四季
壁に掛かった一枚の写真がある。
青空を背景に、一眼レフカメラを覗き込んでいる女学生の姿。風に
その完璧で美しい先輩をこの世界から切り取ったのはそれが最初で最後だった。今となってはそれを深く後悔している。
だって、先輩はその後死んだから。
1
なんとなくシャッターを切った。逆光で撮ったから少年の表情までは分からない。分かるのは少年のシルエットと傍に黒猫が座り込んでいるということだけ。
シャッター音に気がついたのか、少年がこちらを見た。遅れて潮風がやってきた。
少年は訝しげにこちらを見る。黒猫も釣られるようにこちらを見て、驚いたのか体を震わせ、堤防に沿って駆けていった。私の視界から一瞬で消えて、少年の驚いた顔だけが残った。
「すみません。驚かしちゃったみたいで」
私は少年に向かって頭を下げる。少年からすうっと表情が抜け落ちていった。
「いえ。気にしないでください」
少年はため息をついて言った。どう考えても大丈夫ではなさそうだった。けれどそれを問い詰めるほど私と少年は親密な関係でないことは確かだった為、私は言葉をそのままの意味で受け取った。
私は少年の近くまで行く。少年は少し面倒臭そうな表情になって私から距離を取る。
先ほど撮った少年と黒猫の写真を表示させて画面を向ける。少年は義務的にそれを一瞥して興味無げに「いいじゃないですか」と言った。その視線はすぐに海に行ってしまった。
「私、写真部なんです。毎年、文化祭に部活で会報を製作することになってて。それで、なんとなく被写体になりそうだったんで」
撮らせていただきました。
私がそう言うと少年は「あーはいそうですか」とやはり興味無げに、面倒臭そうに言った。少年にとって猫以外はどうでもいいのかもしれない。それか、人と話したくないのかもしれない。それだったら申し訳ない事をしたなと思う。
少年はちらりと私を見て呟いた。
「それ、顔写ってないんだったら会報にでもなんでも使って良いよ」
「その言い方だと、まるでさっき見てないみたいですよ」
ふふふと笑い声が漏れてしまう。少年はそんな事を気にせずまた海を見た。
全く似ていないのに、私はこの少年と先輩が似ているような気がした。性別も、顔立ちも、声も、雰囲気も違うのにどこか先輩味を感じた。
2
結局、今年も入学式までは桜は保たなかったことに思いを馳せながら、私はカメラを構えた。校舎をバックに緑とピンクの混じった桜の下で熱心に写真を撮っている先輩にピントを合わせてシャッターボタンに指を添える。力を込め半分押し込んだところで、止めた。緑色の枠が点滅してすっと消える。先輩が世界に同化した。
「三春、どうしたの?」
先輩が私に聞いてきた。けれど私は何もなかったように首を振った。
「大丈夫です。気にしないでください」
先輩は「そっか」と跳ねるような言葉を落としてまたカメラのレンズを覗き込んだ。今、彼女の視界にはカメラしか映っていないのだろうと思う。彼女とカメラというのはそれほど強く繋がっているのだ。
数分間そうやってカメラとにらめっこを楽しんだ後、先輩は唸って結局写真を撮ることを諦めたようだった。
「部室戻ろっか」
そう全てを忘れて、けろっと笑う先輩に向かって、そうですねと笑ってついていく。私には拒否権が無いし、無くても良いと思っている。先輩に逆らったところで私に利益がないことは確かだった。
本館の隣りにある部活棟。その四階の一番端っこにある埃の被った部室。そこが私の所属している写真部の部室だった。
学校の机が教室の中心に四つ陣取っている。少しでもおしゃれに魅せる為に真っ白なテーブルクロスが敷いてある。しかし養護イスのせいでその頑張りも無意味になってしまっているが。
「あ、おかえりです。二人共」
砕けた敬語で私達を迎え入れたのは私と同級生の
「写真、撮れました?」
凛音の声に先輩が動きを止める。先輩は乾いた笑い声をこぼしながら凛音の向かいに座った。私もかしこまって先輩の隣りに座る。先輩がすっと一眼レフカメラを机の上に置く。私も同じようにしてデジカメを置く。なんとなくそれで察したのだろう。凛音はため息をついて苦笑いになった。この流れも入部してからの二年間ですっかり見慣れた光景になってしまった。それが少しさみしくて嬉しかった。
「いいですよ。もう。わかったんで」
凛音は缶コーヒーを置き、肘を机につけて頭全体を支えるようにして目頭を抑える。彼女の背中から心労が溢れ出てくるように思えた。
「――間に合いませんよ? まじで。分かってます? 自分たちの置かれた状態を!」
凛音は語句を強めて私達を詰めていく。この流れももう見慣れてしまっている。だから次の言葉も分かってしまう。次の言葉は、分かってたらこんなこと――。
「分かってたらこんなことしませんよね! また私が先生に謝るんですか? 会報出す時、なんで私は毎回先生に謝んなくちゃいけないんですかっ」
私と先輩は肩を縮こませる。凛音の口から吐き出される言葉は全て本当のことだから返す言葉がない。だから受け止めるしかないのだ。
「それは……ごめんね?」
「なんで疑問形なんですか。もっとちゃんと謝ってください」
ジト目になって彼女は言った。そして缶コーヒーを一口飲んで「よし決めた」と芯の通った声でつぶやいてから私達に向き直った。
「三人で撮りに行きましょう。合宿です」
その声にかぶさるように先輩の悲鳴に似た反対の声が部室たっぷりに響いた。
「いやいやいやいやいやぁぁぁぁぁ」
先輩は隣りでプルプルと痙攣したように首を振っている。よほど嫌らしい。いつものことと何も変わらないはずなのに。
「なんでそんな嫌がるんですか?」
かつんと缶を指先で小突き、凛音は言った。
「だってそれって強制的に写真撮らされるじゃんかぁ」
今までに聞いたことのないくらい情けない先輩の声。新鮮で、滑稽で。面白く感じた。
「それくらいじゃないと撮らないでしょう? 二人共、そういう人たちじゃないですか」
この中で一番大人なのは紛れもなく凛音だった。
3
「――え、ここなの?」
私の口から無意識に言葉が溢れた。私達三人の目の前には廃ビルがあった。
学校の最寄駅から四駅乗り継いで、そこからバスに十五分くらい揺られてやってきたのは元々塾だった場所。近くに新しくライバルのチェーン店ができてしまったこと、それに伴っての塾生の減少が重なって閉鎖を余儀なくされた。今は雰囲気もさることながら幽霊の出るビルと言われている。本当に幽霊がいるのかはわからない。
「ちゃんと許可取ったの? 取ってないよね? よし、帰ろ」
「ちゃんと取ってますから安心してください」
そう言って凛音は扉を開けた。目の前にぽっかりと出現した暗闇は全ての光を吸い込んでしまうかのような全能さを放っていた。
先輩は苦々しい顔を浮かべている。どうやら先輩は目の前の暗闇に対して恐怖を抱いているらしかった。もちろん、それは私も例外ではなかった。
先輩は何かグチグチと小言を言いながら暗闇の中へ足を進める。そんな足取りはひどく重そうだった。
先輩の雪のような肌が暗闇に犯されていく。それは甘美なものだった。少なくとも私にとっては、この世で一番美しいものだった。耽美であった。
先輩に次いで、凛音、私と続く。じっとりとした暗闇に身を落としていく。
入るとすぐに階段があった。横には通路があって、部屋に通じる扉。その奥にもう使われていないエレベーターが佇んでいる。このビルの中は時間に汚染されて、その時のままの完全な状態で死んでいた。
薄闇の中、先輩が口を開いた。
「暗いね」
「ですね」
先輩の震えたつぶやきに凛音が返事をする。先輩の声とは裏腹に凛音の声は明るかった。凛音はホラー映画をよく見ると言っている事があったからきっとこのようなところも平気なのだろう。理解できない物に恐怖を感じずに生きていける人間なのだ。
三人で階段を歩いていく。埃を潰して、私達の足音三人分が響いていく。その三人分の足音は私の心を焦らせた。どうしてか分からなかったけど焦らせた。何か大きな事が起こってしまう。そんな気がした。
二階、三階と進んで行くと共に薄闇が晴れていくのが分かった。階段を登りきると、今までとは違って僅かなスペースの奥に重厚な扉が待っていた。埃の被っているドアノブには立入禁止と赤い文字で緊張感を持たせた看板が掛かっている。どうやら屋上らしい。
凛音は迷いなくドアノブに手をかける。入るときも思ったが、このビルには鍵が与えられた役割を果たしていないらしかった。
「本日は屋上も侵入しちゃいますよ」
その声には、学校では入れない場所に入れるといった緊張や非日常に関する歓喜が混じっていた。
「おお……」
唸った先輩の声からはやっとこのじっとりとした薄闇から開放されるという安堵が読み取れた。口数が少なかったのは薄闇の中で階段を踏み外さないようにしていたということ以外にも闇という絶対的なものに対する不安や恐怖といった感情があったからだろう。
悲鳴のような音を立てて扉が開いた。使われていなかったというのに扉は案外スムーズに開いて、新鮮な空気と暖かな光を連れてきた。
「――おお」
先輩は先程と違って感動に似た声を出した。先輩の頬に茜が差した。
数分ぶりの青空はやけに青々しくて一瞬目が痛くなった。久しぶりにこんなにも広い青空を見た気がした。
屋上からは商店街と、同じような家の並んだ住宅街。
「きれいですね」
私はそう言って先輩を見つめる。先輩はバックの中に入っていた一眼レフカメラを早速組み立てていた。どうやら意欲が湧いたらしい。
「私も撮ろ」
凛音もスカートのポケットからデジカメを取り出してパシャリと写真を撮った。私も習って青空にデジカメのレンズを向ける。シャッタースピードを早くして、より青を鮮明にする。パシャリと切り取られた世界は、いつも見ていたものよりも美しく完成されたもののように思えた。
写真の醍醐味というのはこの瞬間にあると思っている。現実にあるものを切り取る。それは時に実際にあるものよりも美しくなる時がある。それはまさに一つの美しさの完成形とも言える。だから世界の完成を何度も見届けている私を私は好きだし、先輩も凛音も好きだ。彼女たちも世界の完成を何度も見届けてきた人たちだから。
先輩が歩いていって、屋上の中心を陣取った。彼女はそのままカメラを構えて、覗き込む。何度か瞬きした後、少し角度を調整して、また瞬きを繰り返す。一歩後退したり、二歩前進したり。彼女は楽しそうだった。
私はカメラを構える。下の方から覗き込むようにして。
ふわりと風か吹いた。
先輩のスカートが波打った。先輩の髪の毛が花咲いた。
先輩がシャッターを切った。
私はほとんど同時にその光景を世界から切り取った。
完璧な世界を切り取った完璧な先輩の姿を。
4
それから二時間くらい写真を撮った。もう陽は斜めに傾いている。私は写真の選定を無言でしていた。隣りから電子音が聞こえる辺り、先輩も同じことをしているんだろうと思う。
「先輩、どうでした? 良いやつとれました?」
私は横目で先輩を捉えながら聞いてみる。先輩は唸ってからつぶやいた。
「お姉ちゃんには負けるけどね」
先輩はそう言ってカメラの電源を切った。無造作に膝の上に置かれた一眼レフカメラは、レンズが外されていて、今は代わりにレンズキャップが取り付けられている。そのせいでいまは何も写せない様になっている。
「フリーのカメラマンでしたっけ?」
「うん。いちおうね。いつも金欠のフリーカメラマン」
先輩はくすりとわらう。冗談めかしているが、先輩がそう笑う時は大体恥ずかしがっているときだ。
「いいですね。近くにカメラをやっている人がいて」
私がそう言うと先輩は確かにうなずいた。
「たしかにね。その分こうやってカメラとか弄れるし」
先輩は指先でカメラを小突いた。そうしてくすりとわらった。
「みはる、このカメラもらってくれる?」
「は? 急になんですか?」
無意識のうちに手のひらに、じわりと汗がにじんだ。
「いや、ほら、六月じゃん。文化祭。だから、それがおわったら――」
わたしはいんたいして、もうかめらもいらなくなっちゃうから。
そう言って、せんぱいは私の膝下にカメラを置いた。
「だめですよ。せんぱいは、とらなきゃ」
わたしはかろうじてそれだけ言った。それだけしか言えなかった。私にとって、写真を撮っているせんぱいは完璧だから。写真を撮っているせんぱいこそ、かんぺきな人だったから。完璧をつくりだす完ぺきな人、だったから。
先輩は「参ったな……」と、首筋をかいてうなった。首筋にしろい線が生まれて、それがすぐに紅くそまった。
「じゃあ」
先輩がそう言って、私の膝からカメラをすくいとる。カメラケースにしまってあったレンズをとりだして、とりつける。
「これで最後、ね」
先輩はそう言ってカメラを構えた。私はこの瞬間が終わらないでほしかった。尊敬していた先輩が、完璧である姿のまま止まってほしかった。
無慈悲にも、シャッターは押された。
嫌な音が、鼓膜を揺らした。それが先輩が先輩であった最期の瞬間だった。
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