5.ギリアン子爵長女アーシアの旅立ち
5年前、アーシアが9歳の夏、エイダ侯爵家から帰ってきた我が娘を見てキースは「育ちとはこれほど違いを生むのか」と呆然とした。
物静かで落ち着いた上品な所作、打てば響く才気、それでいて控え目な優しい気性。使用人への気遣いも細やか。
エイダ侯爵家とギリアン子爵家では家格も当然だが資産も違う。気風も大きく違う。
アーシアは侯爵家で望める最高の教育を受け、最高の待遇を受けて育った。
エイダ侯爵家夫妻、ホルヘルとキルシュは堅実な性格で、資産家だが決して奢ることなく無駄を省いた質素倹約を心掛けた生活を営んでいた。
度々厨房で手ずから料理し、刺繍だけではなく自ら小物から服まで仕立て上げる祖母キルシュに習い、アーシアは基本的な家政を教え込まれていた。
「状況はいつ変わるかわからないわ。例え市井に下ることになっても困らないだけの知識は必要よ。それに女主人は家政がどのように行われているか知る必要があるわ」
キルシュはそう言うのだ。
それでも茶葉から服装の生地仕立てに至るまで、子爵家にはできない上質なものを使用していた。
付け加えると、アーシアの生活の資金は未だエイダ侯爵家が出しており、そのほとんどは9歳の頃からアーシア本人に任されていた。
「いずれ家計を司るのだから、まずは自分の賄いを管理することで準備する」という建前だが、その実はアーシアに不自由はさせたくない祖父母の心遣いでもあり、浪費家のヨランダに食い潰されないためであった。
アーシアは祖父が出した資金をやりくりし、その詳細を毎月提出している。
そしてその資金がなければ、キースはアーシアにドレスの一着も調えられない。キースが資金を出せば必ずヨランダとシンシアが我先にと要求し、結局アーシアに回るものがなくなるのだ。
それはキースの心に棘となって刺さった。両親は妻を御せない自分を諫めているのだ。
実際にヨランダの浪費で家計が厳しいのだ。エイダ家からはアーシア可愛さで別途資金援助を受けており、ヨランダとシンシアがアーシアを攻撃するたびに、キースは胆が冷えてたまらない。アーシアが祖父に訴えれば、資金援助は止められるだろう。
今年になってカッツェの社交界デビューの準備の不手際があり、キースは直に父ホルヘルに厳重な叱責を受けた。
カッツェの正装を仕立てるに当たって、シンシアとヨランダの我儘な横槍が入り、あわや正装の新調ができなくなりそうになったのだ。
カッツェのために仕立て屋が入ると、シンシアが「自分も!新しいドレスを!」と強請り、暴れた。宥めるキースの努力も空しくヨランダがシンシアと自分のドレスを作ってしまったのだ。そしてヨランダは言った。
「カッツェの正装はあなたが着たものを取り寄せればいいではありませんか」
正装にも流行はある。しかし資金の工面がつかず恥を忍んで父に泣きついた。
結果、エイダ侯爵家がカッツェの正装を調えてくれた。
キースの力では望むべくもない最高のものを。
普段からアーシアのものはエイダ侯爵家が調えている。だから一見地味で控え目なアーシアのドレスは生地から最高級。
昔から控え目な服装を好んだアーシアは、今はおとなしやかな飾りと言えばサッシュ・ベルトだけのガブリエル・ドレスばかり着ていた。柔らかなシルクやリネン生地で色は白、ブルー、グリーンが主であった。
実はこの胸下でサッシェをゆったりと結ぶガブリエル・ドレスは、アーシアの密かな悩みを隠すためでもある。
ヨランダに似た小柄で細身のアーシアだが、昨年あたりから乳房が成長し始め、柳腰と相まって目立つことが恥ずかしくてならないのだ。
なるべく胸のふくらみが目につかないように、毎朝サッシュの結び具合に苦心している。
なるべくワレン王国で衣装を調えたいという主張は、日々変わっていく体つき故でもある。
シーラン風のウェストを強調した上半身をぴったりと覆うドレスでは、あっと言う間にきつくなってしまうだろう。
(太りやすい家系なのかしら?ギリアンのお祖父様もヤスミン大叔母様も妹のシンシアも恰幅がいいもの。このまま膨らんでいけば、せっかく望んでくださったスリヤ殿下は後悔なさるかもしれない)
14歳のアーシアは次女シンシアの10歳のお披露目会の後で隣国のワレン王国へ、表向き交流のため実際は仮の婚約者のためにワレン王国風の儀礼を学ぶために出立することになっている。
「仮」というのも表向きで、お相手の第三王子スリヤに強く望まれ求婚された実質的には「正式」なものだ。
スリヤはアーシアより6歳年上、現在20歳。何ごとも滑らかに進めば、留学から帰った1年後、アーシアは17歳、スリヤは23歳で婚儀を行う運びとなる。
アーシアは10歳のお披露目後、貴族の子女に課されている、10歳から12歳までの子供同士の社交のお茶会を最低限しか催さず、また出席していない。
最初の年は社交好きなヨランダが何度か取り仕切ったお茶会が催され、他家のお茶会にも参加を余儀なくされた。1シーズンが終わる前にアーシアは辟易してしまい、次の季節は自分が取り仕切れるようにエイダ侯爵経由で手をまわしてもらった。
アーシアはこの1シーズンで悟ったのだ。
どんなに心を尽くしても、目立たぬようにしても、妬みや嫉みから逃げられないことを。
ヨランダやシンシアに意味なく疎まれているように、ただ存在しているだけで自分を上げるために他者を下げる人種がいることを。
自分で開くお茶会は極力、誰かが虐げられることないことのないように心を砕いた。
家格を笠に着て意地の悪い言動を、家格が下の抵抗できない者に行う者がいるのだ。
それを見つけるとアーシアはやんわりと場の空気を変え、どちらも不快にならないようにする術を学んだ。そして次からは意地悪な振る舞いをする者を招待することを避けた。招待もうまく口実をつけて断るようになった。
アーシアのお茶会はほとんどをエイダ侯爵家で行っていたので、同じ年ごろの令嬢の憧れになっていた。
極力社交を避け、勉学の時間を増やし、王都にいる間は王立図書館に籠るようになった。
スリヤ3年前にシーランへ留学し、王立図書館でアーシアと出会った。
17歳のスリアと11歳のアーシア。
当時アーシアは近隣数か国語を学び、流暢ではないもののそれなりに話せた。
今ではかなり巧みになっている。特にワレン国の言葉は。
二人は度々図書館で会い、拙いながらワレン語で対応するアーシアを微笑ましく思ったスリヤは母国語を教えた。アーシアはシーラン語の古典を教えた。話すうちにお互いに好意を抱いた。
スリアは好意以上の気持ちを抱き、(共に生涯を過ごすならばアーシアがいい)と求婚の意思を固めた。
侯爵家の私的なお茶会、つまりアーシアとその祖父母だけのお茶会にたスリヤは度々招かれた。そこでは侯爵夫人キルシュと孫アーシアが手ずから作った茶菓が振舞われ、アーシア自らがお茶を淹れる家庭的なものだった。
スリヤはアーシアへの思いをますます募らせ、ある日庭を共に逍遥した折にアーシアに求婚した。
「国に帰ったら正式に求婚の願いを出しますが、受けてくださいますか?」
スリヤの問いにアーシアは微笑んで「はい」と頷いた。
そのすぐ後に、エイダ侯爵家とギリアン子爵へにスリヤは「アーシアの社交界デビューのパートナーを務めたい」と願い出た。
もちろん、両家に否やはなかった。
シーラン王国では貴族の子女は12歳で社交界にデビューして国王と王妃に目通りが叶わなくては婚約も結婚も許されない。
もちろん、それ以前に婚約者候補が決まっていることも多く、その場合、婚約者がパートナーを務める。
いない場合は親族が務める。
この冬のカッツェのデビューにはアーシアがパートナーを務めることになっている。
つまりデビューの場でスリヤがアーシアのパートナーを務めたことは、事実上の婚約内定の報告でもあったのだ。
18歳と12歳の二人は社交界では、微笑ましく認められた婚約者同士だ。
翌年王立学園の高等科へ飛び級入学したアーリアと穏やかながらも睦まじい交流を持った。
まだままごとのような兄妹のような穏やかな感情ながらも、スリヤはアーシアと共に生きるならば幸福を得られるだろうと確信した。
翌年の帰国後、正式にワレン王国からスリヤとアーシアの婚約の申し込みが届き、国同士の交流にとっても両者にとっても喜ばしいと国王は受諾した。
受諾はしたが、いくつか問題が立ちふさがった。
ますエイダ侯爵家が孫可愛さにすぐに国外に出すことを渋った。しかし、王命に逆らうことはできず、アーシアがまだ13歳で幼いことをあげて婚儀はせめて17歳になるまで待って欲しいと訴えた。
そしてギリアン子爵家の爆発があった。
ヨランダに焚きつけられたシンシアが大騒ぎの大暴れで反対したのだ。
「ずるい!アーシアはずるい!いつもいつもずるい!」
まるでアーシアが生まれた時のヨランダだ。
アーシアにとっては6歳差でお似合いと言える年の差だが、シンシアにとっては10歳差。
キースがいくら
「シンシアには年頃になったらちゃんと婚約者ができるから」「10歳も年上で会ったことのない人なんだよ?」などと宥めても効果がない。
「王子様がいいの!おうじさま!!」
他国語どころか自国語で自分の名前も書けない8歳の子供をどうして他国に嫁がせられるものか。
この子供は体が大きく力が強かったため、使用人への被害が甚大だった。
ありとあらゆるものを破壊せんばかりの大暴れに加え、何の咎もない使用人に物を投げつける、扇や習い始めた乗馬の鞭で叩く。
下働きの下女が扇や鞭で叩かれている悲鳴に駆け付けたアーシアが度々止めに入ったが、その鞭で強かに打たれ顔を腫らす椿事が出来した。
しかも祖父ホルヘルが訪問中の出来事だった。
この時アーシアは打たれ続けながらも、シンシアの鞭を掴んで取り上げてシンシアの太腿を加減して1度打ち
「まだ誰かを打つつもりならば覚悟しなさい」
と鞭を振り上げ、シンシアは泣いて逃げ出した。
アーシアが顔に傷を負ったことで、シンシアは鞭も扇も取り上げられ、乗馬のレッスンも断念を余儀なくされた。
シンシアはホルヘルからきつく叱られ、アーシアは
「これから使用人に手を上げたら、同じことを私があなたにします」
と宣言した。
しかし自分に行われることは耐えたので、その後もこの時の悔しさでシンシアはアーシアにも殴る蹴るの暴行を行ったので、ホルヘルに知れることを恐れたキースが、王都の館から学園に通っていたアーシアを寮へ避難させ、シンシアとヨランダは領地に戻された。
折しも社交のシーズンだったため、社交の場が大好きなヨランダはアーシアを恨んだ。
実はヨランダもシンシアも表立っては粗暴な行いは知られていなかった。淑女らしい振る舞いができ、家人以外の他人の前ではおとなしやかに振舞っていたのだが、この一件で本性が外へ漏れてしまった。
ワレン王国側ではそアーシアが17歳まで婚儀を待つことを飲んだが、14歳から16歳の2年間、留学させることを条件に出した。
第三王子であるスリヤだが、結婚後は王家直轄地を治める重職に就くことが決まっていたため、王族のままで臣に下らない決定がなされていたからだ。
アーシアにワレン王国の王族としての礼儀作法、およびその他の教育が必要だと譲らなかった。
と、これは表向き。
ギリアン子爵家の内情、ヨランダとシンシアの悪評はワレン王国へ届き、特にシンシアがアーシアに鞭をふるった話がかなりの尾ひれをつけて。留学は彼女を守るためにスリヤが願い出たのだ。
今、アーシアはこの時のことを思い出して息をふっと吐き、そっと微笑んだ。
実はアーシアはわざと顔に鞭を受けたのだ。
(あの時はいちかばちかだったわ。大きな事件と衆目を集めなければ、いつまでも事がおさまらなかった。鞭は痛かったしその後のことも痛かったけれど、あのまま表面だけいい顔をしたまま王都に留まられては、わたくしの婚約は疵がつき、使用人への被害も酷いことになっていたもの)
アーシアはおとなしく静かな性格の裏に、エイダ家とギリアン家、そしてアンシェラ家から受け継いだ苛烈さを秘めていた。
ただヨランダやシンシアとは別の方向に向いていただけだ。
自分の我儘を通すための攻撃ではなく、他を守るための手段としては多少の荒事は致し方ないとうい方向で。
ヨランダとシンシアの目を欺くために、「仮」を申し出たのもアーシアだった。
実質的には婚約は確定扱いだ。
それを「仮」とするのは方便の他ならない。
「今はシンシアは8歳。まだ国交のなんたるかもよく理解していません。今は対外的に婚約者候補として母と妹に納得させ、妹がデビューしてから審議にかけるということにしていただけないでしょうか?」
両国王にその旨上奏文を、スリヤには気心のしれた同士の悪戯めいた手紙をしたため、「仮」の婚約という体裁を整えたのだ。
ワレン王国への留学から帰った頃には、シンシアは12歳。分別がつくかもしれない。つかなくとも既に時遅し。
婚儀の準備が始まるのだ。
出来得ることなら、いやかなり高い可能性で起こるだろう。シンシアの爆発が。そしてヨランダのシンシアびいきの暴走が。
騒ぎは大きければ大きいほどいい。
それを理由に「ヨランダとシンシアは気の病の療養のため、一時的に修道院行き」となることが、アーシアとエイダ侯爵家の間で準備されている。
「一時的」とは便利な言葉だ。「治癒」されなければ逗留は長引くのだ。
おそらく生涯、修道院に留まることになるだろう。
それは残していく弟カッツェへの置き土産だ。
これによってカッツェは21歳になれば平らかにギリアン子爵家を継ぎ、父キースは隠居となる。
アーシアは微笑む。
ここから永遠に出られる。
息苦しいこの国から。
エイダの祖父母は大好きで尊敬している。しかし、自分への溺愛が他者を不安にさせるほど盲愛していることをアーシアは気づいていた。
伯父であるハーランド伯爵ジムサとその長男ラリーが、ホルヘルを疑っていた。
アーシアを手元に置くために養女にし、婿を取って侯爵家を継がせるのではないかと。
そんな悋気の疑心暗鬼でひと騒動起きそうな時期でもあった。
実際に留学前に、アーシアはエイダ侯爵家の養女になっている。侯爵令嬢として留学するのだ。
それはシーラン王国の体裁のためである。
侯爵令嬢ならば他国の王族との結婚にふさわしい。
そしてギリアン子爵家の母と妹の手が届かなくなる。
このままこの国で憎まれ続けるのはたまらない。
気心の知れた人と、憧れの南の国で暮らすのだ。
そう、アーシアの中にも「毒」がある。
それは遅効性の猛毒だ。
気づいた時には手遅れなのだ。
毒の微笑 チャイムン @iafia
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