死期

  夜の美しい蒼い空。全てを包み込むような鋭い空気。

 それが私をまだこの世界にとどめているものだった。それ以外、私をこの世界にとどめているものはもうなかった。

 あとはもう背中押されるだけでいい。あとは万有引力に任せて落ちていけば良いんだ。

 けれど、最期くらい、誰かと通じ合いたかったと思ってしまう。出来なかったことを、したいと願ってしまう。成海畢なるみあみという人間はそういうものだった。極端に一人を嫌う人間だった。一人で生きれたら、もっと楽だったのに。一人で生きる力を持てなかった人間だった。



 1



 私は制服についたシワなんて気にせず、仰向けに寝返りを打った。

 後輩である三春の、あの悲痛で絶望に満ちた表情を見てから、もう七ヶ月も経った。十一月。もう冬の入口だ。

 私はベッドの上で体の力を抜く。静かに体が沈み込んでいくのが分かった。

 真っ白な天井が視界を埋め尽くす。

 今年の三月、死のうと思った。死のうと思った理由はないけどきっかけはある。しかしそれが理由にはならないことを私は分かっていた。私はそこまでなにかと理由をつけて物事を進めるということが無かったから、今回もそれの延長線上みたいに思っていた。きっかけと理由。それはつながりやすいけれどイコールではない。理由付けを考える力がなくなるくらいに、疲れていた。それだから、私にはもう生きるとかなんだとか、そういう前向きな感情はこれっぽっちも残っていなかった。

 ベッドから上体を起こすと、嫌でも私が撮った写真たちが視界に入る。もう辞めたはずのものを捨てられずにいるのは、きっと私が女々しいからだろう。私は強い人間だと自分を評価していないし、する気もない。どちらかと言えば、私は自分の意見や発言に自信を持てないような人間なので、捨てるのが良いのか、はたまた捨てないのが良いのか、よく分からずにいる。第三者の意見ばかり聞いていたら、いつの間にか自分で思考さえできなくなってしまった。人生というものは、自分で選択し、自分で何かしなければ、自分が後悔するということにさえ気が付けないのかもしれない。今の私のように、ギリギリになって気がついてしまうのかもしれない。

 私は冷たいフローリングの上を裸足のまま、擦るように歩いてキッチンまで行く。昨日の自分がやらずに放置していた洗い物が昨日のまま止まっている。

 親が借金に溺れて死んで、私は親戚の三枝さえぐさという家に引き取られた。このマンションも私の通学の為に借りてくれた。昔、私の親に助けられたとか言って、私と姉を引き取ってくれた。親の借金も肩代わりして返してくれた。それができるんだったら死ぬ前にやってくれよ、なんて思ったけれど、私の親は他人に頼れなかったようだった。現に、私たち家族の借金のことは、誰も知らなかったらしい。だからきっとその借金が投資で出来たものということも私と姉しか知らないことだろう。それくらい親は口が堅かったし、プライドも高かった。自分たちは失敗しない、そう考えていたから馬鹿な事をしたんだ。だから最期も自分たちの失敗を認めず、遺された側の私たちのことなんて考えず死んだ。無責任だ。エゴの押しつけだ。

 私は蛇口を捻り、冷水に手を濡らした。一日ぶりに触れる使い古したスポンジは、やけに頼りなかった。

 スポンジで昨日使ったフライパンを洗いながら、私の犯した無責任な罪を、押し付けがましい日々を思い出す。後輩にも、恋人にも、三枝さんにも、お姉ちゃんにも悪いことをしたと思う。けれど、後悔はしていない。私の中で納得できている事柄だから。でもそれらはすべて、私の中でしか完結していないものだから、第三者から見たら意味のないものなのだろう。

 気泡の大きい泡を水で洗い流す。生理のせいで肌がすぐに荒れてしまうからハンドクリームを塗らなければならない。正直、面倒だけど仕方がない。こればかりは女という性に生まれてしまったから折り合いをつけなければならないのだろう。生理前の過食も、肌荒れも、情緒の不安定さも、苛立ちもすべて。

 食洗機の中に食器を全部入れて、私はまたベッドに寝転がった。微睡みを誤魔化すためではない。疲れを癒やすわけではない。ベッドの上くらいしか、写真を見なくても良い場所がないのだ。

 天井に向かって、視線をやっているとなにかもったいない事をしているように思えてしまう。いつもなにかしらしていた人間だったから、虚無になれる時間というものがおおよそなかった人間だったから、焦ってしまう。虚無になっている時間があれば自分を傷つけていたから、こうやって腐っていく自分がいるのが怖いのかもしれない。自傷の形が変わっただけだというのに、一体何を怖がれば良いのだろうか。ああ、違う。私は絶対的なものに殺されたくないのだ。絶対的なものが怖いのだ。

 殺されるなら時間という見えない絶対的なものよりも、私か、元恋人かに殺されたい。前者なら心中的にできるし、後者なら少し泣いてから死ねるかもしれない。そういうありきたりな事を思ってみる。

 そんな事を思っているあたり、もうそろそろ潮時なのかもしれない。

 私はそう思って、カーテンレールに掛かっている焦げ茶色のコートを羽織る。ずっと頭の中でしか出来ていなかった行動を起こそうとした。今までこのコートすら羽織ることが出来なかったのに、今日羽織ることが出来ている時点で昨日の私よりも一歩前進していたことは確かだった。

 私は視界に写真が極力入らないようにして、玄関に急いだ。玄関に置いてけぼりになっていたスマホをコートのポケットにねじ込んで、家を出た。

 エレベーターに乗り込んだところで、制服のままという事を思い出して、スマホで時計を確認する。時刻は八時。まだ補導されるには早い時間だろう。それに死んだ時に制服ならば私服だったときよりも早くに身元が分かるだろう。

 頭の中の疑問に対して答えを与えながら、私は夜の街に繰り出した。

 夜独特の、神聖で厳かな雰囲気が住宅街を包んでいた。どの家からも光が漏れていて、そのどれもが優劣のつけられないほど温かいもののように感じられた。元々、優劣なんてつけるものでは無いのかもしれないけれど。

 住宅街を抜けて、寂れた駅に入る。改札機のない、田舎の駅。けれど改札機の代わりにICカードを読み込む機械だけが鎮座している。駅の蛍光灯を反射している緑色の部分に意味もなく触れて、切符発券機に向かう。

 お金を入れて、時間のせいで色褪せてしまったボタンに触れる。小さく電子音が鳴って、切符が発券される。静かな夜にはそれがよく響いた。

 駅の小さなホームに入ると、私と同じ高校生の少年が色褪せた水色のイスに座っていた。

 ホームを見渡して、私と少年しか居ないことを確認する。私は少年の隣りに座ってみる。少年は上下線ともやってくる線路から視線を外して、私を見つめる。そして軽く会釈をした。その顔にはぎこちない笑みが浮かんでいた。多分私にも同じような顔が浮かんでいたと思う。

「どうも」

 私は前を向いて少年に話しかける。少年は「ども」と短く返事をした。

「こんな時間に一人で外出ですか?」

 少年が聞いてきた。私も少年の立場だったら聞くと思う。補導されるとかそういう事を説くんじゃなくて、純粋な疑問として聞くだろう。自分の欲を満たすために。

「んー散歩かな」

 少年が足を組んで、前かがみの姿勢になる。

「こんな時間に? 頭いいところはやっぱなんか変なやつ多いんですか?」

 失礼なこと言うもんだなーと思った。けれどあながちそれも間違いでは無いから否定はしない。私の通っている学校は県内でも上位の進学校。頭が良くて頭のネジの壊れた人たちが多い。

「そうだね」

「……頭が良いっていうのも難儀なものですね」

 少年はそう言って立ち上がる。近くの警報機が鳴って、電車がレールの上を走っている。

 電車は少年の前で止まって、扉を開ける。

「それでは。夜ですから、気をつけてくださいね。頭のおかしい男が襲うかもしれません」

 少年はそう忠告して、レールの上に戻った。

 私はそれをイスの上から眺めていた。

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