第57話 見えざる影
──"我に! 我らに! 女神シェオルのご加護あれ!!"
パズズの叫びに呼応するかの如く、死者たちが黒い液体へと変貌したかと思うと、吸い寄せられるように彼の巨獣の足下へと音もなく収束してゆく。
間もなくパズズの巨体は液体の中に沈み、不規則にその輪郭を変え始める。その表面に、取り込まれた死者たちの苦悶に満ちた顔が次々と、浮かんでは消える。
やがて──黒い炎が噴き出したかと思うと、その中から痩せ細った巨獣が……パズズが再び、その姿を現した。
筋骨隆々だった先程までとは異なり、極限まで不必要なモノを削ぎ落とし、防御を捨てて敏捷力を高めたその姿は、更に禍々しさを増している。腕は四本に増え、黒い体毛は死者たちの血でぐっしょりと濡れていた。
パズズは自らの手の中で弱々しく呼吸を繰り返すセラフィナの身を案じるかのように、一瞬だけ視線を彼女へと向ける。慈しみと親愛に満ちた眼差しは、明らかにシェイドやキリエに対して向けられていた、侮蔑と憤怒に満ちたものとは異なっていた。
まるで、父が我が子を愛おしむかのような──
刹那──巨体に見合わぬほどの凄まじい疾さで、パズズはシェイドたちに向けてスタートを切っていた。
シェイドが瞬時に反応し、キリエを庇うように前へ出て銃弾を放つも、パズズはさも当然かのように、正確無比なるその弾丸を躱してみせた。
「──ちっ!!」
一気に間合いを詰めたパズズの拳が、唸りを上げて振り下ろされる。今からでは、回避は間に合わない。
早くも詰み、か。そう思われた直後──
無音で飛来した氷の刃が、パズズの一撃を弾き返した。シェイドを仕留め損ねたパズズは、唸り声を発しながら間合いを取り直すと、邪魔立てした不届き者をギロリと睨み付ける。
その視線の先には、足元に魔法陣を展開し、右手を前へとかざしたキリエの姿があった。
「……はぁ……はぁ……!」
生まれたての仔鹿のように両足を震わせ、肩で大きく息をしながら、キリエも負けじとパズズの顔を睨み返す。目に涙が浮かんでおり、呼吸も浅い。必死に眼前に佇む恐怖と戦っているのが、ひしひしと伝わってくる。
──"グラキエース。氷の刃を撃ち出す上級魔術。よもや、無詠唱で放てる者が人の子にいようとは、な"。
否……と、パズズは続けて、
──"貴様、何処か普通と違っている。我には分かるぞ。
「……だったら、何だって言うんですか?」
震える声でキリエが問うと、パズズは無数の牙を剥き出しにして不敵な笑みを浮かべながら、笑い声を置き去りにするほどの疾さで、再び間合いを侵略してくる。
キリエが再び無詠唱で氷の刃を放つも、二度も同じ手は通用しないのか、パズズはあっさりとその攻撃を躱してみせた。
「……させねぇよ、クソ野郎が」
残像を纏いながら肉薄してくるパズズの前に、剣を抜いたシェイドが立ちはだかる。両者はそのまま、壮絶なる近接戦へともつれ込んだ。
シェイドの刃と、パズズの剛拳──互いが音を立てて交わる度に衝撃波が生じ、周囲の砂や瓦礫を激しく巻き上げる。
──"あの小娘、中々やりおるわ"。
洗練された動きで繰り出されるシェイドの刃をいなし、隙を見て反撃を繰り出しながら、パズズは不快そうに眉間に皺を寄せる。
「……驚いたか? 俺も正直、驚いている」
パズズの剛拳を紙一重で躱しながら、シェイドは口元を歪めてニヤリと笑う。
シェイドに対し、キリエが身体能力を一時的に向上させる魔術を、間断なく重ね掛けし続けている。それが、シェイドが万夫不当たるパズズとほぼ互角に渡り合うことが出来ている要因だった。
──"中々どうして、思い通りにいかぬものよ"。
シェイドを仕留め切れず、パズズは彼に釘付けの状態が続く。そうなれば当然、気配を殺して死角へと移動しているマルコシアスへの警戒が疎かになる。
キリエが高らかに指笛を鳴らすと同時、背後からマルコシアスが急襲する。警戒が疎かになっていたパズズは反応が遅れ、マルコシアスの体当たりを受けて大きく体勢を崩す。
好機到来──生じた隙を逃すことなく、シェイドはセラフィナを抱えている腕目掛けて、剣を音もなく振り下ろす。
落雷を思わせる強烈なその一撃は、そのままパズズの腕を両断する──はずだった。
「……なっ!?」
手応えが──ない。視線を動かすと、パズズが砂を蹴り上げながら間合いを取り直すのが見える。
回避は不可能と判断したパズズが、自らの身体の一部をほんの一瞬だけ、大気と同化させたのだ。それ故に、斬撃がすり抜けたのだとシェイドは即座に理解した。
戦闘が継続されていることで少しずつ集中力が高まってきたのか、パズズの顔は恐ろしい程に無表情だ。
セラフィナの奪還まで、あと一歩というところであっただけに、仕損じたシェイドの表情はまるで、苦虫を噛み潰したようである。
パズズが三度、間合いを詰めてくる。シェイドも負けじと間合いを詰める。
再び始まった近接戦……だが、今度は明らかにシェイドが劣勢だった。
パズズが本気を出し始めたのもあるが、何よりもあと一歩のところで、セラフィナの奪還に失敗したシェイドの心に焦りが生じたことが大きいだろう。
それまで互角だったはずが、今は攻撃を躱すのでやっとの状態へと、彼は追い詰められていた。
そんなシェイドを援護しようと、キリエやマルコシアスも動く。彼に身体能力を一時的に向上させる支援魔法を重ね掛けしつつ、パズズの気を逸らすべく氷の刃を放つキリエ。息を殺し、再度意識外からの急襲を狙うマルコシアス。
見事なまでの連携であったがしかし、それでもパズズの動きを止めるには至らない。
そればかりか、何とパズズは、キリエの放った氷の刃を空いた手で軽く受け止めてそのまま投げ返すと同時に、背後から音もなく迫るマルコシアス目掛け、尻尾の先端から強酸性の猛毒を噴射するという、とんでもない芸当をやってのけたのである。
マルコシアスは間一髪のところで難を逃れるも、超音速で迫り来る氷の刃を、キリエは躱すことが出来なかった。
「──あぁぁぁぁあっ……!!」
赤い華びらの如く血飛沫が舞い、キリエの華奢な身体が大きくよろめく。膝から崩れ落ち、砂の上に倒れ込んだキリエの脇腹は大きく斬り裂かれ、緋色の血が止めどなく溢れ出していた。
キリエは額に大粒の汗を浮かべながら、治癒魔法で傷を癒そうと試みるも、傷が癒える様子はない。間断なくシェイドの身体能力を強化し続けていたため、潤沢にあった魔力が恐らく枯渇したのだろう。
失血と、傷口から絶え間なく発せられる激痛……キリエの意識は、徐々に遠のいてゆく。
「──キリエ!?」
──"行かせると思うか、小僧?"
気を失ったキリエの元へと駆け寄ろうとするシェイド。彼の行く手を阻むようにパズズが目の前へと瞬間移動し、空いた鳩尾へと強烈な蹴りを放つ。
「──ぐうっ……!!」
シェイドは間一髪のところで左腕を挟み込み、鳩尾への直撃を免れるも、激しい痛みと共に左腕があり得ない角度へと捻じ曲がり、骨が皮膚を突き破って飛び出すのを感じた。
剣を杖代わりに、何とか立ち上がるシェイド……折れた左腕が力なく垂れ下がり、指先からぽたぽたと血が滴り落ちているのが痛々しい。
重傷を負ったシェイドを守るようにマルコシアスがパズズの前に立ち塞がるも、勝敗は最早決まったようなものだった。
パズズは醒めた目でマルコシアスとシェイドを見下ろすと、ゾッとするような声で語り掛ける。
──"人は皆、罪の子なれば。罪には、罰を"。
「……"はい、そうですか"って、受け容れられるわけがないと言っただろう? まだ、諦めるつもりは毛頭ないさ」
──"抗拒は認めず"。
パズズの口が、ゆっくりと開かれてゆく。何と形容すれば良いのか分からぬ強大なる力の奔流が、パズズの口の中へと収束してゆく。
──"汝、塵であるが故に塵に帰すべし"。
パズズの口から、暴風を纏った巨大な火球が撃ち出されようとした、正にその時──
「──やらせはせぬ」
シェイドとパズズの間に一つの影が舞い降りると同時、パズズの顎を拳で撃ち抜いた。轟音と共に、パズズの巨体が後方へと吹き飛び、セラフィナの小さな身体が宙を舞う。
「──アザゼル!!」
「──承知した」
影が──アモンが叫ぶと、転移魔法でドラゴンと共に姿を現した、黒を基調としたハルモニアの将官服を身に纏う、不気味なデスマスクで素顔を隠した堕天使──アザゼルが、地面へと落下するセラフィナの身体を器用に受け止める。
「──間一髪と、言ったところかな?」
自らの腕の中で小さく胸を上下させているセラフィナを見下ろし、アザゼルはくぐもった笑い声をデスマスクの奥より漏らす。
「──アモン」
「うむ──分かっているとも」
起き上がろうとするパズズに、アモンが再度拳を振り下ろす。大量の火薬が爆発したかの如き轟音を上げながら、パズズの巨体が砂の中に大きく沈み込む。
その隙にアザゼルはドラゴンをシェイドたちの元へと急降下させる。
マルコシアスが大きく跳躍してドラゴンの背に飛び乗ったのを確認すると、アザゼルは素早くドラゴンに指示を出した。指示に従い、ドラゴンは血を流して気を失っているキリエと、肩で大きく息をしているシェイドを前足で無造作に掴むと、そのままハルモニアの方へと踵を返し速度を上げる。
「……!!」
眼下には何時の間に姿を現したのか、ハルモニアの大軍勢が蠢いている。角笛や太鼓の音は雷鳴の如く轟き、将兵たちの奏でる凱歌はまるで地鳴りのようであった。
「……帝国軍……何時の、間に……」
「さて、ね……」
シェイドがポツリと漏らした呟きに答えることはなく、アザゼルはただ不気味に含み笑うのみであった。
飛び去ってゆくアザゼルたちの後を追おうとするパズズの前に、アモンが悠然と立ち塞がる。
セラフィナを奪われた怒りに顔を激しく歪ませるパズズを、氷を思わせる冷たい目で見つめながら、アモンは淡々とした調子で、
「──其方の、思う通りに事は進まぬ」
迫り来る黒き大軍勢を背に、アモンはわずかに腰を落として臨戦態勢に移行する。アモンを倒さねばセラフィナの奪還は出来ぬと悟ったのか、パズズもまたそれに応じ臨戦態勢に入る。
知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し。全てはベリアルが、自分たちを抹殺するために仕組んだ罠であることなど、万夫不当の大精霊は知る由もなかった。
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