ある俳優のお話

旧版・ある俳優のお話

　昔、一人の俳優が端役として舞台デビューを果たしました。しかしそこは主役の人気にあやかった劇団で、脇役ならまだしも端役の存在や演技に目をやる客はいませんでした。俳優はそこで３年に渡って端役を与えられながらも、地道に腕を磨き続けました。

　俳優の努力は、その温和な人間性と相まって次第に仲間たちを通して広がっていき、やがてテレビドラマや他の劇団からも出演の依頼が来るようになりました。軽妙な調子で場を回していくその演技性が、当時の演劇の需要と合っていたという背景もあったのでしょう。

「うーん、だいぶ突っ張って生きていたと思うんだけどなあ。だって、若い頃ってみんなそうでしょう？

　ただ僕の場合は、無関心って言うのかなあ、他人との関わりの中で起こる摩擦なんていうものはあまり気にしていなかったんですよ。それは芝居の中でもう十分にやっている事ですのでね。それよりも今日をどう食い繋いでいくかで必死でした。ははは。」

　やがて所属していた劇団が消滅すると、俳優は幾つかの劇団を渡り歩いた後、フリーランスの役者として活動をする事を決断しました。三十五歳の時の事です。一つ所に縛られたくない、色々な演劇に触れたいという想いがそこにはありました。

　日中は舞台の稽古を掛け持ちし、夜はアルバイト、たまにテレビドラマや映画の出演依頼が届くという日々が続きました。それは劇団に所属していた頃よりも遥かに忙しく、また楽しい日々でした。

　しかし四十を少し過ぎたある日の事、俳優は大病を患い入院してしまいます。そしてその時、初めて俳優は自分が役者として食べていく事が出来ていないと気が付いたのです。

「ただただ夢中だったんですね。芝居が出来ればいいや、と自分の健康や生活を見つめたりなんてしなかった。入院した時に病院の先生にしこたま怒られたんです。”いい年してなんて無茶な生活をしていたんだ”って。まったくその通りでした。ぐうの音も出ませんでした。なにせ、自分でもいつ寝ていたのか覚えてないくらいに滅茶苦茶な生活をしていましたので。

　でもあの時そうやって言われたのが効果てきめんだったんだなあ、”今の自分が役者として食べていくためにはどうしたらいいんだろうか？”そんな事を四十過ぎてやっと考え始めるようになりましたからね。まあ酒もタバコもやめてませんけどね。あっはははは。」

　それから十数年。俳優は現在、役者を目指す若者たちが通う養成所で演技を教える傍ら、自身も舞台に立ち続けています。教え子の中には、養成所を離れてからも尚、俳優のもとを訪れ、教えを請うたり苦悩を打ち明けたりする者が少なくありません。若い世代から慕われる俳優の姿は、まるで孫に囲まれるおじいちゃんのようです。

　ただ、芸能という世界において、俳優の人生は決して成功したものとは言えないでしょう。俳優は、未だに舞台稽古の期間中は夜間にアルバイトをしています。何か大きな賞を受賞した経験もありません。そして四十代で大病を患って以降、幾度も病魔が俳優を襲いました。身体は癌に蝕まれ、片方の耳はほとんど聴こえません。

　それでも俳優は、自身の人生を幸せだといいます。

「僕にはたくさんのお金はありません。でもたくさんの縁に恵まれました。

　今ああやって若い子たちと一緒にいられるのも、ここの代表さん……若い頃に一度舞台で共演しただけの間柄だったんですけどね、彼が”うちで講師やってみない？”って声を掛けてくれたおかげですし。

　そういう色んな縁のおかげで今もこうして何とか生きて、舞台に立つ事が出来ているんです。」

　そして最後に、自身の夢についてこう語ってくれました。

「よく”舞台の上で死ねたら本望”って言うでしょ？僕はね、ちょっと違うんだなあ。千秋楽が終わって、みんなで楽しく打ち上げをして、家に帰った後みんなに向けて一筆感謝の言葉でも書き遺してから、それから死にたいんです。だって舞台の上で死んだんじゃあ色んな人に迷惑かけてしまうでしょ？それは申し訳ないからねえ、ははは。

　あぁ……それが出来たら最高だろうなあ。」