第59話 都市国家の終焉

 同時刻、精霊協会本部大広間──


 物音一つ、そればかりか埃一つすら立てずにその場へと悠然と舞い降りると、ベリアルはそのままレヴィの方へと瞬時に間合いを詰める。


「──聖教騎士団長の実力、如何ほどのものか確かめさせてもらいましょう。くれぐれも、この私を失望させないで下さいよ?」


 言い終わらぬ内に、ベリアルの手刀が空間を斬り裂く。レヴィは即座に反応し、最小限の動きでその一撃を躱してみせる。


 だが──


「……うっ!?」


 胸に鋭い痛みが走ったかと思うと、足腰から力が抜けた。紅い華びらを思わせる飛沫が舞い、レヴィはその場に片膝を付く。


 手刀を繰り出すと同時、ベリアルはレヴィの片膝を目にも留まらぬ疾さで蹴り抜いていた。それにより、本来想定していた回避行動が出来なかったのだと、レヴィは瞬時に悟った。


 立ち上がろうにも、足に力が入らない。蹴られた際に骨の一部が砕けたようだ。そうこうしている間にも、腰に帯びた剣を無音で抜いたベリアルが、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「──はい、終わりです」


 喉元にすっと剣を突き付けられる。完敗だ。ほんの一瞬で無力化されてしまった。レヴィは諦めたようにほっと一つ溜め息を吐く。


「……斯様な形で幕引き、か。ガブリエル様お一人すら守り切ることが出来ずに死ぬとは、我ながら情けないものだな」


「いえいえ、私を相手にした割には、良くやった方じゃないですかね? 凡百の輩ならあの時点で反応すら出来ずに、そのまま胴体が綺麗に真っ二つですから。皮膚が若干裂けた程度で済ませたことは、素直に称賛しますとも」


「……さっさと殺せ」


「ええ、言われずとも殺します。ですが……」


 今、この場で殺すのは勿体ない。そう言いたげに、ベリアルはレヴィとガブリエルとを交互に見やる。


 或いは物陰に潜み、彼女たちの背に銃を構えているシャフリヤールとその傘下にある将兵たちにも、氷を思わせる冷たい眼差しを向けていたかもしれない。


 その時──


 ベリアルの意識が完全にレヴィへと向けられていると判断したラマシュトゥは音もなく翼を広げて飛翔すると、ベリアルの首を刎ねんと急降下する。


 若し、数多の死地を潜り抜けた歴戦の古豪がラマシュトゥの立場で今この場にいたならば、迷いなく彼女と同じことをしたであろう。傍から見れば、ベリアルは目先の勝利に酔って完全に油断した状態、隙を晒しているようにしか見えないのだから。


 正に好機到来──ラマシュトゥがそう思ってしまうのも、無理からぬことであった。


 だが、何事にも例外は付きもの……ベリアル相手にある種定石ともいえる手段を講じたことが、彼女にとって命取りとなった。


「ちょっと、失礼しますよ──」


 ベリアルは無力化したレヴィをガブリエルの元へと蹴り飛ばしながら、上空より迫るラマシュトゥを見つめて不敵な笑みを浮かべた。


「──隙を晒したとお思いでしょうが……」


 ベリアルの右手が、ゆっくりと上空へ向けられる。その掌には何時の間にか、蝋燭の灯を彷彿とさせる小さな白い焔が揺らめいていた。


 ベリアルは翼を動かすことなく天へと舞い上がると、ラマシュトゥへと白焔を纏った手刀を繰り出す。


「──"天よ、聴け。地よ、耳を傾けよ"」


 手刀が胸を貫くと同時、ラマシュトゥは断末魔の叫びを周囲に轟かせながら、白い光の渦に呑まれてこの世界から焼滅した。


 光が収まると、ラマシュトゥの姿はなく、そこにはただ心底愉快そうに含み笑うベリアルの神々しい姿のみがあった。


 強大な力を持つ大精霊の、余りにもあっけない最期。その光景を目の当たりにした誰もが、どうか眼前の悪夢は幻であれと、心の中で願うしかなかった。


「…………」


 やがて、笑うのを止めたベリアルはシャフリヤールを見下ろすと、目をすっと細めながら抑揚のない声で問うた。


「……君がアッカドの当代国王、シャフリヤールで間違いないでしょうか?」


「……如何にも。私がシャフリヤールだ、死天衆の長、始祖の天使ベリアル殿」


 シャフリヤールが答えると、ベリアルは底冷えのするような声で告げる。


「……お前には失望したよ、シャフリヤール。今に至るまでの間、幾らでも機会はあったろうに、まさかまだガブリエルとレヴィの首を取っていないとは、ね」


「……失望したのは、こちらとて同じこと。休戦協定を破り、我がアッカドへ兵を差し向けるとは」


「休戦協定? 破棄すると使者を送ったではないか」


「そのような使者は、送られてきていない」


 刹那──ベリアルの顔に、底意地の悪い笑みが浮かんだ。


「いや──たちを、使者として送っただろう? 精霊教会に従者たる少女の命を狙われ、やむなくお前たちと共闘する流れとなった故、どうやらアモンは役目を忘れていたようだが、ね……」


「……!!」


 それまで能面だったシャフリヤールの顔が、憤怒の余り激しく歪む。


「では、あの書状の内容も、全ては偽りだと言うのか……!」


「ええ、勿論。履行するつもりなど、毛頭ありませんよ。ハルモニアの軍事力は、其方を遥かに凌駕していますからね。アッカドと対等な外交関係を築く必要は、端から皆無です」


 怒りに身を震わせるシャフリヤールとは対照的に、ベリアルは白い歯を見せてにこやかに笑っている。


「──撃て! あの悍ましい怪物を、奈落の底へと叩き落とせ!!」


 シャフリヤールの号令一下、銃声が次々に鳴り響く。アッカドの正規兵とて烏合の衆ではない。日々、弛まぬ研鑽を積み続けてきた。練度も高く、数が互角ならハルモニアの正規軍とも十分に渡り合えるだろう。


 けれども哀しいかな、彼らとベリアルとの間には、決して埋めることの出来ない、文字通り天と地ほどの実力差が存在していた。


 彼らの放った銃弾は一つも、ベリアルの身に届くことはなかった。全て、彼の堕天使の身体をすり抜けてしまったのである。


「さて──こちらも、返礼と参りましょうか?」


 ベリアルが高らかに指を鳴らすと同時、シャフリヤールの傍に控えていた兵たちの首が次々に消し飛んだ。頭部を失い、血を噴き出しながら、末期の痙攣を繰り返す兵たちの骸……正に、屍山血河を成すとはこのことであろう。シャフリヤールは血走った目でベリアルを睨み付ける。


「……許すまじ、ベリアル……許す、まじ……!!」


「左様ですか。別にお前如きに許してもらうつもりは微塵もありませんので、だから何だという話ですが」


 ベリアルが再度指を高らかに鳴らすと、シャフリヤールの頭が風船の如く弾け飛んだ。頭部を失った身体は血飛沫を上げながら、力なくその場に倒れ込む。


 シャフリヤールの死亡を確認すると、ベリアルはガブリエルとレヴィの方へ向き直る。


「──お逃げなさい。何処へなりとも」


「……敵である私たちに、情けを掛けると?」


 ガブリエルが問うと、ベリアルはふっと笑いながら、


「君たちでは決して、私を倒せない。逆に私は、何時でも君たちを殺すことが出来る。故に、今殺すのは勿体ないと、そう判断したまでです。果実は熟してから食した方が、美味しいですからね」


「……借りは何れ、返させてもらいます」


 ガブリエルはそう言うと、度重なる負傷と激戦の疲労で身動きが取れないレヴィを抱きかかえ、聖地カナンへと飛び去っていった。


「──では、最後の仕上げといきましょうか」


 ベリアルはアッカドの街並みを見渡すと、掌に先ほどラマシュトゥをこの世から焼滅させた白い焔を出現させる。それは、先ほどラマシュトゥを焼滅させた時とは比にならぬほどの膨大な力の集合体だった。


 聖焔と呼ばれるその白く清き焔は、ベリアルのみが用いることの出来る、大いなる秘術にして、無慈悲な殺戮手段。嘗て、ベリアルはこれを用いて、聖教会勢力の巨大国家を二度、地上から焼滅させた。


 その国家の名は、ソドムとゴモラ──聖教会の教えでは、天空の神ソルが滅ぼしたということになっている。


 威力もさることながら、真に恐ろしいのはその性質であり、ゆっくりと時間を掛けて対象を焼き殺してゆくため、対象は長時間、我が身を焼かれる苦痛に悶えることとなる。


 能う限りの苦痛を以て、確実に死に至らしめるその残虐さは、秘術の生みの親たるベリアルに似たものなのだろう。


 ベリアルが天高く放ったその焔は間もなく花火の如く炸裂し、無数の火の雨となってアッカド全域に降り注いだ。


「天高く舞い上がれ灰よ、焔よ。そして、簒奪者ソルに伝えるが良い。、とな」


 ベリアルはそう呟くと、ゆっくりと時間を掛けて、死の街へと変貌してゆくアッカドを見下ろしてニヤリと笑った。


 この日──砂漠地帯最大の都市国家アッカドは文字通り、この世界から焼滅したのであった。一人の堕天使が放った、白く美しい焔によって。

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