第92話90 魔女の旅立ち

 小鳥の声がする。

 朝が来たのだ。

 可愛らしいさえずりに混じって、時折鋭い鳴き声がするのはモスだ。朝の餌を探しているのだろう。泉で魚でも獲ろうとしているのかもしれない。


 こんなに素晴らしい朝は初めてだ。


 ザザは、片流れの屋根に一つだけ空いた明かり取りの窓を見上げた。

 二十一年生きて、こんな朝を迎えたことがなかった。

 目を横に向ければ、穏やかに満ち足りた顔で眠る愛しい人がいる。

 古ぼけた小さな寝台で窮屈そうにしているその人は、ザザの夫で主なのだ。

 暖炉の熾火おきびも消えて空気は冷えているのに、その人と触れているところはとても温かく安心できた。


 これが夫婦になるということなのね。


 ザザは満足の吐息をついた。

 昨夜はうろたえることばかりだった。

 裸になって愛し合うということが、あんなに泣きたくなるような痛みと、それ以上の喜びをもたらす行為だと初めて知ったのだった。

 ギディオンはおろおろするばかりのザザに、辛抱強くゆっくり愛を与えてくれた。何度も愛をささやき、頬を撫でて涙を吸ってくれた。


 わたしはただ、しがみつくしかできなかったのに。


 自分がちゃんと愛を返せたかどうか、ザザにはわからない。

 しかし、ギディオンはそんなザザを、全部包み込みながら言ってくれたのだ。


『お前のおかげで人生を再び始めることができた。ありがとう。愛している』


「……すきです」

 声にならない囁きが聞こえたか、男のまぶたがゆっくりと持ち上がる。

 泉の青い目がザザを捉えた。

「……おはよう」

「おはようございます」

 すいと腕が伸びて、少し短くなった黒髪を撫でた。

「体は大丈夫か? 痛いところは?」

「へいき、です」

「……そうか」

「あの……」

 微笑むギディオンに、ザザは気になっていたことを尋ねる。

「なに?」

「えっと、そのぅ……ゆうべの……あの、ああいうことをすれば、赤ちゃんができるのですか?」

「そうだな」

 ギディオンは大真面目に答えた。

「……もしわたしに赤ちゃんができてしまったら……」

「そうなればいいと思っている」

「でも……」

「でも?」

「もし女の子だったら、魔女になるかもしれません。可能性は低いですが……」

 思いきって言ってから、ザザはギデの様子を見つめた。

「……でも、皆無ではありません」

「いいじゃないか。そのほうが面白い。きっと母親に似て素敵な魔女になるだろう」

 ギディオンは愉快そうに言った。

「いいのですか!? 魔女ですよ!」

「その魔女を妻にしているんだが」

「……それはそうですが」

 敷布に目線を落としたザザを、ギディオンがその大きな体で包み込む。

「ザザが教えてくれたんだ。魔女でも、騎士でも、王太子でも、王女でも、生きているものは皆、尊いということを。ましてや愛で結びついたものなら尚更だろう?」

「……」

「俺はザザを選んだし、ザザも俺を選んでくれた。だから、俺たちの子どもも、きっと尊い。世界で一番尊い」

「は……い」

「泣いているのか?」

 ギディオンは、自分の胸に顔を埋めて丸まった魔女を覗き込んだ。

「なんだか急にへいきじゃなくなって……すみません」

「可愛いな、ザザは」

「頑張ってもっときれいにします」

「いや今のままでいい……けど、なんなら今ここで、もう一度子づくりするか?」

 そう言った途端、ギディオンの腹がくぅと鳴った。

 がばりとザザは起き上がる。

 するりと腕を抜け出して、そばにかけてあった魔女の服を着る。あっという間の早技だ。

「すぐに朝ごはんの用意をいたします!」

 そう言うとザザは、呆然としているギディオンの前から姿を消したのだった。


 ──半刻後。

 旅支度を整えた二人は、森の家の前に立った。

「すんだか?」

 結界を張るザザの背中を見ていたギディオンが声をかけた。そこにあった古屋はもうない。

「はい。これでまたこの家は普通の人には見えません。やってくるのは動物くらいです」

「やっぱりザザは魔女なんだな」

「はい。魔女です!」

 ザザは嬉しそうに答えた。

 これから、二人で旅に出る。

 いつか出会う人、再び巡り合う人、二度と会えない人が世界にいるだろう。

 希望も困難も、二人でいるから二倍味わえる。

「南だな」

「楽しみです!」

「じゃあ行こうか」

 そう言うと、ギディオンはザザを黒馬に乗せた。待つ間もなく、すぐに背中に頼もしい温もりに支えられる。

 梢の上で隼が先導するように鳴いた。


 ザザは魔女だ。

 その魔力は大して強くはない。けれど、主を愛し、少しだけ人を助けることができる。

 そして、そうすることで繋がる世界の鍵を握っている。


 扉は既に開かれているのだ。




 *****  お  し  ま  い   *****


これにて完結です。

弱虫魔女ザザの物語。

思いがけず長くなってしまいましたが、最後までお付きあい頂き、ありがとうございました!

よければ一言でいいので「読んだよ」と言っていただけると、作者はとっても嬉しいです。

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最後の魔女は、最強の戦士を守りたい! 文野さと(街みさお) @satofumino

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