第58話 母なる大地に還る

 天地を揺るがすような咆哮を発しながら、パズズが勢い良く跳躍し、アモンの懐へと迫る。


 唸りを上げて振るわれた拳……それをアモンはその場から一歩も動くことなく、背に生やした翼で軽々と弾き返した。


 衝撃と反動で大きく怯むパズズを見て、アモンはにこりともせずに呟く。


「……悪くない。たった一撃の拳ではあるが、それに万感の思いが込められている。其方のこれまで感じてきた怒り、憎しみ……だが」


 翼を大きく広げて飛翔し、間合いを取り直そうとするパズズに肉薄しながら、アモンは抑揚のない声で残酷な現実を突き付ける。


「──その程度の一撃では、この私アモンに傷を付けることなど、到底不可能であると知れ」


 音もなく繰り出されたアモンの拳が顎を打ち抜き、直撃をまともに受けたパズズは血飛沫を上げながら地面に叩き付けられた。


 身を起こそうとするパズズを嘲笑うようにアモンの拳が何度も何度も振り下ろされ、その度にパズズの巨躯は大きく沈み込み、砂塵が舞い踊る。


「……どうした? 万夫不当の大精霊。其方の持つ力は、この程度のものなのか?」


 血濡れた拳を何度も振り下ろしながら、アモンは無表情のままパズズに問う。梟頭の異形は、まるで興醒めしたかの如く目を細め、憐れむようにパズズの顔を見下ろしていた。


 ──"……この、恥辱……注ぎがたし"!!


 パズズの目の奥が憤怒に彩られる。アモンもパズズの纏う闘気が増したのを感じたのか、追撃の手を止めて跳躍、素早く間合いを取り直す。


 ──"許すまじ、死天衆のアモン……能う限りの苦痛を以て貴様を葬ってくれよう"!!


 全身に熱風を纏い、音を置き去りにするほどの疾さで再度、パズズはアモンへと襲い掛かる。


「…………」


 言葉にならぬ怒号を発しつつ、次から次へと繰り出されるパズズの強烈な攻撃──斬打突に加え凄まじい威力と速度を兼ね備えたそれらを、アモンは淡々といなしてゆく。


 パズズは攻撃の手を緩めず、そればかりか更に手数を増やしてゆく。その威力が絶大であることは、遠目からでも確認出来る、宙を舞う大量の砂塵からも明らかだった。


 だが……それを以てしても、アモンに傷一つ負わせることは出来なかった。


 パズズの繰り出した猛攻の尽くを、アモンは容易く捌いてしまったのだから。


「……そろそろ、諦めが付いたのではないか?」


 アモンは溜め息を一つ吐くと、最早隙と呼べるのかも怪しいほどのほんの一瞬の隙を突き、パズズの鳩尾に強烈な貫手を繰り出した。


 重々しい衝撃音が周囲に響き渡り、一際大量の砂塵が宙を舞う。


 ごぼっという名状しがたい音を立て、パズズの口から大量の血が零れ落ちる。巨体は大きく揺らめき、当事者を除く誰もが、これは勝負あったと思わず錯覚するほどであった。


 だが──


「──それを受けても尚、倒れぬ……か」


 倒れる寸前のところで踏み止まったパズズに対し、アモンは素直に賛辞を送る。如何に大精霊と言えども決して不死身というわけではない。致命傷を負えば死に至る点は、他の生命と大差ない。


 その一点に於いて、パズズは異質だった。アモンが殺す気で繰り出した貫手……それを受けても尚絶命することなく、それどころか気力でその場に踏み止まってみせたのだから。


「敵ながら天晴れ……と、言いたいところだが。もうその身体も限界であろう? 無用に生き長らえ無意味な苦痛を享受するくらいなら、今ここで大人しく私に殺された方が楽になれるぞ?」


 ──"断る"。


「何故? 理解出来ぬ。そうまでして、セラフィナをその手中に収めたいか」


 ──"そうだ……そうだとも。あの娘を取り返すためならばこの命、惜しくも何ともない……"!


 両翼を目一杯に広げ、傷だらけの全身をわなわなと大きく震わせながら、パズズは牙を剥き出しにして威嚇する。


「──それは今、あの娘の置かれている境遇と、自分の半生とを重ねているからなのか?」


 大精霊と呼ばれ信仰を集めつつも、その実は何時復活しても可笑しくない"死を司る天使"アズラエルに対抗するための道具に過ぎないパズズ。


 謎めいた出生と育った環境、そして特異な外見と性質を有するが故に死天衆──ベリアルに道具として良いように使い回されているセラフィナ。


 確かに両者はある意味で、生まれや育ちこそ異なれども似た者同士であると言えた。周囲から都合の良い道具として扱われていることに、何ら違いはない。


 そんなセラフィナに対し、パズズが本能的にシンパシーを感じるのは、特段珍しくもない、寧ろ極めて自然な反応だったのかもしれない。


 そのように語るアモンを睨め付けながら、パズズは否定するように大きく唸る。


 ──"下らぬ……我らがそんな下らぬ陳腐な理由で、彼女を手に入れようと本気で思うてか"?


「違うのか? なれば聞かせてもらおうか。さぞ、高尚な理由なのだろうな?」


 首を傾げながら、アモンが尋ねると同時──


 ──"ぶうぅぅぅうっ"!!


 パズズは口の中に溜め込んでいた大量の血を、アモンの顔目掛けて霧状に噴射した。


「……っ!?」


 それは一時的に目潰しの役割を果たし、パズズはアモンの間合いから逃れることに成功する。


 ──"誰が、貴様なぞに教えてやるものか……"


 そのままその場から飛び去り、アモンの魔の手から命からがら逃げ果せることも、或いは出来た筈だった。けれども、パズズはその場に留まり、決して逃げようとはしなかった。


「──逃げぬのか?」


 アモンが訊くと、パズズは鼻で嗤いながら、


 ──"我らに逃げる場所などない。それに……貴様との決着を付ける場はここ以外になし"。


「──よく分かっておるようだ。ここから逃げたとて、ベリアルからは絶対に逃げられん。何処にいても必ずや、息の根を止めに来るであろうな」


 目に入った血を煩わしそうに拭いながら、アモンが口元を大きく歪めてニヤリと笑う。目がギラついており、普段彼が理性で抑え込んでいる、血と闘争に飢えた狂戦士としての本来の性格が、この戦闘を介して露わになりつつあるのが見て取れた。


「……興が乗った。どれ、冥土の土産に一つ教えてやるとしよう。この壮大なる茶番について」


 ──"茶番、だと……"?


「そうだ、全ては茶番だ。私がハルモニアの使者としてこの地に送り込まれたのも……セラフィナと其方の邂逅も、全ては死天衆が長ベリアルの仕組んだこと。これからこの地で起こることも……全ては彼の者の思い描いた通りに進むであろうな?」


 ──"……なっ"!?


 アモンの言っていることが理解出来ず、パズズの顔に初めて、相手への怯えの色が浮かぶ。


 ──"何、を……言っている……"?


「それをこれ以上語る気はない。そして、それを其方が知ることもない。何故か? 其方はここで死ぬからだ、万夫不当の大精霊。それもまた、ベリアルが紡ぐ筋書き通りだ」


 アモンの全身の筋肉が、大きく隆起する。全身の毛が一斉に逆立ち、吹き荒ぶ風を受けて麦の稲穂の如く揺らめいている。


「この私に敗れたことを誇りに思い──痛みも苦しみもない、母なる温もりの中へ……"渾沌まろかれ"へと還るが良い!!」


 無数の牙が露わとなったアモンの口から眩い閃光と共に、衝撃波を伴った青白い焔が噴き出される。


 パズズも負けじと火球を打ち出したが、相手の方が遥かに威力が上だった。自らが放った火球がアモンの噴く青白い業火に掻き消されたのを見たのが、パズズの生涯で最期の記憶となった。


 ──"やっぱり貴方は、道具としてではなく、信仰対象としてでもなく、他ならぬパズズというとして、誰かに愛して欲しかったんだね"。


 パズズの脳裏に、セラフィナの言葉が虚しく木霊した。


 焔に胸を貫かれると同時、パズズの全身から火の手が上がる。身を焦がす激痛と、息が出来ぬ苦しみにのたうち回るその姿は、見る者の哀愁を誘う。頭で死を理解していても、身体は本能的に生を求めるのだと、如実に示しているかのようだった。


「……許せ。其方は力を持ち過ぎたのだ」


 アモンは俯きながら一言、詫びるようにそう口にすると、身を翻してその場を後にする。アモンの勝利に沸くハルモニア将兵たちの鬨の声が、風に乗って四方八方へと響き渡った。


 ハルモニアの軍勢は高らかに角笛を吹き鳴らしながら、都市国家アッカドへと進軍を再開する。


 敗れ去ったパズズに目を向ける者は、誰一人として居なかった。


 やがて──


 焔の中で動かなくなったパズズの黒き巨躯は見る見るその姿を変えたかと思うと、間もなく暖かな白い光となって霧散し、不毛の砂漠と化した大地へと雪の如く降り注いだ。


 これが、万夫不当と謳われた大精霊パズズの最期だった。

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