声
真花
声
バス停には他に誰もいない。
五時はもう宵で、寒くて、息の白いのが街灯に照らされて漂う。バスが来るまであと五分。僕は流れる車を目で追っていた。ときにビートの効いた、だが退屈な音楽を大音量で撒き散らすボックスカーが横切る以外は、タイヤとエンジンの音だけを厳かに響かせて車は通過して行った。流れる車列にバスを探すが、求めているオレンジに彩られた大きな車体は来ない――
「お疲れ様」
体が跳ねた。後ろを振り返る。もこもこのダウン、スカート、パンプス。短い髪はほんのり、夢の記憶と同じくらい茶色い。
「
「
「そうです」
「一人きりなんだね。会社の最寄りなのに」
「いつもそうですよ。宮下さんは今日はどうしたんですか?」
「ちょっと車を貸し出してて、一週間だけバス電車なんだ」
車を貸すと言うことがよく分からない。だが、立ち入ったことを聞くのも憚られる。
「そうなんですね」
「バスって定刻通りに来るの?」
「まちまちですね。早く出ることはないです。早発って言うらしいですよ」
「早発ね。じゃあ待ち損はないってことだ」
僕は頷いて、宮下から車道に視線を流す。車がまた通過する。さっきからずっと通過して行っている。頬に冷たさを感じる。待った分だけ僕達は冷えて行く。どれだけ冷えても、バスがくれる温度は一定だ。宮下が二歩道路側に進む、ジャリ、ジャリと足音が鳴る。
「だから明日も私、バスなんだ。で、そっから電車。……今度のプロジェクトどう思う?」
「同じチームになったばかりで言うのも何ですけど、いまいちだと思います」
「どう言うところが?」
「コンセプトがぼやぼやなところです。『明るい未来を引き寄せる』って言われても、誰もピンと来ないんじゃないかと思うんです。おもちゃメーカーですよ? もっと練られたコンセプトか、逆に突き抜けたシンプルさかが必要だと思います」
「だよね。私もそう思う。
「ですよね。奇跡が起きない限り、間違った地図が連れて行くのは間違った場所ですからね」
「あ、それ私も知ってる。どんなに努力しても、早く間違った場所に着くだけ、でしょ?」
「そうです」
僕達は黙って、横並びに立っている。話すことがそんなにある訳ではない。いや、プライベートを切り売りすればきっとバスが来るまでの間くらいは繋げるが、宮下に対してそこまでする気はない。僕達は適正な距離を保ったまま、明日も仕事をするのだ。
バスは来ない。もう予定の時間は過ぎている。
「私は、『明るい未来を引き寄せる』を変えるとしたら、『胸おどる瞬間』とかかなぁ」
「僕なら、『可能性を引き出す』ですね」
「なるほど。元のテイストも残しつつ、焦点化する訳だ。私は、明るい未来だけを見た」
「分かります。両方のいいとこ取りで『胸おどる瞬間を引き出す』ってのはどうでしょう?」
「あ、いいかも。私の全部採用だし。おもちゃのコンセプトになりそう。でも、じゃあ具体的に何をすればいいのかは全然まだ分からないけど」
「それはここから組み立ていけばいいんです」
「チャンスがあったら提案してみなよ」
「宮下さんがしたらいいじゃないですか」
「何を言っているの。作ったのは吉田君だから著作権は吉田君にあります」
僕は口をクッと曲げる。宮下の視線が僕の口に当たり、這い上がるように僕の目を刺す。僕は胸の中でため息をつく。
「分かりました。チャンスがあったらですよ」
「よろしい」
また僕達は黙る。仕事の話で共通の話題はこれでお終い。寒い噂話なんてしたくない。
バスは来ない。車が目の前をどんどん通過して行く。
「私、昨日、親子丼作ったんだ」
「そうですか」
「コツがあってね、分かる?」
「いえ。料理はしませんから、さっぱり」
「肉より先に、玉ねぎを煮るのがコツだよ。最高のきつね色の玉ねぎが出来るんだ」
「親子丼なのに鶏でも卵でもなく、玉ねぎですか」
「勝負を決めるのは主役じゃないこともある」
「で、美味しかったんですか?」
「そりゃ、もう」
「そうですか」
お腹が空いた。今日は親子丼を食べて帰ろう。
「美味しいんだよ?」
「羨ましいです」
宮下は何かを言おうとして、やめた。ジャリ、ジャリ、と足踏みをして、若干僕の近くに立った。
「……バス来ないね」
「そうですね」
「映画とか観る?」
「それなりには観ます」
「私、大ヒット、とか、全世界号泣、とかの映画、全部クソに感じるんだ」
クソ?
僕は宮下の顔を見そうになって、堪えた。視線を車道に固定する努力をする。
「……全部ですか?」
「うん。一般の映画を観ている人って、何を観ているんだろうって疑問がいつもある。私が好きな映画はマイナーなものばかり」
「宮下さんは自分の感性に自信があるんですね」
「ある。小説も同じ。何かの賞を取るような小説とか読んでも、クソだなって思う。何でこれが? って立ち竦むよ。私が好きになる小説家は大体売れなくて消える」
「ちょっと呪いみたいになってますけど」
「偶然じゃないと思う。でも、人間には当たらないと思うよ」
「そうなんですか?」
「私の好きな家族も友人も、みんな幸せに暮らしているから」
「確かに、人間は感性だけでは選ばないですものね。……僕にも似たようなものありますよ。ジャンプを毎週読んでいるんですけど、いいなと思った作品は大体打ち切りになります」
「そうなんだ。切ないよね」
「でも、その打ち切り直前のマンガって、何とも言えない味があって、その味が好きなんです」
「私のことを言えないくらいの変態さんなんじゃないの?」
「宮下さんのこと変態なんて言ってないですよ」
宮下はふふ、と笑う。鋭さのある笑み。
「そうね。言ってない。でも私は自分でちょっと変態なんだって思っている。同時に、世間一般の評価はおかしいとも思っている。クソな映画が評価されるのも、クソな小説がもてはやされるのも、不愉快でしょうがない。分かる?」
宮下がもう半歩僕に近付いた。がんばれば一息に詰められる距離だ。僕はたじろぎそうになって、耐える。そうすることが失礼な気がした。
「理解は出来ます。怒りも伝わっています。理不尽に抗うような」
宮下は頷く。巨人が呼吸をするようなゆったりとした頷きで、その直後に僕を強く見る。
「吉田君は小説書く?」
僕は急な質問に時差を持って追い付く。
「書きません」
「私、書くんだ。でも、秘密ね。絶対に秘密。むしろ今、どうして口を滑らせたか自分で疑問になっているくらい。賞を獲ろうと投稿しているんだ」
「つまり、ガチって奴ですか?」
「ガチもガチよ。毎日仕事が終われば家に帰って、寝るまで小説を書いているんだ」
僕は何て言ったらいいのか分からなくて黙る。宮下からは汽車のように湯気がぽっぽ出ている。
「いつか賞を獲ったら、読んでみてよ。それまでは内容は秘密」
「楽しみにします。でも、小説を書くことと、映画や他の小説の好みがドラスティックに、つまりクソと何かに分かれるのには関連があるんですか?」
「クソと宝だね。関連はあると思う。好みに強烈な偏りがあるから自分の好きなものを作りたいと言う動機もちょっとあるし、それ以上に書くようになってから好みが激しい好きと嫌いに分かれるようになったところもある。まぁ、小説書かなくても、クソはクソだと思っていたと思うよ」
「そうなんですね。僕は多分、クソとも思わない代わりに、宝ともなかなか出会わないのかも知れません」
「どっちが幸せかは難しいよ。これでいい、で生きるのは穏やかだけど退屈で、これがいい、で生きるのは刺激的だけど苦痛を伴う。生まれて育つ間にいつの間にかどっちかになっているんだ」
「僕はじゃあ、これもいい、を目指しましょうか」
「やるね。じゃあ私は、これじゃなきゃダメだ、に進もうかな」
僕は宮下を見る。鋭利さはあるが、それを覆うくらいに楽しそうだ。僕はどんな顔をしているのだろう。同じ顔なのだろうか。
「宮下さんの小説、きっと面白そうです」
「好みの味かは分からないよ。でも、期待してくれると嬉しい」
「読む前だから、過度な期待は禁物ですよね」
「うん。それでも」
僕は宮下の小説を読んで、クソと言えるだろうか。宝ならそれに越したことはないが。宮下は例えば僕が何かの作品を作って、見せたとき、クソと言うのだろうか。……言いそうだ。スパッと。宝のときもそう言うだろう。
一方的な打ち明けに対して、秘密を等価交換する必要はない。僕が絵を描いていることは言わない。見せて、クソと言われたらしんどさに死にそうだ。永遠の他人の一言であっても酷評には傷付くのだから、職場の先輩と言う距離だとさらに深い傷を抉られるだろう。もちろん、褒められる可能性もある。なのに僕はクソと言われる未来だけを想定している。
「吉田君、バスが来たよ」
「おっそ」
「ときには遅くても許そうよ」
「そこはクソバスじゃないんですか?」
「うん。違う」
僕達はバスに乗り込むと別々の席に座った。会話はせず、バスは遅れたままに進み、駅前のロータリーに到着した。降りるときに順番になって、先に降りた宮下は僕を待っていた。
「じゃあ、お疲れ様。私はちょっと買い物してから帰るから、また明日ね」
「お疲れ様です」
そこで別れて、僕は電車に乗る。
宮下の余韻が胸の中を占めている。宮下自体は尖ったところがあるのに、胸の中にあるのはふわふわした宮下の精だ。だがだからと言ってどうするつもりもない。時間が経てば消えるだろう。全然気にならない、と思いながら宮下とのやり取りを反芻する。クソ、って。
帰路の上でチェーン店で親子丼を食べた。家に着いたら、キャンバスに描きかけの絵を出して、筆を走らせる。酷くデフォルメした人間の絵だ。三人が重なっている。平面になって曲線で区切られた人間は何かを覗いている。こいつらも、これがいい、なのか。それとも僕と一緒で、これでいい、で生きているのか。または、もうその先に進んでいるのか。
ベッドに入るとまた宮下が出て来た。
今も小説を書いているのだろうか。だが、その話は職場では出来ない。また二人だけになったときに進捗とかを聞いてみようかな。
胸の中の宮下の精が悪くなくて、だといても一過性のものだろう、吐息と一緒に吐き出す。眠気はバスのように遅れずに来た。
次の日、朝のバスには宮下はいなかった。
机で、仕事の準備をしていたら、宮下がオフィスに入って来た。僕の方に向かって来る。
「おはよう」
「おはようございます」
「クソ寒いね」
胸にやわらかい打撃。
生まれた疑問を抱えたまま、そうですね、と返した。宮下はそれ以上言わずに僕の前を去った。僕は机に向き直るフリをして、自分の中をさらう。
宮下の声がこれまでと違うものに聞こえた。
しっとりと心臓を撫でられたような感覚。心臓は僅かに鼓動を強めている。クソ寒いね、が頭の中で何度もリフレインされる。その度に胸の中に宮下が積み重なる。
宮下の姿を見たい。だが、立ち上がらなくては見られない位置関係だ。いや、どうしてそんなことを思うのだ。適正な距離を保った関係のはずだ。
仕事をしよう。同じチームだし、話すこともあるだろう。これまで心に波風を立てなかったことなのに、その瞬間を待ち始めている。
どうしてか、僕は溢れ出るものを押さえ込まなくてはいけないように感じた。職場だからだろうか。違う。まだ走り出すには足りない。宮下が足りない。
仕事を終わらせたらバス停で待とう。
今日もバスよ遅れてくれ。
(了)
声 真花 @kawapsyc
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