宇宙の果てを描く画家
みらいつりびと
第1話 宇宙の果てを描く画家
僕は画家だ。
宇宙の果てをテーマに油絵を描いている。
たとえば、キャンバスを一面黒く塗りたくって、「宇宙の果ては暗黒」というタイトルをつける。
そんな絵が売れるはずはない、と思う人が多いだろう。ところが、これが売れるのだ。百十八万円で売れた。
黒地に白とグレイでメビウスの輪を描いた「宇宙の果ては無限」は百三十万円で売れた。
もちろん成功するまでにはそれなりの苦労をした。それについて語ろう。
少年時代から宇宙の果てを想像するのが好きだった。
僕の実家は山梨県の河口湖と西湖をつなぐ道に面している。
新月の晴れた夜、懐中電灯を持って少し散歩し、街路灯から離れると、満天の星を見ることができた。銀河が空に横たわっている。
夜空を見上げて、宇宙の果てのことを何時間も考えつづけた。
子どもの頭でいくら考えてもわからない。
謎だ。
だが、その謎を想像するのが好きだった。
宇宙の果てはどんな形なんだろう。果ての向こうはどうなっているのだろう。果ての先に何かがあるのなら、それは果てとは言えない、などと思いながら、飽きることなく夜空を見上げていた。
宇宙の果ては無なのかなと思ったりしたが、完全な無とはどんなものなのか、うまく想像することはできなかった。
大人になったいまならわかる。
宇宙の果ては、子どもだけではなく、全人類にとっても謎なのだ。
多くの大人が、解明しようのない謎のことなんて考えなくなる。
でも僕は考え、想像しつづけている。
僕に物理学の才能があったなら、宇宙物理学の道に進んだと思う。
ところが、高校の物理がまったくわからなかった。早々に断念した。
相対性理論とか超ひも理論とかを理解したかったが、そういう科学の本を読むと、最初の数ページで挫折した。数式が少しでも出てくると、もう読む気力がなくなってしまう。
ブラックホールが巨大な星のなれの果てで、光が脱出できないほどの重力を持ったなにか、ということくらいしか理解できなかった。
僕のつたない脳みそでは、宇宙物理についてそれ以上のことはわからなかった。
一方、僕には画才があった。
僕の描いた風景画は高校の美術教師をうならせた。
高校時代に、将来は画家になって、宇宙の果てをテーマに絵を描きたいという夢を抱くようになった。
僕の父は河口湖畔にある大きなホテルの経営者で、その営業は順調だった。
兄は大学で経営を学び、暗黙の了解として、父の後継者となることがほぼ決まっていた。
次男の僕は甘やかされて、両親はたいていのわがままを叶えてくれた。
画家になりたいと言うと、「本気なら、やってみろ」と父は言った。ホテルを継がせることはできないから、好きなことをやらせてやろう、くらいに考えていたのだと思う。
高校卒業後、僕は上京し、真面目に美術予備校に通った。
集中してデッサンの練習をし、油絵についても研鑽を積み、一浪で、とある美術大学の油画科に合格した。
美大では課題をこなしながら、念願の宇宙の果てをテーマにした絵を描き始めた。
黒の四角形と白の円で構成した「宇宙の果ての果て」、原色で無数の渦巻きを描いた「宇宙の果ては渦巻き」などという絵を描いた。教授にも友人の美大生にもまったく評価されなかった。
「現代美術としてなんの意味もない。宇宙の果てには見えないし、前衛美術としても幼稚すぎる」などと言われた。
僕はめげなかった。がむしゃらに宇宙の果てを想像し、描きつづけた。
「宇宙の果てにいる神」とか「宇宙の果ては量子コンピュータ」といったようなタイトルの作品を制作しつづけた。
卒業制作は宇宙の果てをイメージしたインスタレーションをつくった。部屋の中心にたくさんのLEDライトを光らせて宇宙を表現し、壁には在学中に描いた多数の宇宙の果ての油絵を展示した。
教授はなんとか認めてくれて、無事卒業することができた。
「おまえの宇宙の果てへの熱意だけは認める」
それが教授の評だった。
大学卒業後、僕はゲーム制作会社に就職した。
イラストソフトの使い方を覚えて、背景イラストレーターとして働いた。
そうして収入を確保しながら、余暇には宇宙の果てを描きつづけた。ゲーム会社の仕事は多忙だったが、それでも僕は宇宙の果てを描くのをやめなかった。
その頃兄は山中湖畔のホテルで働いて、宿泊業の修行をしていた。
父のホテル経営は相変わらず順調で、僕は好きに生きていくことができた。
宇宙画を描きあげて、いいものができたなと思うと、画廊に売り込みに行った。
どこも相手にしてくれなかった。
最初に絵が認められるまで、五年かかった。
「宇宙の果てに触れた女」というタイトルの油絵を六本木のとある画廊に持ち込んだ。宇宙より人物に力を入れた絵で、僕としては忸怩たる想いで描いたのだが、それを画廊のオーナーが気に入ったようで、三万円で買い取ってくれた。
一週間後、僕はその画廊に行った。僕の絵はなくなっていた。
「『宇宙の果てに触れた女』はどうなったんですか」
「売れたよ」
画商はにんまり笑った。
「えっ、いくらで」
「三十五万円」
儲けやがったな、と僕は思ったが、黙っていた。
「また女と宇宙の絵を描いたら、持ってきてくれ」と画商は言った。
無名の画家志望者にとっては、ありがたい言葉だった。たとえ求められているのが宇宙画ではなく、女性画であったとしても、油絵で収入が得られるなら贅沢は言えなかった。
これは出発点なんだ、と思うことにした。
僕はしばらく宇宙の果てと女をテーマにした絵を描きつづけた。
「宇宙の果てで分断された女」とか「宇宙の果てで前世を見た女」とか「宇宙の果てで捻じ曲がる女」といったタイトルの作品群だ。
それらの絵は数十万円で飛ぶように売れた。画商はしだいに僕の絵を高値で買い取ってくれるようになった。
宇宙の果ての女シリーズは、一部の現代美術愛好家の中で評判になった。僕は専業画家になる決意をかため、ゲーム制作会社を辞めた。
父も僕の絵を認めてくれて、河口湖畔のホテルの壁に、僕の油絵が展示された。
僕は生活のために宇宙の果ての女を描きながら、真に描きたかった絵の制作を再開した。宇宙の果てを純粋に想像して描く。
六本木の画商は僕のそれまでの貢献を考慮して、絵を画廊に置いてくれた。
「宇宙の果ては次元の果て」は黒地に無数の白い泡を描いた作品だ。売れなかった。
「果てしなき宇宙の果ての果て」は無数の光線がキャンバスの中央に向かっている作品だ。売れなかった。
「宇宙の果ては思念」は巨大な脳髄と無数の光点を描いた作品だ。売れなかった。
画商は純粋な宇宙の果ての絵を買い取ってくれなくなった。
一週間だけでも展示してほしいと頼み込み、僕は作品制作を続けた。それなりの値がつく宇宙の果ての女の絵も描きつづけなくてはならなかった。それとセットでなければ、画商は宇宙画を受け取らなかった。
純粋な宇宙画は売れず、ことごとく返品された。
僕は気に入っている絵だけをトランクルームに放り込み、残りの作品を廃棄した。
それでもあきらめずに描きつづけた。
僕は妄執に取りつかれているのかもしれない。発狂しそうになりながらも、宇宙の果ての絵を描く。
六本木の画廊と取り引きを始めてから二年後、ついに女がいない純粋な宇宙の果ての絵が売れた。
「宇宙の果てを考えつづけて」というタイトルの白と黒の格子縞で構成された作品だった。その絵を買ったのは、それなりに名の通った日本の宇宙物理学者だった。何冊か著作がある。
学者は自分の書斎に僕の絵を飾った。彼が取材されたテレビ番組に「宇宙の果てを考えつづけて」が映った。
「妙に気に入っているんですよ、この絵」と学者はインタビューで答えた。
僕の宇宙画が売れるようになったのは、そのテレビ番組がきっかけだった。
「宇宙の果ての絵はこの画廊で売っているんでしょう、なんて言う客が増えたよ」と画商は言った。
僕の宇宙の果ての絵は展示後すぐに売れるようになった。
新作を描き続けた。
トランクルームに放り込んでいた絵も売り出した。
どれも百万円以上の値が付いた。画商と僕はけっこう儲けた。
しばらくは収入がなくても生きていけるほどの貯金ができたので、僕は半年ほどかけて絵を描き溜め、画廊で個展を開いた。
「宇宙の果ては暗黒」や「宇宙の果ては無限」はこの個展に出品した作品だ。個展は多くの客でにぎわい、テレビの美術番組でも紹介された。僕はちょっとした有名人になった。
オークションで僕の絵が高値で落札されるようになった。
「宇宙の果ては次元の果て」は都内の美術館が一千三百万円で競り落とした。ついに僕の絵は美術館に飾られるようになったのだ。
その機会をとらえて、美術関係の雑誌編集部が、僕と僕の絵を買ってくれた宇宙物理学者との対談を企画した。
「僕は宇宙科学のことは全然わからないんです。ただ、宇宙の果てへの想像力だけがあふれ出て、描かずにはいられなくて。少年のときに抱いた宇宙の果てを知りたいという純粋な想いが、いまでも僕の創作の源泉です」というような話をした。
「私も似たようなものですよ。宇宙の謎を知りたいという想いが、私の研究を支えています。宇宙の果ては、私たち学者にとっても謎なんです」と学者は言った。
「ビックバンによって宇宙が生まれ、膨張しているというのが、いまなお主流の説です。仮に、宇宙は半径138億光年の光の球であると定義すると、ビックバンのときに発生した光が届いたところが、宇宙の果てであると言うことができるでしょう。でもあなたが知りたいのは、その外側がどうなっているかということですよね」
「そうですね。果ての果てが知りたいです」
「これは私にとっても単なる想像で、学術的な話ではないのですが、宇宙の外側は無であると考えています」
「無とはなんでしょうか」
「変化がないから時間はなく、物質がないから空間もない。それが無です」
「ちょっと想像しがたいですね。暗黒の空間ですらないんですね」
「暗黒ならまだ想像できるのですが」
学者は苦笑していた。
「宇宙の果てをイメージするのは人間には不可能でしょうね。実のところ、何もわかってはいないのです」
学者は僕のレベルに合わせて話してくれているのだなと思ったが、はっきりしたことは何もわからないという点では、僕も学者も同じなのだ。
僕はますます創作意欲を膨らませて、描きつづけた。
「宇宙の果ての向こうは宇宙」「宇宙の果てと宇宙の果ての衝突」「僕は宇宙の果てを考えて発狂する寸前だ」「宇宙の果ては数式」などの作品は初値で一千万円を超えた。
僕の絵を集めている都内の美術館が、僕の展覧会を企画した。「深淵・宇宙の果てを描く」という展覧会を開きたいとのことで、キュレーターから正式に依頼された。僕は素直に喜び、ぜひ実施してほしい。何でも協力する、と答えた。
美術館からサイズ五百号の新作を依頼された。僕は早速新作に取りかかった。
僕は無心でキャンバスに向かった。そこに描いていったのは、夜の海のような絵だった。意識してそれを描いたわけではなかった。自然とそのように筆が動いた。僕の無意識がそれを描かせたと言っていいと思う。僕はまったく力まずに描いた。傑作を描いてやるなどとは少しも考えなかった。
新作が完成した。具象と抽象の中間のようで、静謐な印象の絵になった。
「宇宙の果ては波」というタイトルをつけた。美術館のキュレーターは感銘を受けたようだった。美術館は、約束していたより少しだけ高値で「宇宙の果ては波」を買ってくれた。
展覧会が始まり、「宇宙の果ては波」は驚くほど高い評価を得た。現代美術の専門家からも、絵が好きなだけの素人からも絶賛された。
「吸い込まれるようだ」「見ていると浮遊感に包まれる」「上下の感覚がなくなる」「本当に宇宙の果てにいるようだ」などと評された。
美術館で不思議なことが起こったのは、「深淵・宇宙の果てを描く展」が会期半ばを過ぎた頃のことだった。ある少女が「宇宙の果ては波」に向かって歩いていき、絵に吸い込まれてしまったというのだ。
僕はにわかには信じられなかったが、目撃者が三人もいた。少女の両親は行方不明になった娘の捜索願いを警察署に出した。
「少女は宇宙の果てに引きずり込まれたのだろうか」などというようなことを書く雑誌記者もいた。
その雑誌記事を見て、大衆が美術館に殺到した。
僕は困惑していた。本当に「宇宙の果ては波」は超自然的な力を持って、少女を吸引したのだろうか。
超常現象らしきことが起こったのは一度だけだった。
「宇宙の果ては波」に向かって歩いていった人が少なからずいたが、誰も吸い込まれはしなかった。美術館はすぐにそのような行為を禁止し、厳重に絵を監視するようになった。
会期が終わり、僕は一人で「宇宙の果ては波」を見た。その他にも多数の宇宙の果ての絵が美術館の中に飾られていた。僕は少女が宇宙の果てに行ったのだと信じた。
うらやましかった。僕も行きたいと思って、自然に涙が出た。
宇宙の果てを描く画家 みらいつりびと @miraituribito
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