ女や子供を手に掛けたり、甚振って喜ぶような趣味を持ち合わせておらぬが、お前は聖女……簒奪者ソルの忠実なる下僕。故に──」
刹那──バアルの目の奥で、憤怒の焔が燃え上がる。
「──故に私自ら、お前という存在に罰を与えてくれよう。簒奪者の敬虔なる信徒として、教えに殉ずると良い。奴の元へ逝ける喜びに打ち震えつつ死ね」
凶刃が、シオンへと振り下ろされた正にその時──
「──やらせはせんよ」
音もなく現れた黒い影が両者の間に割って入ったかと思うと、間一髪のところでバアルの刃を手にした剣で受け止めた。
「……ほぅ? 人間にしてはやるではないか」
片手のまま鍔迫り合いに持ち込むと、バアルは相手の顔を見てニヤリと笑う。豪奢な法衣に身を包んだ初老のその男の目は、異様に黒く濁っており、見る者に底なしの沼を想起させた。
「お前が枢機卿クロウリー、だな?」
「だとしたら、何だ?」
バアルの顔を負けじと睨み付けながら、クロウリーもまた邪悪な笑みを浮かべる。
「お前が来たならば、話は早い──シオン諸共、ここで始末してくれる」
バアルが剣を強引に押し込むと同時、クロウリーは老体とは思えぬ身軽さでその一撃を躱し、華麗に宙返りをしつつ間合いを取った。
「近接戦では、我が方が不利──なれば、得意な距離での戦いに持ち込むまでよ」
言い終わらぬ内にクロウリーは魔法陣を展開し、無詠唱のまま次々と、巨大な火球と雷球をバアル目掛けて放つ。
加えてそれらを放つ合間にクロウリーは、懐に忍ばせていた飛刀を二本、バアルの目を狙って投擲していた。
明らかに人間離れした技術……だが、バアルはまるで蚊でも払うかのように、飛来する無数の火球や雷球を容易く弾き返し、飛刀に関しては最早躱すまでもないと言わんばかりに、そのまま目で受け止め、さも当然かの如く無傷で跳ね返した。
「──主に背いた叛逆者の分際で、それほどの力を持っているとは、実に不愉快極まりないな」
不満そうに鼻を鳴らすクロウリー……不利な状況にありながら、慌てる素振りは微塵もない。
「──どれ、こちらも返礼と行こうか。この程度で、死んでくれるなよ?」
バアルの足元に、逆五芒星の描かれた魔法陣が展開される。疾風、迅雷……そして清水。三種の膨大なる魔力の奔流が一斉に、荒れ狂う竜の形を成してクロウリーへと襲い掛かる。
「──素晴らしい、このような出鱈目な魔術を見るのは生まれて初めてだ」
直撃すれば即死と理解しているのか、クロウリーは額に薄らと冷や汗を浮かべつつも、その顔に笑みを絶やさない。
「だが……これでは、死んでやれんな」
クロウリーは防御結界を構築すると、バアルの放った魔術を真正面から受け止めた。防御結界の消滅した際に生じた僅かな隙を見逃さず、バアルは一気に間合いを詰めてくる。
しかし、バアルの凶刃はあと一歩のところでクロウリーには届かなかった。
「──天に坐す主を祀る、神聖なるこの場所にて狼藉を働くは貴殿か、バアル?」
天から舞い降りた、白装束に身を包んだ金髪碧眼の眉目秀麗なる天使が、バアルの振り下ろした剛剣の一撃を弾き返す。
「──天使長ミカエル、か。他の"御前の天使"なら相手になっても良かったが、これは少し厄介になったな」
憎々しげに口ではそう言いつつも、バアルの様子は何処か楽しげである。
「今日は挨拶に来ただけだ──これにて、失礼させてもらうとしよう。簒奪者ソルに伝えておけ……"次こそは必ず、お前の首を貰い受ける"、とな」
ミカエルの追撃をいなしながら、バアルはふっと音もなく姿を消した。剣を鞘へと収めると、ミカエルはシオンの元へと駆け寄る。
「──痛みますが、ご容赦を」
慣れた手付きでシオンの足の甲を貫いていた短剣を引き抜き、簡易的な止血処置を施すと、ミカエルはそのまま彼女の華奢な身体をひょいと抱きかかえる。
「急ぎ、医者に診て貰いましょう──枢機卿クロウリー、貴殿は教皇聖下の元へ向かい、事の仔細を報告するように」
「──御意」
シオンを抱えて空へと飛び去るミカエルを見送ると、クロウリーは粉々に砕け散ったソルの像の残骸を見つめる。
「…………」
彼はそうして暫くの間、物言いたげに残骸をじっと見つめ続けていたが、やがてふっと笑いながら、悠然とした動きでその場を後にした。
怨敵ハルモニアと雌雄を決する時は少しずつ、しかし着実に近付いてきていた。
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