扉を開けて

此木晶(しょう)

扉を開けて

 夕暮れから降り始めた雨は夜更け過ぎには雪へと変わった。そのまま季節外れの雪は降り続け、卒業式の当日の今日もまだ止む気配を見せない。既に校舎から見える御雲の町並みは雪化粧を終えている。舞い降りる雪の立てる静かな音を廊下の窓越しに聞きながら松浦京子まつうらみやこは「なんか本当にあっという間だったなぁ」と呟いた。

 本当に高校の三年間は瞬く間に過ぎた気がする。ノリのいいクラスメイトたちに恵まれたからだろうか。いつも大騒ぎして、駆け回って笑った賑やかな日々だった様に思う。

 特にこの一年は楽しかった。

 学園祭や体育祭、クラスで花見もしたし、海にも行った。有志を募った演じた劇も受けた。どうやら恒例行事になりそうだ。花束をくれた後輩が「来年は私たちがやります」と教えてくれた。

 輝いていた何でもない日常。約半分がエスカレーターで同じ大学に行くとはいえ、残り半分は別々の大学に進んでしまうから、もう絶対に過ごす事の出来ない貴重な思い出だ。

 でも、まだ続いているような気がする。卒業証書を貰ったとはいえ、まだ実感が薄い。

 結局の所、整理がついていないのだと思う。

 まだ、遊び足りない、楽しみ足りないような気がして焦燥のような物がある。あれもしたかった、まだこれをしていない、そんな我侭な感覚。

 大学に通い始めたら多分忘れてしまうような高校生活の熱気の残滓。

「ま、とにかく手紙で呼び出しなんてベタでお約束な相手の確認をしないとね」

 手紙が机の中に入っているのに気付いたのは、卒業式のあと、教室に戻ってからの事だ。担任から卒業証書と激励の言葉を貰い、さあ忘れ物はないかなと確認したら、あった。

 式の前はそれなりに緊張していたし、終ってからはアドレス交換や色紙書き、記念撮影に忙しくて仮に誰かが手紙を放り込んでいたとしても分からないだろうなと思う。

 それでも「多分、クラスの誰かな訳だ。さすがに、後輩や他のクラスの子がいたら気付くだろうし」

 手紙を改めて見る。丁寧な文字で『卒業式のあと、この教室で』宛名も何もない、本当に用件だけの潔いくらいにそっけない手紙。いや、手紙と言っていいのかどうか。

「メモだよね、これ。せめて差出人の名前くらいは欲しかったよね」

 京子はクスリと笑う。普段だったら無視するだろう手紙を気に留めたのは、高校生活の最後くらいこんなイベントを楽しんでもいいか、なんて気分になっていたからだ。

 元々彼氏なんて作るつもりはなかった。たまに付き合って欲しいと言ってくる男子もいたが全部断った。そういう関係よりもカラッとした友達付き合いの方が性に合った。上も下も男兄弟に囲まれていたからかなぁとも思う。

 そんなのだったし、髪も鬱陶しいからという理由でベリーショートで六年間通した。男みたいだとよく揶揄われたし、事実後輩女子の方によくモテた。

「これで相手が女の子だったらどうしよう」

 自分で言っておいてなんだが、本当にあり得そうだなぁと。

 あり得えそうと言えば打ち上げにカラオケに行こうと言ったメンバーの顔が浮かんだ。

「ちょっと約束があるから遅れる」と言うと「告白されるのか」とからかわれた。「さあ、わかんない」と言ってこちらに来たけれど、皆の仕組んだドッキリと言う可能性もある事に気付いた。それならそれで良いかなと思う。そちらの方が最後の想い出には丁度いい。

「さてと、到着」

 教室の入口の前に立つ。色々な想い出のある、決して短くはない時間を過ごした場所。今日を限りに入る事もないだろう。若干の感慨と共に、扉を開ける。

 ドキリとする。

 イベントを楽しもうなんて言う考えは何処かに飛んでいってしまっていた。

「よっ」

 そこには、雪の降る空を背に片手を挙げ京子に挨拶する斎川真人さいかわまことがいた。


「斎川……。どーしたの、こんな時間に。皆カラオケ行ってるよ」

「ん、外を見てた」

 京子は早くなった鼓動を押さえるのに必死だと言うのに、真人はのんびりと答える。

 斎川真人、中学一年から高校三年までの六年間、ずっと同じクラスだった唯一の男子生徒。そして、多分京子が一番親しい男友達。

 少なくとも京子はそう思っているし、真人もそういう態度で京子にそういう態度で接していたと思っていたのだけれど……。

「こうやって外を見るのも見納めなんだなと思って眺めていたら、何時の間にかね」

「そっか。斎川、よく見てたもんね、皆が騒いでても混じらないで。でもさ、斎川もすぐ隣りの学校行くんだし、いつでも見に来られるよ。まあ、少し浮いて見えるかもしれないけれど」

 京子は真人の言葉を高校の校舎から見る景色が見納めだから惜しんでいるのだと解釈した。だから、多少からかいを含めての台詞だった。

「そうかな」

 けれど、真人は微笑んだ。今にも消えてしまいそうな儚い笑みを浮かべた。

「そ、そうだよ。だから、そんな辛気臭い事してないで京子さんと一緒にカラオケに合流しよう」

 どぎまぎしながら誘う。真人と二人きりで教室にいるのは避けたかった。教室に来た理由を聞かれる事も怖かったし、『ひょっとしたら』が当たってしまった時、どういう態度をとったらいいかわからなくって嫌だった。だから、真人が「いいよ」と肯いた時、本当にほっとした。だから、その続きに心臓が踊り出すくらいに動揺もした。

「ところで、松浦はなんの用があったの」

「―――――!?」

 すっかり油断していた分、過剰なくらいに反応してしまう。驚いている真人に身振りで何でもないと大丈夫と示しながら、頭の中でどうやって誤魔化そうかという言葉がまわる。結局上手い言い訳が思いつかなくて正直に言う事にしたが……。

「手紙もらったの。卒業式の後ここに来てくれって。メモって言った方がいいのかな。宛名も何もなかったし。偶にはそういうのに付き合うのも面白いかなと思ってきてみたんだけど」

 肩を竦める。

「悪戯だったみたい。あ~あ、てっきり佳乃と浩美の仕組んだドッキリだと思ってたのにな。つまんない」

「そうなんだ。でも、確かに園田さんと凪さんならやりそうだね」

「でしょ。佳乃が初めに言い出して、何だかんだ言いながら浩美が計画詰めて」

「夕月さんが止めるんだけど、結局付き合っている、と」

「そうそう。いそら、押しに弱いから。ま、そーいう訳で私がここにいる理由もない訳です。だから、いこ」

 真人の腕を取ろうと手を伸ばす。あと少しで届くと言う所で真人が言った。

「それ、俺なんだ」

「え?」

 ぴたっと動きが止まる。ぎこちなく顔を上げ真人の顔を見た。

 あの笑みが浮かんでいた。儚く消えてしまいそうなうっすらとした微笑。何処かで見た事がある表情だと思う。あれは……。そう。

 去年、クラスメートだった本条貴久ほんじょうたかゆきが両親の葬儀の時にこんな表情をしていたと思う。

 諦めてしまって、納得してしまって、行き着いてしまって、けれどそれでも何かがあってそれを無理矢理に押え込んでしまっている為に、それしか浮かべられない、そういう表情。

 それと同じような表情をどうして真人が浮かべているのだろうか?

「それを出したのは俺なんだよ」

 真人は京子に言い聞かせるように繰り返す。

「どうして……」

 思っていた通りどういう反応を返したらよいのかわからなくなる。心臓が早鐘のように鼓動を刻み、口の中がからからに渇いて苦しい。

「昨日、松浦に、松浦京子に好きだって言おうと決めたんだ」

 何を言われたのかすぐに理解できなかった。何度も何度も繰り返し、それが告白に等しいのだと漸く理解する。

「なんで? だってずっと……」真っ赤になって叫んでいた。

「友達だったって言うんなら、俺の演技力もまんざらじゃないって事かな」

「そりゃ、斎川は劇で主役はるくらい上手だけど。え? え?」

 訳が分からない。混乱している。ぐるぐると言葉が回る。

「俺は京子が好きだって事。今迄が居心地よすぎてずっと言いそびれていたけど。卒業して、学校は同じだけど学科は違うから、今迄と同じって訳じゃないから。言わないといけないと思った。状況で変わるんじゃなくて、変えなきゃいけないって、さ」

 京子は、顔が火照っているのを自覚しながら真人の告白を聞いていた。なんと答えればいいのか分からない。話し方を忘れてしまったかのように言葉が出てこなかった。

「ただ、なんか今更だけど照れ臭くってさ。朝皆がいないうちに机の中に手紙を放り込んでおくつもりだったんだ。早起きしたんだぜ。うちのクラスって川上や里みたいにお祭り好きな奴が多いから、そいつらより早く着こうと思って暗いうちに家を出て……。ドジったよなぁ、途中で車に跳ねられちゃうなんて」

「え……」

 金縛りが解けた。真人の腕を握る。掌から伝わるそれは酷く……。

「昏いのと雪降ってるのと両方の所為で俺も向こうも全然分からなかったらしくてさ。気がついたら、ドンッ。本来ならすぐ行かなきゃならなかったんだけど、我侭言って少し時間貰った」

 冷たかった。まるで何時間もずっと雪の中に横たわっていたかのように。

「お別れを言いたかったんだ。京子にはきちんと自分で。男友達の斎川真人としてではなくて、松浦京子を好きな斎川真人として」

 言葉が途切れた。雪の降る静かな音だけが聞こえる。それ以外の音は何もかも雪に吸い取られて静寂が保たれる。もし出来るなら、このまま何もかも凍らせて欲しい、京子は願う。こんな訳の分からない、不可解な事は全部なかった事に。

 でも、それは叶わない。

 京子にとってほぼ全ての事が信じられない常識の外の事柄だったとしても、たった一つだけ真人の言葉だけは真実であるから。

「好きだよ、京子」

「ずるい。こんな時に卑怯だよ、斎川。ねえ、なんでよ」

「忘れて欲しくないから。憶えていて欲しいから、かな」

 ああ、だからなんだと思った。真人があんな表情をしているのはだからなんだと。だったら、今この時、京子が出来る事は一つしかない。一つしか出来ない。

「我侭なんだね、斎川って。知らなかったわ」

「そうかな」

「うん、本当に我侭だ」

 京子は両手で真人の顔を挟んで自分の方に向ける。とても冷たい。でも気にしない。気にならない。

 真人が視線を逸らす。

「斎川、斎川真人。こっちを見なさい」

 強い調子で言う。今もまだ混乱している。でも、何が出来るのかは分かった。だから、行動する。

 真人が自分をまっすぐに見ている事を認めると、深く息をする。心臓がどきどき言っている。けれど、不快な物ではない。

「貴方の我侭に付き合ったげる。……私、松浦京子は、多分斎川真人、貴方が好きなんだと思う。自信はないけど、きっと、ね。だから、私が貴方の事を忘れるような相手を見つけるまで、私は真人の事を覚えていてあげる」

 頭ひとつ分高い所にある真人の顔を引き寄せて唇を重ねる。ぎこちないくちづけ。

 真人を解放し、京子は一歩下がる。

「初めてだからね。自慢していいんだよ」

 真人は、目を見開いたまま口元に手をやる。それから、唖然とした表情がゆっくりと変わっていく。目元に皺が寄る。眉は片方が下がり、もう片方は上がり、微妙に弓形を作る。口元にはバランスの崩れたくの字が浮かぶ。笑みではある。けれどそれは、それまで真人が浮かべていたものとは似ても似つかない、表情。苦笑とも言える、そして泣きそうなのを必死で堪えて笑っているようにも見えた。

「俺、京子を好きで良かったよ。……ありがとう」

 擦れた、でも吹っ切れた声で真人は言う。言って、もう一度京子を見て、まるで焼き付けるように忘れない様にじっと見て、歩き出す。

 閉じた覚えのない、開け放たれたままのはずの、なのに閉まっている扉に手をかける。

「真人……」

 京子の呼びかけに上半身だけで振り返る。片手を上げ軽く左右に振る。声なく口が動く。

『バイバイ』だった。

 真人の姿が扉の向こう側に消えるのを京子はじっと見ていた。扉が閉じる。張り詰めていた糸が切れたかのように体から力が抜けた。床に座り込む。そして気付いた。

 真人が閉めていったはずの扉が開いたままだという事に。

 夢だったならどれほどいいだろう、と思う。そうでない事を強く理解しているだけに余計に。

 携帯が鳴った。のろのろと制服のポケットから取り出し受ける。

「もしもし……」

「京子? 良かったなかなか出ないから心配したのよ」

 浩美だった。どこか焦っている。後ろも何か騒がしい。

「いい、落ち着いて聞いて」

「……うん」

 次に来るだろう言葉を完全に予感しながら肯く。

「今朝、斎川君が車に跳ねられて亡くなったそうよ。雪の所為で誰も事故に気付かなくて、遺体の発見が今になったって、先生から連絡があったの」

 努めて落ち着いた声だった。けれど、京子は時折声が震えているのに気付く。親しい、身近にいた者が突然何の予兆もなくいなくなる衝撃を必死で押さえつけているのだと分かった。

「京子、斎川君と一番親しかったから……。本当は、直接伝えたかったんだけれど」

 それなのに、浩美は京子の事を心配する。

「うん、大丈夫。大丈夫だよ。それより、浩美の方こそ大丈夫? きつそうだよ」

「大丈夫よ。委員長としての最後の仕事がこういうのってのは辛いけど……。でも、本当にゴメンね。電話越しになっちゃって」

 元クラスメイト達への連絡係を引き受けて、まだあと数人に連絡をしなくてはいけないのだという。浩美はいつも自分が出来る事を考え、実行する。強いと思う。

「気にしてないよ。教えてくれてありがとう」

 それから、浩美は今後の事-通夜や葬儀の日時や場所などを伝えたあと、ポツリと洩らした。それは……。

「ねえ、おかしな事を言うと思うかもしれないけど、斎川君、卒業式の時にいたよね? 京子も見たでしょ」

 トクンと温かいものが体中に広がっていく。今すぐは無理でも、もう少し休んだら立ち上がれる、そんな気がした。

「うん、いた。皆に会いに来てたよ」

 答えた京子の頬を涙が伝った。

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扉を開けて 此木晶(しょう) @syou2022

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