ザ・ロードムービー

大澤めぐみ

ザ・ロードムービー


 ワイパーがひっきりなしにフロントガラスの砂塵を拭っている。

 ダッシュボードのデジタル時計は正午過ぎを示しているが、あたりは夕暮れのようにくらく、赤い。

 視界は悪いが、ヘッドライトをハイビームにしたところで砂塵が反射して余計に見えづらくなるだけだった。


 道はアップダウンの激しいワインディングだ。カーナビも使い物にならない。画面の表示では、この車はずっと空を飛んでいることになっている。俺はやや前かがみになり、目を凝らして慎重にハンドルを操作する。


「光ってのは波と粒子の性質、両方を併せもつんだ」

 ブライアンはそう言って、拳銃を握った手の親指で鼻の頭を掻いた。


 約束通り、銃口はこちらに向いていないし、安全装置もかかっている。しかし彼がその気になれば、安全装置を外して俺の頭をブチ抜くまでに一秒とかからないだろう。運転に集中しなければならないが、助手席に拳銃を握った男が、それも見知らぬ、人種も違う男が座っているというシチェーションには緊張感が伴う。


 不意に気付いてしまったが、このダッシュボードの黒っぽい染みは血の跡ではないか。


「なあ」

 ブライアンが語気を強めた。つい肩がびくりとして、それがハンドルに伝わり車が左右に揺れた。


「な……なんだ?」

 俺は視線を前に向けたまま訊いた。


「だから、光ってのは波と粒子の性質、両方を併せもつんだとよ」

「ああ、うん。聞いたことがある」うなずきながら、俺は埃をかぶったおぼろげな知識を頭の片隅からひっぱり出した。「たしか、光に細いスリットの間を通過させて確かめるんだ」


「そうなのか?」視界の端で、ブライアンが首を傾げた気がした。

「そう……だったと思うけどな」俺は前方に目を向けたまま答えた。


「その実験で、なにが分かるんだ?」

「えっと……つまり、光も音なんかと同じように、波のように伝わるってことが分かるんじゃなかったかな。音なら水面の振動とかで、もっと目で見て分かりやすいけど、光もそうやって波であることが確認できる」

「粒子の性質はどこに行ったんだ?」


「えっと、なんだったっけな……」俺はさらに脳の奥の方の知識をひっくり返す。たしか、粒子の性質を持つから物質を押すこともできるとか、そんなんだったような気がするが。


「いやまあ、別にいいんだ」言って、ブライアンはたぶん、肩をすくめた。「俺だってなにか分かってるわけじゃない。ただ『光は波と粒子の性質、両方を併せもつ』っていう文章を、どっかで見たことがあって知ってるだけだ。光ってのは、だいたい波だと思ってれば大抵のことは理解できるが、たまによく分からないこともあって、それは光が粒子の性質もあわせもっているからだと」


「ああ、うん。そうだな」俺はまたうなずく。「本当のところはどうだか知らないけれど、そういう風に理解できてれば十分だと思う」


「十分なわけあるか」フッと、ブライアンが鼻から息を吐いた。「十分なんじゃなくて、不可能なんだ。俺たちぐらいのおつむじゃあ、世界の真理には到底、到達できない。だから、これくらいが俺たち凡人には丁度いいくらいだって、自分で勝手に決めて納得してるだけのことさ」


「そういうものかもしれないな。でも仕方ないだろ。生きていくには目の前に積まれた問題をどんどん解決していくしかない。光の性質を十分に理解するのに割けるほどの時間はないんだ」

「そう。そういうもんだ。時間的、体力的、能力的な上限が必ずどこかにある。だから、俺たちは十分によく理解はしてなくても、どっかの段階で『それはそういうものなんだ』って、理屈を丸呑みにするしかない」


 長い上り坂をすぎると、平均して下り坂であることが増えてきた。峠を越え、山を下りはじめたようだ。道路に堆積した砂塵のせいでタイヤをとられやすい。エンジンブレーキをかけ、さらに速度を落とす。


「たとえば」

 しばらくの沈黙があって、不意にブライアンが話を続けた。

「まだ日中なのに、なんで空がこんな夕方みたいに赤いのかは、光の波の性質で説明できる。大気中の砂塵が光を散乱して、青い光は地表まで到達せず、赤い光だけが届くからだ。だがもし、空が緑だったなら? その理屈じゃ説明がつかない。そういうときに、科学者の連中が言うわけだ。『それは光が波の性質とともに、粒子の性質も併せもつからです』と。そうすると、俺たちはその理屈で納得するしかない。『なるほど。粒子なんじゃあ、仕方がないな』と。よく分からんが、偉い人にとって当然のことなら、そりゃたぶん当然のことなんだろうと、緑の空の下で生きていくんだ」


「一体、なんの話だ?」

 俺が訊くと、ブライアンはハハッと短く、声を出して笑った。


「理屈なんてのは、俺らを丸め込むためのクソ長い文章でしかないってことさ。保険の規約と同じだよ。なるべく分厚くして、うんざりさせようとしてるんだ。俺たちが『いいよいいよ! もうそれでいいから、いいようにやっといてくれ!』って言うようにさ」



 ※※



 路肩に停まったブライアンの車を見つけたときには、やっと助かったと思った。


 大破した自分の車を乗り捨てて徒歩で移動しはじめてから、すでに丸一日が経っていた。まだ砂塵に埋まっていない自動車の轍を見つけ、それを辿って歩き続けたのだ。

 嬉しくて、ついなんの警戒もせず気楽に声を掛けてしまった。相手がキチガイかもしれない可能性を考慮して、もっと慎重に行動すべきだったし、もちろん相手はしっかりキチガイだった。


「やあ。故障かい?」


 俺が声を掛けると、ブライアンは野生動物を思わせる素早さで、サッと振り返った。砂塵避けのフードとマスクのすき間から、鋭い眼光がのぞいていた。ブライアンは俺を睨みつけ、俺はヘラヘラと笑顔を浮かべていた。


「ああ」

 数秒間の睨みあいの末に、ブライアンが言った。

「ガソリンはまだまだある。だが、いきなりエンストして、それ以来ウンともスンとも言わねえ」


「代わりに見てみよう」

 俺の提案に、ブライアンは警戒感をにじませた。

「整備士なんだ。整備士だった、かな。こんなことになる前は、自動車修理工場で働いていた。 その車も直せるかもしれない。その代わり、もし直ったら俺も車に乗せてくれ」


 また数秒間、ブライアンは俺をじっと見つめた。最初よりもいくぶん、警戒感は薄らいでいるようにも見えた。


「いいだろう。フェアな交換条件に思える。見てくれ」


 ボンネットを開けてすぐに、だいたいの見当はついた。たるんだハーネスがファンに巻き込まれて切断されていた。そこを繋ぎ、詰まりかけていた吸気の砂塵を掃ってキーを回すと、ブルンッ! と一度大きく車体が揺れ、エンジンがかかった。


 両手を広げ「どんなもんです?」のジェスチャーをし、運転席から下りて助手席に回ろうとしたところで、額に銃口を突きつけられた。


「おっと、そのままだ。そのまま運転席で、お前が運転しろ」

 ブライアンが言った。

「別に脅してるわけじゃないし、お前を疑ってるんでもない。たぶんお前はなにも企んでない、困り果てているだけの善良なやつなんだろう。とはいえ、物騒な世相なんでな。運転するには拳銃から手を離さなきゃならないが、それだとお前の手が拳銃に届く。どこの誰だか分からんやつを助手席に乗せて、そいつの手の届くところに拳銃を放り出しておくってわけにもいかない。 だから、お前を車に乗せるのなら、これが譲歩できる最大限だ。俺は拳銃を握り、お前がハンドルを握る」


「拳銃をお互いの手が届かないところに仕舞ってしまうというのは?」

 俺の提案に、ブライアンは首を横に振った。

「世界に俺とお前しか存在しないなら、そりゃあ結構な提案だが、いつどこで誰がどこから襲ってくるか分からねえ。パッと撃てなきゃ、なんかあったときに困るだろ」


 残念ながら、ブライアンの理屈には多少の道理が通っていた。それに、俺はなんとしてもブライアンの車に乗せてもらうしかないのだ。砂塵の中をひとりで歩き続けるのはもうこりごりだし、たぶん、このチャンスを逃したらどこにも辿りつけないだろう。そもそも選択肢がない。


「オーケイ、分かった。俺が運転して、君が拳銃を握る。それでいい。ただし、銃口はこっちに向けないでくれ」

「ああ、もちろん」ブライアンが目じりに皺を寄せ、おそらく、はじめて笑った。「お前が余計なことをしない限り、俺にもこれをぶっ放す理由はない。これから先も、車を修理できる人間はいたほうがいいからな」


 ブライアンが助手席に座り、フードの砂を掃ってドアを閉めた。車が揺れ、あらゆる隙間から細かい砂の粒子が落ちた。


「それで、どこに向かうんだ?」

「分かるもんかよ。ここがどこかも定かじゃねぇのに」

「そりゃそうだ。俺にもここがどこなのか分からない」

「まあ、道があるんだ。とにかく進むしかないだろ。ここにいたって仕方がない。いつか長い闇を抜けて、光あるところに出られると信じて進むしかない」


 言って、ブライアンはシートベルトを締めた。



 ※※



 ダッシュボードの黒い染みは乾いた誰かの血飛沫ではないかという疑念は、今ではもう確信に変わっている。


 ブライアンは、その手に握った拳銃で前の持ち主を撃ち殺し、この車を奪ったのだ。俺が生かされているのは、車を修理できるからに過ぎない。世界が砂塵に包まれている現状では、自動車は生命線だ。いつまた車が故障するか分からない以上は、修理できる人間は生かしておいたほうがいい。


 しかし、それだって彼の気分次第でどうなるか分かったものではない。ブライアンはまったく理屈の通じない相手ではないが、それ以上に刹那的で気分屋だ。理にかなわない行動をとることも十分にあり得る。いつまでもこの状態に甘んじているのは危険だ。


 どこか人のいるところまで辿り着き、そこでどうにかして彼と別れなければ。


「しかし、この砂塵はいったいなんなんだ」

 さらに濃さを増した砂塵に嫌気がさし、ふと呟いた俺の言葉に、ブライアンが「なにも知らないのか?」と、返事をした。


「君は、なにか知ってるのか?」


 この砂塵は半月ほど前に発生し、わずか数日で世界を覆い尽くした。俺のいた環境ではテレビもラジオもインターネットも早々に用をなさなくなったので、原因不明の砂塵が発生したということと、これが局所的なものではなく全世界的な規模のものであるということ以外、なにも知らない。


「俺も本当のところは知らねえけどな」前置きをして、ブライアンが言った。「どっかの偉いやつが『悪い物質』を『良い物質』に変えるやつを開発したんだよ。なんだったか、キレイニナールみたいなふざけた名前のやつさ」


「ああ、なんか聞いた覚えはあるな」俺は相槌をうった。「微小なナノボットで、有機物を短期間で環境親和的な物質に還元する、とか」

「それだ。そいつらは思い上がっていた。ナノボットを完全に自分の思い通りにデザインできると過信していた。だが、環境に放たれたナノボットは容易く変異した」


「なるほど」俺はうなずいた。「無限の自己増殖を繰り返すナノボットが、この砂塵の正体か。そんなもの、世に放てばどうなるかくらい予想できなかったのか」

 グレイグーとかペーパークリップマキシマイザーとかバイバインとかの類だ。はるかむかしに危険性が何度も指摘されている。


「予想はできてただろう。どこの段階でだとか、どれくらいの確度でとか、細かいところはいろいろあるだろうけどな。だが『悪い物質』の排出権が金で取り引きされるようになったところから、カタストロフィまでは一直線さ。『悪い物質』を『良い物質』に変えれば金になる。無限に金を生み出す機械があれば、誰だってスイッチをオンにするだろ。無限の金を前にすれば、誰だって多少のリスクには目をつぶる」

「つまりこの現状は、誰かのハイリスクなギャンブルの負けの結果ってわけか」

「まあ分からんさ。本当のところは。どういう理屈で納得するかってだけ。真実がどうだったところで、俺たちのやるべきことになにか違いがあるわけじゃない」


「やるべきこと?」

 俺はちらりと、ブライアンに視線を向けた。ブライアンはまっすぐ前を睨みつけていた。

「生きて、前に進む。いつか、より良い場所に辿り着くと信じて」



 ※※



「ガソリンスタンドだ」

 ブライアンが言った。目をこらすと、濃い砂塵の向こうにオレンジの看板が光っているのがかすかに見えた。

 山間を抜け、道は平坦な直線になっていた。まだ街は見えないが、ポツンと一軒の建物が建っている。

「電気が通っているのか」

 助かった、と思った。灯りがついている。きっと誰かいるだろう。どうにかして彼から逃れ、助けを求めなければ。


 スタンドに乗り入れると、ガラス張りの店舗の内側に、ふたつの人影が見えた。

「お前が給油しろ。俺は支払いをしてくる」

 言って、ブライアンが助手席から出た。俺が店員に助けを求めるチャンスを、先に潰してきたかたちだ。

 俺は給油口を開け、建屋のほうに歩くブライアンの後ろ姿を見ながら考えていた。どうにかして、中の人に異常事態であることを伝え、保護を求めるんだ。


 給油ノズルを差し込み、待つ。中で店員がスイッチを操作しない限り、ガソリンは出てこない。


 ブライアンが店のガラス戸を開け、一連の動作で店員のひとりの頭を撃ち抜いた。


「は!?」


 驚いて、俺は硬直してしまった。ブライアンはもうひとりの店員にも拳銃を向け、なにかを言った。店員が慌ててなにかを操作すると、俺の手元でガフンッと一回、咳き込むような音がして、ノズルからガソリンが出始めた。


 その直後、ブライアンはその店員の頭も一撃で撃ち抜いた。


「おい!」


 俺がノズルから手を離し建屋のほうに走ると、ドアから出てきたブライアンは迷わず銃口を俺に向けてきた。俺は立ち止まり、両手をあげる。


「なにしてんだよ……お前」

 俺が言うと、ブライアンは無表情のまま軽く首を傾げた。

「支払いをしてくると言っただろ」

「支払いというのは、金を払うという意味だ」

「銃弾は金で買える。金は銃弾で奪える。銃弾と金は完全に交換可能だ。金で支払うのと銃弾で支払うのに、どれだけの違いがある。お前こそ、なにをしてる? 俺は『給油をしろ』と言ったつもりだが」


 俺は両手をあげたまま後ろに下がり、ノズルを握って給油を再開する。


 ダメだ。この男は想定していた以上に危険で、頭がおかしい。おしゃべりしながらの長時間ドライブで、すこし感覚が慣れてしまっていた。相手は拳銃を持ったキチガイで、なんの迷いもなく人間の頭に銃弾をぶっ放す。


 誰か人がいるところに辿り着けば助かると思っていた。考えが甘かった。警察とか、そうでなくても、もっとたくさんの人間とか、とにかく暴力でこいつに対抗できる状況にならなければ、こいつは止められない。


「ほら、行くぞ」

 ブライアンが言う。

「どこに行くっていうんだ……」

「何度も言わせるな。ここにいたって仕方がないだろ。道があるんだ。いつか光に辿り着くと信じて、前に進むしかない」



 ※※



 しばらく車を走らせたところで、ブライアンが言った。

「なあ、喉が渇かないか?」


 道はまっすぐに続いている。道中ところどころに建物はあったが、どれも人の気配はなく、暗く静まりかえっていた。

「なあ。喉が渇かないかって訊いてるんだよ」

 もう一度、ブライアンが言った。


「……また、撃ち殺して奪うのか?」

「まあ、そうなるな。そうするしかないだろ。金は役に立たないし、べつに殴り殺してもいいんだが、いま手元には拳銃しかない。いや、車外脱出用のアックスがどっかにあったかな」銃弾だって貴重な資源だからな、と呟きながら、ブライアンはグローブボックスを開けた。「ああ、あったあった。こんなもんでも、なんかの役には立つかな」


 ゆるく長いカーブを抜けると、今度は青く光る看板が遠くに見えた。

「コンビニかな。コンビニだったらいいな。なんでも手に入る。車にはガソリンが必要だが、俺たちにも食い物や飲み物が必要だ」

 看板がどんどん近づいてくる。「ほら、コンビニだ」と、ブライアンが嬉しそうに声をあげた。


 どうする?

 どうすればいい?


 コンビニに入れば、またブライアンは人を殺して食い物や飲み物を奪うだろう。誰かがブライアンを返り討ちにしてくれる可能性はあるだろうか?

 俺は必死に考えていたが、気が焦るばかりでろくに考えがまとまらない。考えがまとまらないうちに、車はコンビニの駐車場へと入っていく。


 店内には店員の他にも数人の人影が見えた。こちらに気付いて注意を向けているようだ。買い物にきた客というわけではなく、この場所を避難所のように使っている人々のように見える。


「行くぞ。車だけ盗まれちゃかなわん。お前もおりろ」

 そう言って、ブライアンはまず俺に拳銃を向けた。仕方なく、俺はエンジンを切り車を下りた。


「先に行け」

 ブライアンが俺の背中に拳銃をぴったりとつける。右手には拳銃、左手にはハンドアックスを握っている。俺の身体で隠れて、コンビニのほうからでは武器は見えないだろう。


 どうか十分に警戒していてくれと、俺は願う。世界が突然、謎の砂塵に包まれ、明日も知れない大変な状況なのだ。いきなり拳銃をぶっ放してくるキチガイも外をウロウロしているし、緊張感をもって生きなければならない。知らない人間が近づいてきたら、警戒して、なんなら先制攻撃でブチ殺してしまってくれと強く願う。


 だが違った。内側から扉を開けた店員は「いらっしゃいませ。大変だったでしょう」と、笑顔で俺たちを出迎えた。「どうぞ中へ。まだ食べ物も飲み物も、たくさん残っていますから。もう大丈夫ですよ」


 そうだ。この国の人たちは、こうなのだ。異常事態への緊張感がなく、素朴な善意に溢れている。


 それは美徳のはずなのに。責められるべき点ではないはずなのに。

 だが圧倒的な悪意の前では、そんなもの、なんの役にも立ちはしない。


「逃げてくれ!」

 俺は叫んだ。


「ファック」

 ブライアンが小さく呟いて、俺の背後から身を乗り出し引き金を引いた。


 ガラスが割れ、悲鳴が響き渡った。だが銃弾は店員に命中しなかった。

 「逃げてくれ!」

 俺は叫びながらブライアンに体当たりをした。コンクリートの壁にぶち当たったみたいな衝撃がきて、俺が地面に転がった。ブライアンはびくともしなかった。


「面倒を増やすな」

 衝撃がきた。頭をサッカーボールみたいに思いっきり蹴られたようだ。目がチカチカする。呼吸ができない。再び銃声がして、悲鳴があがった。


 息を吸い込んだら、思いっきり口の中に砂が入ってきて激しく咳き込んだ。肺の中まで砂まみれになったかもしれない。

 顔を上げると、コンビニの入り口をくぐるブライアンの背中が見えた。


「やめろ……もうやめろよ……!!」


 俺も同じだ。緊張していたつもりで、異常事態への緊張感がぜんぜん足りていなかった。助けを求めようとか、誰かが返り討ちにしてくれないかとか、そんなぬるい他力本願な考えでは全然ダメだった。


 俺がやらなければ。


 俺が誰かに助けてもらうんじゃなく、俺が誰かをこいつから助けなければならない。他の誰かを守るために、こいつを殺さなくてはならない。


「うおおおおっ!」

 俺は雄たけびをあげ、低い体勢のままブライアンの膝裏に体当たりをした。今度ばかりはブライアンも体勢を崩し、床に転がった。カーンッ! と、金属質な大きな音が響いた。

 ハンドアックスがブライアンの手を離れ、回転しながらコンビニの床を転がった。


「逃げろ! みんな逃げてくれ!!」

 叫びながら、俺は四つん這いのまま無様に手足をバタつかせハンドアックスに飛びついた。振り返る。さっきの店員が外に逃げ出したのが見えた。よかった。少なくともひとりは助けられた。


 ゆっくりと、ブライアンが立ち上がろうとしていた。その右手にはまだ拳銃が握られている。

「おらぁっ!」

 俺はハンドアックスを両手で握り、ブライアンの横っ面に向けて振り抜いた。手元をよく見ていなかったので、ハンドアックスの側面でブライアンの顔を叩いただけだった。


「痛えな」

 言って、ブライアンも拳銃を握った拳を、俺の横っ面にぶつけてきた。それだけのことで、俺はドカンと派手にブチ飛んだ。


 また頭に衝撃。視界がチカチカと白く光っている。痛い。もうやめたい。

 やっぱり俺が誰かを助けるなんて無理なんだと思う。体格が違いすぎるし、なにより気の狂いかたが足りない。人間の身体に刃物を振り下ろすなんて、正気の人間にはとてもできない。


 でもだめだ。俺が這いつくばって泣き言を言っている間に、また誰かが殺されてしまう。事態には一刻の猶予もない。今ここで、俺が立ち上がるしか、俺が立ち向かうしかないのだ。


「あああっ! もうっ!!」

 叫びながら、俺は身体を起こした。

 ブライアンは店の端でうずくまっている子供と、その母親らしき女性に拳銃を向けていた。

「やめろって言ってるだろ!!」

 俺が闇雲に振り回したハンドアックスの刃がブライアンの首筋に食い込んだ。


「お」 ブライアンの首から、ブシュッと派手に血が溢れた。「やるじゃねぇか」


 ブライアンが膝をついた。カコンッと、拳銃が床に落ちた。俺はそれに飛びつくと、銃口をブライアンの額に押し当てて、引き金を引いた。思った以上に軽薄なパンッという音と、思った以上に大きな反動があって、ブライアンは後ろに崩れ落ちた。


「はあ……はあ……」

 何度も大きく息を吸い、吐く。だんだん呼吸が安定してくる。

 振り返り、座り込んで抱き合う母子に笑顔を見せる。たぶん、笑顔になっているはずだ。

「もう……大丈夫ですよ」


 そう言った俺の顔の横を回転するハンドアックスが通り過ぎ、トンッと母親の顔面に突き刺さった。


「だから、面倒を増やすなよ、お前は」


 子供が泣き叫ぶ声がきこえる。

 ブライアンが立ち上がっていた。首から血を流し、額の真ん中には穴が開いている。ゆっくりと歩き出す。俺の横を通り過ぎ、そのまま母子のほうへと向かう。死んだ母親の顔面からハンドアックスを引き抜き、泣き叫ぶ子供に向き直る。


「やめろ!」

 俺は引き金を引く。


 パンッ!


 銃弾はブライアンの背中に命中する。


 構わずブライアンはハンドアックスを振り上げる。


 俺は引き金を引く。


 パンッ! パンッ! パンッ!


 一発は外れ、残りはブライアンの肩と後頭部に命中する。


 ブライアンがハンドアックスを振り下ろす。


 子供の泣き声がやむ。



 ※※



 静かだった。自分の呼吸音以外、なにもきこえない。


「ほらよ」

 ブライアンが水のペットボトルをこちらに投げてよこした。

「水でも茶でもソーダでも、なんでもある。なんか飲んで、なんか食って、出発するぞ」


「もう……もう嫌だ……」

 痛い。しんどい。もうやめたい。頭がクラクラする。なにも考えたくない。とにかくもう嫌だ。

 俺は自分のこめかみに銃口をくっつけ、引き金を引く。


 パンッ!


 頭に衝撃。視界がチカチカと白く光る。痛い。もうやめたい。もうやめたい。

 もうやめたいのに。


 なんで終わらないんだ。


「だから面倒を増やすんじゃねぇよ」ブライアンが言った。「死んでおしまい。殺しておしまいってんなら、話は楽でいいけどよ。終わらないんだ。終わらないんだから、そんなことしたって痛いだけだろ」


「なんで死なないんだよ。俺も、お前も。おかしいだろ、こんなの」


「俺も本当のところは知らねえけどな」前置きをして、ブライアンが言った。「たとえば、ナノボットに適応しちまった人間は、負傷を端からナノボットが補填しちまうんでちょっとやそっとじゃ死なねえ身体になった、とか、そういう理屈がつけば納得するか?」


「じゃあなんで、そこの母子は死んでるんだよ」

「だから知らねえって。理屈なんてのは、お前を丸め込むためのクソ長い文章でしかない。どれだけ長い文書を並べれば、お前は『それじゃあ仕方がないな』って納得できるんだ。どっちみち納得するしかないなら、それはそういうもんだって、さっさと納得しろ。面倒を増やすな」


 ブライアンが俺の首筋をひっつかんで、起き上がらせる。ペットボトルのキャップをあけ、口にざぶざぶと水を流しこんでくる。

「お前は俺を憎んでいるし、俺もお前が心底ダルい。だが俺には車を修理できるお前が必要だし、お前には車が必要だ。お前にやられた傷は痛いが、それでも、お互いに憎しみと痛みを抱えたまま、共に生きるしかないんだ。俺たちは」


 ブライアンに力づくで運転席に放り込まれる。仕方なく、俺はシートベルトを締め、エンジンをかける。たよりないヘッドライトの光が、ほんのすこし先の地面を照らしている。


「いったい、どこに行くっていうんだよ……」

「だから知らねえよ。でもここにいたって仕方がないんだ。いつか長い闇を抜け、光あるところに出られると信じて、進み続けるしかないじゃねえか」


 俺はギアを入れ、サイドブレーキを外し。アクセルを踏んだ。

 車が動き出した。

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