九回裏ツーアウトランナー満塁

Wildvogel

九回裏ツーアウトランナー満塁

 これは、仙田陽太せんだようた鈴川雅彦すずかわまさひこ達が山取東やまとりひがし高校に入学する前の年の夏の高校野球県大会決勝。  



 九回裏。山取東高校の三年生投手、渡正仁わたりまさひとは球場内に鳴り響く対戦相手である北東学園ほくとうがくえん高校吹奏楽部の応援を耳に入れながらスコアボードへ視線を向ける。


 一対〇。


 山取東高校は九回表にキャプテンの吉田秀太郎よしだしゅうたろうのタイムリーヒットで均衡を破る。


 そしてこの九回裏。


 四回裏からマウンドに上がる正仁は相手のスコアボードに「0」を刻み続けてきた。


 大学、社会人チームの監督、そしてプロのスカウトも視察に訪れているこの試合で好投する正仁。


 正仁の姿は高校野球ファンだけでなく、彼らをも魅了した。



 彼らが球場を訪れていることを両校の選手は知っている。大学や社会人でプレーしたいという目標を持った選手も多い。


 そして、プロ入りするという目標を持つ選手も。



 しかし、正仁は。



 「俺は高校で野球をやめるよ。もう決めた」



 前日、家族にそう話していた正仁。


 家族はそのことに反対したが、正仁の意志は固かった。



 

 「もう、肘が限界にきそうなんだ。手術することも考えたけど、それでよりいいボールを投げることが出来るとは限らないから。お金もかかるしね」



 

 正仁はマウンド上で自身の右肘を見つめる。


 これまでの試合で正仁の好投を演出してきた右肘。痛みはないが、正仁は自身の右肘の異常に気付いていた。



 このことをチームメイトと監督は知らない。



 この年が節目なんだろうな。俺には分かる。


 

 僅かに口元を緩めた後、正仁は打者と相対する。


 右バッターボックスで構えるのは北東学園高校の三番打者、大宮悟おおみやさとる。プロ注目の巧打者だ。


 

 試合は九回裏ツーアウトランナー満塁。正仁は連打を浴び、一打出ればサヨナラのピンチに追い込まれた。


 しかし、マウンド上の正仁は異常なほど落ち着いていた。


 

 右足でマウンド上のプレートを踏み、捕手の佐山義行さやまよしゆきのサインに頷く正仁。そして、グラブの中でボールを握り、静止する。



 第一球。



 外角低めのストレート。悟は見送る。



 ボール。



 義行から返球され、グラブで受ける正仁。


 そして、素早く右足でプレートを踏み、義行とサインを交わす。


 そしてセットポジションをとり、ボールを握る。


 一つ息をつき、静止。



 第二球。



 内角膝元へ落ちるフォークボール。悟のバットは空を切る。そして、悔しそうな表情を浮かべる。



 ワンボールワンストライク。



 ボールを受けた正仁。そして、無意識にバックスクリーン方向を見つめ、ふと呟く。



 「一点差…」



 そしてすぐにプレートを踏み、義行とサインを交わす。


 

 そしてボールを握り、静止する。



 第三球。



 真ん中低めのスライダー。悟は出かかったバットを何とか止める。


 義行のサインで球審が一塁塁審へ確認をとる。


 一塁塁審は両腕を広げる。



 バットは回っていない。


 ボールの判定。



 ボールを受け、プレートに右足を置く正仁。


 悟はヘルメットを被り直し、構える



 正仁はボールを握り、静止。


 そして、左足を上げる。



 第四球。



 内角胸元の一四九キロのストレート。


 そして、球審の右腕が高く上がる。



 ストライク。



 その瞬間、球場内のボルテージが一段階上がる。


 

 ツーボールツーストライク。



 追い込んだ正仁。


 

 そして、更に気を引き締める。



 最後のアウト一つをとることの難しさをこれまでの野球人生で嫌というほど味わってきた正仁。



 あとストライク一つ…。



 心で呟き、ボールを見つめながらプレートへ右足を乗せる。



 

 心は異常なほど落ち着いている正仁。その理由は本人にも分からない。



 

 足場を固め、正仁を見る悟。


 その悟を見る正仁。


 そして、義行からのサインを見る。



 サインが決まり、ボールを握る正仁。


 一つ息をつき、静止する。



 左足が上がった。



 第五球。



 真ん中低めのストレート。スピードガンの表示は一五二キロ。悟は見送る。



 ボール。




 カウントはスリーボールツーストライク。


 フルカウントだ。



 更にボルテージが上がる球場内。



 

 悟は再びヘルメットを被り直す。


 同時に正仁は帽子を被り直す。そして、右手をマウンド上に置かれたロージンバックへ伸ばす。



 あとストライク一つ…。



 心で呟く正仁。


 しかし、その言葉は落ち着いている。




 右手で握るボールを見つめ、プレートを踏む。



 義行とサインを交わす。


 

 正仁は一度で頷く。そして次の瞬間、一瞬だけマウンド上のみが無音の空間に包まれた。



 六球目。



 思い切り振った腕から放り込まれたのは真ん中一五三キロのストレート。


 この試合の正仁のベストボールだった。


 

 「キィン!」



 その瞬間、金属が何かを叩く音が球場内に響く。


 

 観衆は立ち上がり、歓声を上げながら打球方向を見る。



 両校のベンチ入りメンバーは打球の行方を追う。


 スタートを切った北東学園高校の三人のランナーも。


 守る山取東高校の八人も。



 しかしただ一人。


 正仁の視線の先に映ったのはマウンド上の土。


 そして、右腕が時計の振り子のように揺れる。


 やがてその動きは止まり、正仁の右肘に強烈な痛みが走る。



 そして、大きな歓声と球場のアナウンスの声が耳に届く。



 「試合終了です」




 その声で正仁は顔を上げる。


 視線の先には一塁側ベンチ前で悟を手荒く祝福する北東学園高校の監督と選手の姿。



 グラブをはめた左手を左膝につきながらバックスクリーン方向を見ると、スコアボードに刻まれた「4」と「x」の数字とアルファベット。



 捕手の義行が正仁の元へ歩み寄る。



 その瞬間、正仁はグラブを外し、左手で自身の右肘をやわらかく掴む。


 そして、一塁側ベンチを見つめる。



 野球の神様は残酷だ…。こんな結末で俺達の夏を、そして俺の野球生活を終わらせるんだから…。



 義行が正仁の左肩に手を置くと同時に、正仁の目に何かが溢れ始めた。


 そして、頬を伝る。



 一塁側ベンチを見つめる正仁の表情には大粒の涙と何かをやり切ったというような爽やかな笑顔が溢れていた。



 


 

 



 

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