至軌

 私はネオンに照らされた繁華街を歩いている。時間は九時を少し回ったところ。

 仕事終わりに飲んでいるのだろう。酒の回った大人たちが頬を赤らめておぼつかない足取りで歩いている。私はそれらに絡まれないように早足で進んだ。

 一度、私に声をかけてきた酔っ払いがいたけどもちろん無視した。そのほうが自衛になるし何より楽だからだ。結局、私も私以外も自分中心。自己中心的な人間。

 ネオン溢れる繁華街から一本横道に入る。ビルとビルの間にねじ込まれているかのように捨てられているゴミたちを尻目に私は歩いていく。一本通りから外れると、ネオンで溢れていたのがまるで嘘かのように、誰も通らない寂れた通りに様変わりする。私は死ぬとしたらここが良いなと思っていたビルの前に立つ。小学校の時に塾が入っていて、通っていた場所。そして今年の春に三春たちと写真を撮りに来た場所。私の原点。

 春に訪れた時と何ら変わりなく、それはそこにあった。私を待ちわびているかのように思えた。

 鍵がかかっていないことはあの日に確認してある。念の為、別日に鍵がかかっていないか確認したがかかってはいなかった。もしかかっていたらこの日を延期する羽目になるから。

 私は周囲に誰も居ないことを確認して、音をたてないように扉を開けて入った。

 昼でさえろくに光が入っていなかったのに、夜になったら薄明かりすら無い。夜の延長線上、夜の囲い、夜の縁、なんて言っても差し支えは無いだろう。

 スマホのライトで地面を照らす。灰色の階段が薄っすらと光に濡らされる。私は階段を踏み外さないようにしっかりと見ながら歩いていく。さすがに階段から足をすべらせて転落死、なんて恥ずかしすぎて死にきれない。

 三階まで登って、一旦息を整える。夜ということもあって、必要以上に神経を使っているのかもしれない。

 息を吐くとそれは白く染まった。

 足音一つひとつ、踏みしめていく。それはきっと私が私に贈る賛美歌。人生をやりきった自分に対する賛美歌であって私に対して罵倒を繰り返している歌。私すら、私の人生を肯定してはくれない。私以外の誰も私の人生を肯定してくれない。写真を撮っていた時間のことも、恋人に好きを伝えた瞬間でさえも、肯定できないのかもしれない。だって今では写真を撮ることを楽しいと思えなくなってきてしまっているし、恋人に関しては世間がそれを許さないだろうし。

 階段を登るごとに、思い出が吹き出ては消えるのを繰り返す。所詮、記憶なんてものはそういうあやふやなものだ。けれど、そのあやふやなものに縋らなければ皆生きていけない。縋るのをやめてしまったら、もう私のように死ぬことしか残されていないから。人生にはなにか縋るものが必要なんだ。こだわりだとか、趣味だとか、恋人だとか。私にはもう全部関係のないものになってしまっているけれど。

 屋上の扉の前に立つ。ドアノブに触れると、思ったよりも冷たかった。まだ、自分の体温があることを認識してしまって、私は扉を開ける。冷たい空気が私を包みこんで、宵が迎え入れる。満月が一連の流れを見ていた。

 刺々しい寒さが私を襲う。もう少し厚着をしてこれば良かったな、と人生最後の後悔をしておいた。今更後悔が一つ増えたところでなにも変わらないだろう。

 夜に慣れ始めた目で屋上を歩いていく。死ぬのを止めようとするフェンスを乗り越えて、数センチしかない地面に降り立つ。あとは一歩踏み出すだけ。

 少し視線を動かせば、ネオンが、人々の喧騒が訴えてくる。生を訴えてくる。タノシイヨって訴えてくる。もう十分楽しんだし、十分苦しんだから、もう大丈夫だよって言いたい。けれどあの人達は毎回止めてくる。だって、生っていうのは何個も読み方があるから、根本的に同じ意味の事を言葉を変えて、やり方を変えて、訴えてくる。

 だから、私はさっさと死んでしまう。訴えられるのもつかれたから、さっさと休んでみよう。

 私はぼーっとその喧騒を眺める。嫌でも訴えてくる喜楽の感情を眺める。結局、私はその感情をしっかり味わう事が出来なかった気がする。きっと、自分の性格が関係しているんだろうけど。

 十分ぐらい眺めて、正直体の芯まで冷え切っていたから、さすがに死のうと思った。私には思ったより未練とか言うものが存在していて、それに私は執着しているようだった。

 頭を振って、脳内に冷たい空気を送り込む。そうすることで、少しは死にやすくなるかと思った。本能っていうのは簡単には殺せない。面倒だ。

「クソが」

 口汚く自分を罵る。死ねない私に価値など無い。きっと。

 急に立っていられなくなって、背後のフェンスにもたれかかる。フェンスが耐えきれなくなったように軋んだ。

 ああ、私はもう駄目なのかもしれない。そう思った、希死念慮を持っているだけのただの人間にはどうにも出来ないのかもしれない。死ぬことも生きることもできないのかもしれない。

 どうすれば、いいんだ。

 目になにか熱いものが集まってきた。それがこぼれないように、私は上を向く。目を瞑る。自然とその熱が消えるのを待って、やっと私は前を向く。深呼吸をして、なにもかもに絶望する。切望する。今まで生きてきた人生に絶望して、今まで過ごしてきた時間に戻りたくて切望する。

「そこ、危ないよ」

 夜の静寂に隠れるように、掠れた少年の声が聞こえた。

 今更、何を分かりきったことを言われても、私にはどうしようもできない。もうここから動きたくないから。動いてしまったら、私はもう死ねない気がしたから、動けない。

「……分かってる、そんなこと。分かってるからいるの」

 少年にこの言葉の真意が伝わるか分からなかったけれど、言ってみた。少年にとって、私は見ず知らずの人間。そんな人間にまた喜楽の感情をぶつけられると思うと反吐が出る。

「そう」

 少年の小さな声が届いてきた。その声からは喜楽の感情を押し付けてきている人たち独特の明るい雰囲気とか、人生は楽しいみたいなプラスの感情をおおよそ感じられないものだった。

「死ぬの?」

 少年は分かりきったことを聞いてきた。

「死ぬよ」

「そっか」

 少年は淡白に返事をする。それがありがたかった。でもそれが怖かった。

「止めないの?」

「……止めないよ。止めたところで、意味がないよ。死にたい人間に何を言ったところで、意味はないから。苦しめるだけだから」

 ああ、この人は分かっている人なんだな、と思った。私の事を分かってくれる、死のうとしている人のことを分かっているんだと思った。この世には優しい人がいることを、思い出した。

「そっか」

 今度は私が少年の立場に回る番だった。

「君はこんな時間に、こんな場所に、なんで来たの?」

「……散歩だよ」

 わかりやすい嘘を付くんだなと思った。嘘を付き慣れていない、優しい人間なのだろう。私とは違って人に愚直に向き合ってきたのだろう。

「こんな夜に散歩なんて、危ないじゃん。へんな人に襲われちゃう」

「君には言われなくないよ」

 少年は鼻で笑った。

 私は振り向いて、フェンスに登る。そして少年の姿を視界に収める。

 少年は黒のガウンを着ていた。髪の毛は女の子のように長く、校則では引っかかりそうだ。少年の顔は暗闇でも分かるほどやつれていた。私と同じように。

「また、明日」

「また明日も来るの?」

「うん」

 私は少年の横を通り過ぎる。

「ねえ、君、スマホ持ってる?」

 私は振り向いて聞いてみる。少年の肩が震えたのが分かった。

「もってない」

「現代に生きてないね、君は」

 一瞬悩んで、メアドを口頭で伝えることにした。この少年になら、色々言える気がした。というより、この少年しか共有できないものがあると感じた。

「メアド、口頭で行くね。AMIAMI−narumi00@――」

 少年は何度か私のメールアドレスを口の中でつぶやいて、「覚えた」と答えた。

「それじゃ。これからよろしく」

 出来たら一緒に死のうね。そう頭の中で伝えて。



 



 何度かメールを繰り返して、何度か会って、分かった事がある。彼の名前のことだったり、彼の好きなものだったり、生死観だったり。けれど、一ヶ月あっても、私達は肝心なことに踏み込めずにいた。多分今日もそうなるだろう。だから、私は彼をその気にさせようと、少しいつもより話してみようと思った。

 彼と屋上で会っても、とくに何かするわけではない。いつもメールで会話している分、屋上では静かにただ夜景を見つめていることが多い。

「ねえ、エロスとタナトスって知ってる?」

 いつもの静寂に私の声が加わった。そのことに驚いたのか、彼は目を瞬いていた。

「知らない」

「知らないか」

 私は月を眺めながら少年に話し始める。少年をその気にさせるために。そのために細心の注意を払って、言葉を選ぶ。

「……両方ともギリシャ神話の神様の名前なんだけどさ、エロスが生の衝動。人間の根本的な、子孫繁栄だとかそういう前向きなもの。生きたいとか、そういうやつね。リビドー、のほうがこの場合は適切なのかな。どうなんだろう。タナトスが、死の情動。エロスの対を成す……いや、エロスの影にいる存在、かな」

 ちらりと彼を見る。彼はじっと目を瞑って、その先の言葉を待っていた。

「私さ、ずっとタナトスに見られてるんだよ。きっと。好かれてるんだよ」

 視線を落とす。荒いコンクリートが私の視線を反射している。自分の頬が自分の感情をごまかすみたいに、引きつったのが分かった。

「親がね死んだの。私が中三の頃に、物置にあった、私達が昔使ってた二段ベッドで、首をつって。借金でさ、自殺したの。私とお姉ちゃんに無理矢理、愛と借金を全部なすりつけて。自己管理出来ずに死んだの」

 けれど私は両親を責める事ができない。だって、私も自己管理が出来ていないから。出来ていたらもっと幸せな人生を得られていたはずだ。死にたいなんて思わなくて良かったはずだ。苦しまなくたって良かったはずだ。愛していたから、これ以上迷惑をかけないよように死ぬなんて、親のエゴでしかないんだ。全部全部全部、エゴだ。

「その時から、私は希死念慮に囚われた。前からあったけど、それがもっと強く、明確に、透き通って、私にやってきた。そこから、私の人生は崩れたの。まずね、お姉ちゃんが、大学を卒業して、カメラマンになったの。私の好きなものでお金を稼いでるの。それが嫌だった。おかしいかもしれないけど、嫌だったの。冒涜じゃない? 好きなものからお金が発生したら、もうそれは純粋に喜楽の感情で好きなものをしているなんて思えない。汚いって、思っちゃった。贅沢な人間だから、こんなことを思うのかもしれないけどさ」

 しょうもない人間だと、思われただろうか。私は怖くて彼の方を見られなかった。死ぬ理由なんてしょうもないものが多い、なんてどこかで聞いたけれど、それはフィクションの中だけなのかもしれない。だって、人間は、みんなちいさい。ちいさい心のなかにちいさい苦しみを抱える。些細でちいさな、苦しみ。私達はそれに苦しめられている。

「あのさ……ごめん。やっぱなんにもない」

 彼は僅かに唇を震わせながらそう言った。

 私は何も言わず彼のその言葉を聞き届けた。今日も、だめだったらしい。

 そう思って、なんとなくフェンスに手をかけた。がしゃんと音がなって、彼の声が空気に混じった。

「僕は君に、謝らなければいけない、ことがあるんだ。本当はもっと早くに言うべきだったんだろうけど、少し遅くなってしまったけど、許してほしい」

 私は頷いた。それを見て彼がじっと目を閉じた。

「少し、話をしよう。とてもしょうもない、身の上話なんだけど、それでもよかったら聞いてほしい」

 彼は口を開いた。その口の端はわずかに震えていた。

「わかった」

 なんとなく、察した。そして、私の作戦が成功したことが分かった。あと、少しで、多分私達は。

「あのね、僕もあの時、死のうと思ってたんだ。君を止めたのも、なんとなくだった。目の前で死なれるのが嫌だった、というよりは、通じ合いたかったのかもしれない。孤独な気がしていたから、通じて、満たされたかったんだよ。最後くらいは」

 知ってたよ、なんて死んでも言えない。私は静かに彼の言葉に耳を傾ける。

「僕は、愛されたかったんだ。恋愛的なものじゃなくて、もっと純粋なもので。残っている家族だって、いまは正体も分からない大宇宙調和共生法なんていうものに縋っている。僕を見てもくれなくなった。僕はおおよそ、愛されたことが無いのかもしれないんだ。愛されたことを実感できていないから。死んだ父親は、死ぬ前に今が一番愛されているなんて言った。そしたら、僕は今まで愛されていなかったって言われたように感じたんだ。その時は分からなかったけど、今になって、そうとしか思えなくなったんだ」

 彼の話を聞いて、私はやっと分かった。なんで彼となら共有できると思ったのか。

「私達は、愛されなくて、愛せなかったのかな」

 彼は私を見て、頷いた、

「きっと、ね。僕らには、扱えないものだったのかもしれない。愛を受け止められる器がなかった。反対に、死を受け止められる器ばかり育ったのかもしれない」

 そう言って、彼は立ち上がった。私も立ち上がった。

「じゃあ、僕らはもう無理だね。もう未来が無くなってしまった」

 私はフェンスにかけている手に体重を乗せる。ぐっと、力を入れる。目の底にネオンが染み付いた。そのままの勢いでフェンスを乗り越える。今乗っている数センチの幅がこんなにも魅力的に思えたのは初めてだった。

「じゃあね、愛夢あいむ

 私は少年に声をかける。少年は遅れてやってきて、私の隣に立つ。

「ああ。さよならだ、あみ

 隣には見慣れた、同じ考えの持った、同じ死想を持った人が居た。この人がいるから、私は死ねる。この人がいるから、私は死にたくなるんだ。

「ねえ」

 私はもう一度彼に声をかける。彼は律儀にこちらを見てくれた。その黒瞳は透き通っていた。

「行こう、私のタナトス」

 夜風が吹いた。私と愛夢の髪の毛を弄んだ。月がきれいで、ネオンが眩しかった。

 私はこの瞬間だけは愛せる。そう思った。だから。

 私達は、死の情動に身を任せた。

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ストロボの風景 宵町いつか @itsuka6012

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