負けられない戦い……!真夏のゴキブリ戦争

ルっぱらかなえ

第1話

正直この話は書いてもいいのかどうか迷うストーリーである。ゴキブリが苦手な人は飛ばしてもらうことをおすすめする。


飲食店とゴキブリは切っても切れない関係にある。どんなに綺麗にしていたとしても奴らは排水口や、窓からするりと入ってくる。油を大量に使い、常に食材が置いてあるのだ、ゴキブリを完璧に排除するということのほうが難しい。


しかしあの夏、うちの店はかつて経験したことのないゴキブリパニックに襲われたのである。百戦錬磨であろうはずのゴキブリ業者に「かつてこんなにゴキブリが発生しているのを見たことがありません」とまで言わしめたのだ…あの夏の戦いの日々を綴っていこうと思う。


初夏の深夜。閉店後に締め作業をしていると一匹のゴキブリが出た。


「うぇ。そろそろゴキブリの季節かぁ…嫌だね。みんな残飯とかできるだけ床や排水口に残さないようにしてね」


嫌いだけれどもお店をやっていく上では度々出くわすゴキブリ。嫌だが共存をしていかなければならない。


「深夜に出るのは構わないけれど、営業中はやめてね」


ゴキブリに小さく語りかける。ゴキブリは非常に頭がよく、空気が読めるやつだ。電気がついて、人の気配が濃くする場面では滅多にその姿を現すことはない。見つかったら殺される、ということが本能的にわかっているのだろう。


「一匹いたってことは複数匹いるね。一応ゴキブリホイホイ買ってきて、仕掛けておこうか」


副店長と相談し、いつも鮮魚をディスプレイしている棚の下にゴキブリホイホイをひとつだけ設置した。


ゴキブリの姿を目にすることがないまま数日が過ぎた。ある日の深夜「ぎゃっ!!」という女性スタッフの声。洗い場を覗くと、食器を持ったまま固まっている。


「店長!!今ゴキブリが何匹かいましたぁ…」


よほど怖かったのであろう。目にうっすら涙さえも浮かべている。


「ちっちゃい茶色いのと、でっかい黒いやつ。積んだ食器の上に隠れていて。ひょっとしたらもっといるかも…わたしゴキブリまじだめなんですよぅぅ」


茶色い小さいやつということは子供か。ゴキブリが巣を作って繁殖しているに違いない。わたしはすっかり忘れて放置したままになっていたゴキブリホイホイを引っ張り出すと、蓋を開けてみた。


「!!??」


そこにはびっしりと詰まったゴキブリたちがいた。四角いゴキブリホイホイの粘着面に余すところなくゴキブリがくっついている。時間が経ったからであろう、大半は死んでいるようだったが、まだうぞうぞと触覚を動かしているやつもいる。


「やばい!!めっちゃいる!!」


後片付けをしていた他のスタッフも集まってきて、皆で覗き込む。


「うわぁ。これはちょっとやばいんじゃないですか?」


その日の夜本部にメールをし、急ぎゴキブリ駆除業者を手配してもらえるようお願いをした。痛い出費だが仕方がない。


「とりあえずまた新しいゴキブリホイホイ置いておこうか…」


みっちりつまったホイホイをゴミ袋に突っ込むと、固く口を締めた。ゴミ袋がゴソゴソと動き出すような気がして怖い。


次の日、朝出勤をすると真っ先に昨日設置したゴキブリホイホイを引っ張り出した。一人では開ける勇気がないので、何人かのスタッフに見守ってもらう。


そうっとあけると、昨日と同じみっちりとゴキブリが詰まっていた。捕まったばかりだからであろう。皆元気でわさわさと触覚を揺らしている。ぞわっと背中に寒気が走る。いますぐにこのホイホイを捨ててしまいたかったが、これから営業が始まる。生きたゴキブリ密集シートをゴミ箱に突っ込んで営業をする気にはとてもなれなかった。


考えあぐねた結果取り出したのはガスバーナー。お刺身の皮面を炙ったり、お肉に焦げ目をつけたり、クレームブリュレのパリパリの部分を作ったりするアレでゴキブリを焼き殺すことにしたのだ。


ぼうっ


勢いよく火をつけると、目を背けながら火力を強めてゴキブリ軍団にむける。パチパチパチという焦げる音。そして時間差で漂ってくるなんとも言えない臭い……吐きそうになりながらどうにかヒゲが動かなくなるまで燃やし続けた。


(ごめんごめんごめんごめん。無理無理無理無理無理)


鼻の奥にさっきの臭いがしっかりと残ってしまい、その日は一日中袖で鼻を拭う仕草をやめることはできなかった。


業者が来るまでの数日間、毎日毎日このガスバーナーでの戦いは続いた。人間不思議なもので自然と慣れてくる。ホイホイにかかっているゴキブリの数が少なく、粘着面が見えている日は少しだけ物足りないような気持ちがしたものだ。


そして待ちに待った駆除の日。深夜1時にまさに「業者」という格好をした男性二人が店内に入ってきた。手には懐中電灯。腰にはなんだかわからないがカッコ良さげな道具をたくさんつけている。


「これで長かったゴキブリとの戦いも終わるね!よかった。明日から美味しくまかないが食べられる」


彼らが店内をぐるぐるとまわり、棚やら排水口やらをチェックしている間、私たちはのんきにタバコを吸ったり、雑談をしたりしていた。どのくらいの時間が経っただろうか。神妙な顔つきで業者さんが報告をしてきた。


「今すべてチェックが終わりました。…はっきり言ってかなりの数のゴキブリがいます。おそらく痕跡からみる限り相当数いると考えていいでしょう。この後駆除をしますが、現状彼らの巣が見つけられていないので、全部駆除できるかどうか…」


顔が暗い。もごもごと言いにくそうに言葉を続ける。


「この仕事をずっとやっていますが、こんなにも一気に発生してしまったケースは稀です。あと何度か駆除をいれていく必要があるかと思います…。孵化した後の卵がたくさん見つかりました。また孵化前の卵も多数あります。ゴキブリの卵に駆除は効かないので、おそらくこの後さらに増える可能性があるかと…」


(卵?!たまご??タマゴ??)


ゴキブリの卵のことなんていままで考えたことがなかった。ゴキブリ駆除において最も厄介なのは卵である。ゴキブリの雌は自分自身が死を感じると、最後の力を振り絞って卵を産み落とす。少しだけ黄色がかった細長い艶やかな卵。それをお腹を揺らすようにして悶え苦しみ産み落とすのだ。


この卵はたっぷりと栄養分を含んでいるのであろう。どんな過酷な環境化においてもそれ単体で孵化する。そして中からは無数のゴキブリがうようよと出てくるのだ。わたしは実際にゴキブリが卵を産み落とすシーンを目撃する。茶色黒くて大きなゴキブリ。洗い場で見つけて、急いで殺虫剤を大量に吹きかけた。ゴキブリは苦しそうに悶えたあと、腹を上に向けもぞもどと卵を産み落としたのだ。


その生命力の強さとグロテスクさに目を背けることができなかった。彼女から生まれた新しい生命の神秘。忌々しき象徴。あまりのインパクトだったのであろう。数年経ったいまでも鮮明に思い出すことができる。


その夜業者は駆除を実施したが、彼らの言ったとおりゴキブリの数が減ることはなかった。むしろ暑くなるに連れ彼らは増え続け、そしてあろうことかどんどん積極的になっていったのだ。


刺身に飾り付ける木の飾りにくっついている。お玉をだそうと引き出しをあけると、我が物顔で引き出しの中にいる(しかも卵付きで!!)。そしてあろうことか営業中の店内にも顔を出し始めたのだ。


母数が多くなれば、出来の悪いやつの数も増える。空気が読めないやつらは、ピーク時の客席横にひょっこりと現れるようになった。


あるとき、お客さんに呼ばれてオーダーをとりに行くと、彼らの近くの壁に大きなゴキブリがくっついているのを見つけた。


さぁっと血の気が引く。


日本人の大多数はゴキブリに対して苦手意識を持っている。もちろんわたしも含めだ。誰かが「ゴキブリだ!」と叫べば、若い女性などはパニックになってしまう。衛生管理が悪い店として、悪評も広がってしまうだろう。


客数低迷、売上低下、原価沸騰…


気づくとわたしは壁についたでっかいゴキブリを手で掴み、拳の中に隠していた。そして拳を握り締めたまま、何食わぬ顔でそのテーブルのオーダーをとったのだ。


手の中で蠢く触覚と足の感覚。バタバタと羽を震わす振動。しかしそれよりもお客さんが気づかないうちに処理できた、という安心感で胸が一杯だった。


「ご新規オーダー生2丁いただきました!!」


大声でオーダーを通し、早足でデシャップに。お客さんから見えない場所に入ると、洗い物をするための熱いお湯の中にすぐさま手を突っ込んだ。


(ぎゃああああああああああああ)


悲鳴を出さないよう、肩に口を付け叫ぶ。ゴキブリは熱いお湯の中で溺れ、しばらくするとぷかりと浮かんできた。


その夏、わたしは一体何匹のゴキブリを殺したのだろうか。絶対にたくさんのゴキブリの恨みを買った。彼らの怨念が形になったらわたしはひとたまりもないだろう。


最初は一面にびっしりついていたことで驚いていたゴキブリホイホイはいつからかゴキブリが2段で捕獲されているようになった。みっちりくっついた彼らの上に重なるようにしてさらに多くのゴキブリがくっついているのだ。


乗車率200パーセント

ゴキブリのミルフィーユ


ガスバーナーで焼き殺す恐怖心も、鼻をつく臭いもいつしか日常になっていくから不思議だ。慣れは怖い。


そんな彼らとの戦いは、ある日ぱたりと終わりを告げた。月に何度か来てくれていた業者から連絡が入ったのだ。


「彼らの巣を見つけました。刺し場上の食器いれの中にダンボールでできた使用済箸入れがあって。そこが彼らの巣になっていたようです」


いつ誰がそんなところにそんなものを入れたのかはわからないが、とにかく巣が見つかったことによって駆除は一気に進み、いつしかゴキブリの姿を見かけなくなっていった。


蒸し返すように暑かった日々が終わり、秋の風が気持ちよく吹く季節になっていた。


一夏のゴキブリ戦争。

もう二度と彼らと戦うことだけはしたくない。

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負けられない戦い……!真夏のゴキブリ戦争 ルっぱらかなえ @beer-ppara

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