ストロボの風景

宵町いつか

始期

 時の止まった表情。二度と動かない筋肉。光の通さない瞳。蝋人形のような、宝石のような、あなた。それは美しい、ついだった。人間として一番美しい終だった。



 1



 カシャリ、とシャッターが切られた。

 背後の天窓から太陽の光が差し込んできている。その光は階段の踊り場で座っている俺を静かに包み込んでいた。視界の端でアルミ製の階段用滑り止めが鋭く光を反射させていた。

「祐利」

 俺は階段前でスマホを構えて苦笑いで停止している少年に向かって声をかける。彼は乾いた笑い声を落として言い訳を始めた。

「ははっ。気にしないでおくれよ。君の一度きりの人生のワンシーンを撮っただけじゃないか。そこまで責められることじゃあないさ」

 彼の飄々とした、嘘くさい言葉たちは静かでさみしい階段には不似合いに思えた。

 祐利とは小学校の頃からの腐れ縁だった。小学三年の頃から今に至るまで全て同じクラスだった。まだ幼さの残る顔面には人生に対する達観と、若い頃から希死念慮を抱いている人間特有の鈍い光が確かに輝いている。

 遠くからスターターピストルの音が聞こえた。それが透いた心を流れて、通り過ぎていく。

 高校生になって二年が経過した。なんとなく生きてきて、なんとなく進学して、なんとなく二年が経過した。それは残酷だった。少しくらいは時間の流れが変わってくれても良いはずだ。だって中学生とは多感な時期である。何かに感化され、変化して、変化され、皆崩れていく。廃れていく。そんな忙しい時期と何となく過ごした時期。すべてが同じ時間だとは思いたくはない。

「授業、受けないなんて良い御身分だな」

 俺は祐利に声を掛ける。祐利はにへらな笑みを浮かべて俺に向かって言葉を羅列する。

「まさか田端にハイセンスな自虐されるとは思わなかったよ。さすがだよ。ああ、面白い」

「さいで」

 祐利は腹に手を携えて笑い声をこぼしている。おめでたい性格をしているもんだとぼんやりと考える。

 祐利はひとしきり笑った後、俺に向かって声をかけた。

「さて、僕が授業を受けない理由なんてどうでもいいのさ。ああ、どうでもいい。だれがあんな向上心も無い場所へ行きたがる。腐るために行くんじゃないだろう? あれだ。これは僕のしょうもないこだわりさ。生きる為に行くんだ。僕は自身を保護したんだ。あいつらみたいに入学したときの意見を反故するような人間じゃないからね。僕は。まあ、そんなことどうでもいいんだよ。うん。どうでもいいさ」

 こいつは他人を苛つかせるのが上手い人間だと思う。こいつはいつもへらへらとして、飄々と言葉を並べて、自分の考えを詰めていく。まるでドミノのような危うい考えを。きっと彼の中でも良くわかっていないのだ。だから何度も自分を納得させる為に反復しているのだ。倒れ始めてもすぐに立て直せるように。

 祐利は俺を見る。

「多分ね、田端の方だよ。問題は」

 祐利は真剣な眼差しで俺を見る。その視界には俺以外映っていないようだった。

「お前が干渉してくるなんて珍しいこともあるもんだ」

「茶化さない茶化さない」

 祐利は手をひらひらさせながら面倒くさそうに目を瞑る。祐利はやはり面倒くさそうに目を開けて話しだした。

「少なくとも君はあれらみたいに反故するような人間じゃなかったはずだ。いつだって君は『最低限のこと』をしていたはずだろう? それをしないなんておかしいじゃないか。君のモットーに反するじゃないか」

 祐利は理解できないといった様子で俺を見る。俺はその視線を跳ね返すように一睨みして地面に目を向けた。

 俺のモットーは彼の言う通り『他人に迷惑をかけないように最低限のことをする』だ。最低限のこととは世間一般で言われる当たり前、ということである。当たり前をしていけば誰にも迷惑をかけずに生きていける。それが俺のモットー。信条だった。迷惑をかけなければそれなりに生きていけると思っていた。迷惑をかけなければ誰かから必要とされて、愛されて、死ぬ。

 いや、死んで愛される。

「そうか?」

 俺は祐利に対して適当に答える。その行動を肯定するかのようにパンっとスターターピストルの発砲音が聞こえた。



 2



 俺が小学校六年の頃、父親が死んだ。病気だった。なんの病気だったのか、未だに知らない。知る必要はないと思っている。多分、癌かなんかだろう。

 手術などもしていなかったと思うから、きっと見つかったときにはもう手遅れだったのだろう。

「お父さん、死ぬんだ」

 父親がにこやかに笑って俺に言った。自分が死ぬことを認識できていないような、そんな様子だった。きっと母親が取り乱したからだろう。母親が壊れたから、本人は冷静でいられていたのだろう。祖父母たちは、見送る側になったことをすんと受け入れ、父親を最後は息子としてではなく、一人の自立した人間かのように扱っていたように思える。

「怖くないの? 笑ってるけど」

「ああ。怖くないさ。皆いつか死ぬんだから。それにね、僕を想ってくれる人がいて、泣いてくれる人がいる。それが嬉しいんだ」

 父親は俺に対してそう言ったように覚えている。

「僕はね、今愛されているって感じるんだよ」

 そう続けて、俺の頭を撫でた。それが父親が俺に触れた最後の瞬間だった。父親の角ばっていて骨骨しい手はひどく優しかった。父親から優しさを、愛を受け取ったのはそれが最後の機会だった。

 父親は勝手に一人で満たされて、そのまま死んでいった。妻の泣き顔を、両親の無念そうな表情を認識せずに、蝋人形のように、石ころになったように、死んだ。そこには俺に向けていた優しい表情も、母親に対して向けていた愛情も、時折見せていた憂愁も感じられない表情だった。どこか満足げな表情だった。

 そんな表情の隣で母親は泣いていた。子どものように泣いていた。すべての感情を父親にぶつけるように泣いていた。「なんであなたが先に」なんてどうしようもないことを嘆いていた。祖父母の表情は見えなかったが肩が震えているのが分かった。それだけで十分だった。病室には悲しみが満ちていた。けれど、俺は唯一その悲しみに呑まれなかった。何故ならば頭の中で父親の言葉がずっと回っていたから。あの幸せそうな表情で、優しい表情で言い放った「愛されているって感じるんだよ」という言葉が。

 父親の言葉がまるで呪いのように突き刺さっていた。傷口が膿んで、腐っていくのが分かった。俺はこんな状態で生きていかなくてはいけないのかとこの世に絶望した。

 俺は求めていた。友愛フィリアではなく無償の愛アガペーでもなく、エロスでもなく、永続的な愛プラグマでもなく、家族愛ストルゲーでもなく、偏愛マニアでもなく。純愛を求めていた。

 純愛を得ることが出来たら、精神的に満たされることが出来たら、なんて素晴らしいことだろうと。

 そんなことを枯れ果てた大地の上で思った。見渡す限り草木の生えていない荒野で思った。

 慢性的に体の内側から何かが染み出してきて、鈍痛が全てを支配する。その鈍痛が少しずつ俺の思想を変えていく。心を廃れさせていく。

 そんな場所が、俺の生きていかなければならない人生だった。



 3



 家の中は相変わらず辛気臭く、父親が死んでからこの場所に変化が訪れていないことを示していた。

 母親は父親の仏壇の前で今日も目を瞑っている。そういう弔い方をしているわけではない。あれは故人を弔い、生者を救うのではない。故人にしがみついている人から普通に生きていく能力を奪う行為だ。それに依存させる悪意のこもった行為だ。たしか幸福になれる呼吸法だそうだ。むしろ不幸を呼び寄せているのではないだろうか。でも、その人が幸せなら良いと思う。

 自室に入って荷物を地面に落とす。そのままの勢いでベッドに倒れ込んだ。制服についたシワを無視して寝返りを打った。陽があたっていない、くすんだ白色の天井が視界を埋め尽くした。天井を見たのはいつぶりだろう。じっくり見たことは案外久しぶりな気がした。

 父親が死んでから、母親は俺に愛を向けなくなってしまった。それほどあの人の中では大切な存在だったのだろう。支えの無くなったものはすぐに崩れやすい。今の母親はいつ崩れてもおかしくないだろう。いや、とっくの前に崩れているのかもしれない。崩れた自己をあの呼吸法でどうにか補強しているのだ。

「――なんでなんだろうな」

 自分にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

 死ぬほうが愛されるんだろうか。

 死者になったほうが誰かに思ってもらえるんだろうか。

 現に母親だって、父親が生きていた頃の話をよくするようになった。生きていた頃よりも頻繁に、夢見心地な話を仕合せそうに話していた。

 そんな話をしてるんだったら俺になにか言ってくれよ。俺を殴るだけでも良いから、どうか俺に感情を向けてくれよ。愛してるって言ってくれるだけでいいから。愛してるからこうしてるんだよって言い訳していいから。どんなに醜い感情でも愛って思うから。

 俺はぐっと体を起き上がらせて適当に私服に着替える。なんとなく全身が寒色に包まれる。

 そして家を出た。あの家にいるとどんどん思考が落ちぶれていくから、あまり長時間居ないようにしている。ずっと居れば精神が崩壊してしまう。

 家を出る時、行ってきますの後に続く言葉はなかった。

 春の優しい太陽が俺を照らす。すれ違う人々が太陽の光を反射しているのではないかと錯覚してしまうくらいに眩しく感じた。俺はきっと吸収している。身にまとった寒色が、太陽の優しさを拒絶しているのだ。なんとなく、息が吸いづらくなった。

 いつか、俺もこの人たちみたいに光を反射できるようになるのだろうか。いつか息が吸えるようになるのだろうか。

 強風が吹いて、潮の香りがやってくる。その香りに導かれるように、俺は早足になる。

 堤防を登って道をたどり、青い青い海を見る。少し濁った青い海。海岸には流れ着いたのであろう流木や海外のペットボトル。階段の直ぐ側には近くのスーパーの買い物カゴ。

 海。世間ではキラキラとしているその言葉を頭の中で反芻する。この青春の塊のような、幸せの塊のようなものに浸れることのできる時がいつかできるのだろうか。いや、できないのだろう。自分はその幸せに触れただけで怪我をしそうだ。綿で怪我をする人間だってこの世にはいるんだから。

 堤防に座り込む。漣の音色が耳元で囁いていた。それが心に染み渡って痛い。

 体育座りでうずくまる。世界から隔絶したように錯覚して、落ち着く。

「ナー」

 猫の鳴き声が聞こえた。

 俺は首を持ち上げ、視線を彷徨わせる。俺の隣にいつの間にか黒猫がいた。この世の不幸を凝縮したような暗い色合いの猫。首輪は付いているが毛並みは悪い。もしかしたら捨てられたのかもしれない。

「……餌なんてないぞ」

 俺の言葉に猫が「ナッ」と反応した。人間の言葉が分かるのかもしれない。そんな非現実的なことを考えた。

 猫は俺の隣でちょこんと座る。金色の瞳で俺をじっと見ている。

「ナー、ナー」

 黒猫が泣いた。

 ないて、ないて、ないた。

 思い出したように、人の温もりを求めて俺の抱え込んでいる太ももにすりすりと頭を擦り付けた。その表情はどこか満足げだった。

 俺は猫の頭を撫でながら呟いた。この猫なら受け止めてくれる気がした。

「死ぬ時くらい、幸せに死にたいよな」

「ナーナーナーナー」

「だよな」

 俺は猫の頭から手を離す。ぶら下がった手に向かって猫が頬を擦り付けてきた。

「人間ってさ、愛されたら死ぬんだよ。誰かにとってかけがえのない存在になって死ぬんだよ」

 猫が俺の言葉に肯定の鳴き声を返した。尻尾をふらりと振りながら俺を見る。

「俺は愛されたいんだ」 

 それは淋しいと言われるかもしれない。けれど、仕方がない。だってこの情動は止まらない。もう、とめどなく溢れている。

「だから、早く死にたいんだよ」

 猫をまた撫でて、小さく呟いた。

「ナー」

 猫が泣いた。

 その時、近くからシャッターが切られる音が聞こえた。

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