第60話 遠き日の幻影

 夜の帳が下りた帝都アルカディアの大神殿に、パイプオルガンの荘厳な音色が響き渡る。


 ステンドグラス越しに射し込む月明かりが、演奏者の姿を照らし出す。純黒のシンプルなドレスに身を包み、長く艶やかな銀髪を吹き込んでくる夜風に揺らめかせながら、その者は優雅な動きで亡き者たちに捧ぐ鎮魂歌を演奏していた。


 この世に存在する、ありとあらゆる芸術作品が全て陳腐な瓦落多に見えてしまうほどの美貌を惜しげもなく衆目に晒しながら、演奏者……死天衆の長ベリアルはただ黙々と、物悲しい旋律を奏で続ける。


 その場に居合わせた誰もが、ベリアルの一挙一動に注目していた。神殿内の清掃をしていた巫女たちも、祈りを捧げに訪れた者たちも……皆、手を止めて彼の演奏に耳を傾けていた。


 月明かりに照らされながら、無表情のまま淡々とパイプオルガンを奏でるベリアルの姿は、何と形容すれば良いのか分からぬほどに幻想的かつ神秘的であった。


 演奏を終えると、万雷の拍手がベリアルに向けて送られる。皇帝ゼノンと同等、或いはそれ以上の腕前。人々が彼の紡ぐ旋律に心を大きく揺さぶられるのは、至極当然とも言えた。


 だが──


 胸に手を当て、恭しく頭を下げながらも、ベリアルの目は人々を向いておらず、何処か遠くへと向けられていた。


「…………」


 彼の胸中に去来していたのは、果たして如何なる思いだったのだろうか。それを知る者は恐らくこの場には居るまい。彼が歩んできた道のりも、秘めたる祈りも、願いも全て。


 今となってはもう知る者も殆どいないほどの遥か昔、ベリアルは天使たちの試作型──"始祖の天使"の三番目としてこの世に生を受けた。


 彼を創造したのは、大地の女神シェオル。何れ理想の楽園となるであろう世界、それを見守る観察者として創造された彼の容姿は、創造主たるシェオルに余りにも酷似していた。


 しかしながら天空の神ソルは、彼のことを快く思わなかった。故に、シェオルを侮辱する意味合いも込めて、彼に"無価値な者ベリアル"という名を与えた。


 "暁の子ルシフェル"、"神に似た者ミカエル"、そしてベリアル。彼ら三柱の"始祖の天使"を基礎として以後、神の使いたる天使たちは創造されてゆくこととなる。


 けれども、三柱の中で唯一、創造にソルが携わっていないベリアルは何かと冷遇された。ソルとシェオルが協力して創造したルシフェル、ソルが単独で創造したミカエルがソルの寵愛を受け、玉座に侍ることを許される中、ベリアルだけは彼との謁見も許されず、重要な役目を与えられることもなかった。


 シェオルはそんな彼を憐れみ、よく自らの身の回りの世話をさせた。どんなに些細なことでも褒めることを忘れず、彼が決して無価値な存在ではないことを教えた。


 シェオルはベリアルを子として愛し、ベリアルはシェオルを親として敬愛した。血の繋がりはなくとも親子としての絆が育まれていった点は、セラフィナと非常に良く似ていた。


 ソルが自らの虚栄心を満たすために人間を創造した際も、シェオルの意思を尊重し、ベリアルは何も言わなかった。ソルの醜さを投影したかの如き、欲に塗れた悍ましい生き物。心の中ではそう思っていたが、敢えて受け入れたのだ。


 だが、そんなある時──危うい均衡の上に成り立っていた穏やかな日々は、唐突に終わりを迎えることとなる。


 大地の女神シェオルの死……そしてその首謀者たる、天空の神ソルの専横に怒り狂ったルシフェルが、天界に属する半数の天使たちを率いて引き起こした未曾有の大叛乱。


 ベリアルはルシフェルの呼び掛けに応じ、主君の仇敵となった簒奪者ソルへと叛旗を翻す。


 ここから、彼は堕天使たちの中でめきめきと、頭角を現してゆくこととなる。


 ルシフェルに代わり天使長となったミカエル率いる天使の軍勢との、長きに渡る死闘の末ルシフェルは敗北。幾重もの層からなる地獄の最下層、最終地獄ジュデッカの中心に封じられた。


 この際、ベリアルは総大将たるルシフェルの敗北に動揺する堕天使の軍勢を瞬く間に纏め上げたかと思うと、被害を最小限に抑えつつ速やかに撤退。生みの親たるシェオルが眠る黄泉の底へと姿を消した。


 その手際の鮮やかさたるや、敵軍の総指揮官たるミカエルも思わず唖然とするほどであった。


 ルシフェルの敗北後、幾つかの軍閥に分かれた堕天使たちを、ベリアルは長い年月を掛けて攻略してゆく。ある時は武力を用い、またある時は対話を以て利害の一致を説き。


 バアル、アモン、アスモデウス、アザゼル、エリゴールなどはその過程で傘下に、或いは志を同じくする同志として加わった強豪であった。


 また、自らに恭順しなかった者でも優秀であれば、打ち破っても滅ぼすまではしなかった。三日月の魔女アスタロト、吟遊詩人フォルネウスなどはその最たる例であろう。


 その一方で少しでも叛意を見せた者は容赦なく抹殺した。寛容さと冷酷さ……飴と鞭とを上手く使い分けることで、彼は名実ともに堕天使たちの長へと上り詰めていった。


 幾千万、或いは幾億の屍を築いたベリアルは今や、現行世界に於いて最強の存在と言っても過言ではない。天界の最高戦力たる"御前の天使"たちも、今日に至るまでに半数が彼によって討ち取られた。天使長ミカエルでさえも、単独でベリアルを討つことは恐らく出来ないであろう。それほどまでに、ベリアルの力は肥大化していた。


 自らが"無価値な者"と嘲笑していた天使がまさか、自らを脅かす最恐にして最凶の存在になるとは、ソルは微塵も思わなかったであろう。稀代の怪物を自ら野に放ってしまったことなど、露ほども知らなかったであろう。


 知ったとて最早、あとの祭りである。ベリアルの魔の手は既に、自らの喉元まで迫っているのだから。


 ソドムとゴモラの焼滅、ハルモニアを始めとする異教徒勢力の強大化、聖教会内部の腐敗。ベリアルの暗躍によって生じた綻びは、既に修復不可能な域に達している。全ての堕天使たちの悲願が成就するまで、あと僅かだ。


 そして、ベリアル自身の、真の願いが成就するのも──


 自らに向けて万雷の拍手を送る群衆……そんな彼らの背後に音もなく佇む二つの影に気付き、ベリアルはすっと目を細めた。


 セラフィナ、そしてマルコシアス。両者とも無表情ながら、敵意のこもった眼差しでベリアルの顔をじっと睨み付けている。


 シェヘラザードに大精霊パズズの死、都市国家アッカドの焼滅……そして何より、養父たる剣聖アレスの、ハルモニア国内での捜索打ち切り。


 言いたいことは山ほどあれど、それらをぐっと堪えているようにも見受けられた。言ったところで、喪われた者は戻ってこないという諦めの感情も恐らくは、幾分か含まれているだろうか。


 ベリアルと目が合ったことに気付くと、セラフィナは心底不快そうに眉を顰め、優雅に身を翻してマルコシアスと共に去ってゆく。


 ベリアルはその背を見送りながら、白い歯を見せてにこりと笑った。その様はまるで、これから起こるであろう事象を、全て見透かしているかのようであった。

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