キサナドゥ ~どこに行っても通用しないと言われた社畜、異世界で竜王に挑む~

細茅ゆき

プロローグ お前なんてどこ行っても通用しない

 掌で机を叩く音がオフィス中に鳴り響いた。


 定時直後のことだった。

 帰り支度をはじめた社員も音がした方に顔を向けた。だが、彼らはすぐに帰り支度を続けた。誰も何事かとは思っていない。いつものことかと、その現場から目を背けた。


 縁の太い眼鏡をかけた面長な男が、憎々しげな視線を正面に立っている男に向ける。

 正面の男は、ひょろっとした長身の男だった。目はやや伏せがちで、肩をすくめている。

「お前はよぉ! 何度言えばわかるんだよ!」

 眼鏡の男はヒステリックにバンバンと机を叩く。不満と威嚇を込めた手の動き。そこには憂さ晴らしとか、いろんなネガティブな感情が込められていた。

「今回は特にミスしたというわけでも…」

「言い訳するんじゃねぇよ。まず謝れっていうんだよ!」

 ひょろ男の言葉を聞かず、眼鏡の男は足を組んで、何度も何度も机を叩く。

 オフィスに残っていた社員は、そそくさとオフィスを後にした。


 誰も眼鏡の蛮行を止めようとはしなかった。


 眼鏡の男、仲邑なかむら課長はいつもこうだった。


 ロックオンした部下を理不尽に責め立てる。理由なんてない。彼のサディスティックな衝動が、会社内の上下関係の間で暴発しているだけだった。

 いつものことだから、誰も止めない。ロックオンされた部下はいずれ会社をやめる。

 ヘタに止めて、次の標的が自分にされてもとばっちりだ。心の中で不快に思いながらも、会社の人間は誰も仲邑の暴挙を止めない。

 なにしろ仲邑は、この社長の血縁者。彼の横暴を上にあげたところで創業者一族のメンツとやらを優先され、握りつぶされてしまうのだ。

 だからもう、彼の暴挙は誰もがあきらめていた。

 それはひょろ男もそうだった。そしたら、仲邑のパワハラに耐えられなくなった社員が辞め、自分が次のターゲットになった。それだけのことだった。

「すいません…」

 本当に、謝るほどのミスではないのだ。いや、ミスとすらいえない。

 だが仲邑は、ただ相手を服従させたいという征服欲のためだけに謝罪を求めている。そうして相手のプライドを削ることに悦びを感じる変態なのだ。

「ったくよぉ。最初から謝れってんだよ、このうすのろ!」

 ひょろ男の謝罪の言葉、もはや何に謝っているのかさえ分からない謝罪に満足したのか仲邑は、ようやく机を叩く手を止めた。


 しかし、ひょろ男の謝罪の意味は、仲邑の想定とは違っていた。


「会社やめます」

 ひょろ男の謝罪は、これからの彼の行いに対するものだった。

「なに? お前も会社やめるの?」

 仲邑はせせら笑った。彼にとって部下がやめると言い出すのは、もはや慣れたことなのだろう。

「勝手にやめればいいじゃん。お前みたいなバカは、どこに行っても通用しないんだからさぁ。やめて損するのはお前の方だから」

 いつも、いつも、ひょろ男はこう言われてきた。


 お前はどこに行っても通用しない。

 仲邑はことあるごとに、ひょろ男をこき下ろすためにこの言葉を使ってきた。


 毎日、毎日だ。

「ほら、さっさと辞表を出せよ。やめるんだろ? 俺が受理してやっからさー」

 仲邑は、どこまでも小馬鹿にした態度だった。


 オフィスには、仲邑とひょろ男しかいなかった。

 仲邑の剣幕にうんざりして、他の人は出て行ってしまったのだ。

「なに? 書いてないの? やめるのに辞表も用意してないの?」

 仲邑はゲラゲラと笑う。

「やめる気ないじゃん。そういえば俺がなんか躊躇するとでも思ったの。教えてやるよ。お前程度のヤツなんて、募集すりゃすぐくるんだよ。でもお前は次の会社なんて決まってないだろ? 転職活動なんてするヒマなかったもんな? 俺がめちゃくちゃ仕事振ってたからよー」

 仲邑は一層大声で笑う。

 ひょろ男はここ数ヶ月、定時で帰ることができなかった。仲邑にひたすら仕事を詰め込まれ続けた。中にはひょろ男の仕事でないものまで押し付けられた。

 そして仲邑は自分の仕事をひょろ男に押し付けると、さっさと定時で帰ってしまうのだ。


「あー、でもこんだけ働いてて斃れられたら、こっちも労災になっちゃうからさ。やめるならさっさとやめてくれない?」


 そういいながら、仲邑は辞表のテンプレートを出した。

 やめる社員には、このテンプレート通りの文章を書かせているのだろう。

 その辞表テンプレートには「やめた原因を会社に問わない」という文章まで入っていた。


 ひょろ男は投げつけられたボールペンを拾い上げると…


「おい、お前、何するんだ」

 感情のない表情で仲邑の頭を掴み、躊躇なく右目に突き刺した。

「んぎゃあああああああああ!」

 仲邑の悲鳴がオフィスに響き渡る。


 これまで余裕の態度で椅子にふんぞりかえっていた仲邑だったが、あまりの痛みに床を転げた。


 そんな仲邑の腹を、ひょろ男は思い切り蹴り飛ばした。

「んぶふっ!」

 何度も何度も蹴りつけて、仲邑が吐瀉するまで繰り返した。


 オフィスにはもう誰もいない。仲邑がひょろ男をいじめる行為を恐れて皆が帰っていった。

 皮肉なものである。結果、ひょろ男が仲邑に行う残虐行為を止める者は誰もいなかった。


 目の痛みで正常な判断を奪われた仲邑は、ひたすらひょろ男の。ひょろ男は仲邑の机の引き出しからナイフを取り出し…。


「もう、やめてください…お願いします…」


 ここでひょろ男が、仲邑に何をしたかはあえて書かない。

 ただ最後の方は仲邑は、ただひたすら、ひょろ男の慈悲にすがるような言葉しか発せなくなっていた。そして最後に口から泡を吐き、失禁、脱糞して果てた。



 一通りの復讐を果たして、ひょろ男こと末出竜摩すえいでたつまはオフィスを出た。

 シャツには浴びせられた返り血がしみ込んでいたが、そのままジャケットを着こんで社屋を出る。

「お疲れ様です」

 ビルの入口に立つ守衛に挨拶をすると、何事もなかったかのように帰路につく。


 社屋から駅までは、徒歩で15分ほどかかる。歩道すらない田んぼ道をしばらく歩いて、この一帯の工場や流通倉庫のために作られたような質素な駅舎しかない駅に向かう。


 仲邑からボールペンを投げつけられた時、それを拾えと言われた時、竜摩の中で何かが切れた。


 そして、どうすれば仲邑が苦しむのか、痛むのか、悶えるのか、そればかりを考えていた。

「ハッハッハ」

 竜摩は笑った。

 ひたすら笑った。

 仲邑をサディストだと思っていたが、自分だって相当ヤバいじゃないか。


 仲邑は竜摩を殺さなかったが、竜摩は半殺しにした。

 そして股間から悪臭を放つ仲邑の隣で、竜摩は血まみれの辞表を書いた。


 我ながらとしか思えなかった。


 これであの会社とも、そして娑婆しゃばともおさらばだ。


 ビルの巡回警備員は、やがて仲邑を見つけるだろう。

 いつ、警察に通報するのだろうか。


 もう、どうでもいい。

 パワハラをされつづけ、尊厳を極限まで削られた竜摩にとって、仲邑に向けた暴虐は人間としての誇りを取り戻すための儀式であった。


 罪悪感もない。だが、晴れやかな気分にもなれなかった。


 駅までの道のりを歩く中で、何度もクラクションを鳴らされた。

 田舎の道なので歩道などない。細い路側帯を歩く中で、何度も車道の方へと踏み出してしまったのだろう。


 サイレンが聞こえた。


 パトカーだった。


(早いな。もう捕まえにきたのか?)

 そう思ったのだが、パトカーは竜摩のことなど見向きもせず、颯爽と竜摩が歩いてきたほうへ走っていった。


 遠ざかるサイレンを聞きながら、しかし竜摩は何も考えずに歩き続けた。


 しばらくのち、サイレンが戻ってきた。

 振り返ると、遠くから回転灯が迫ってくるのが見えた。


 追ってきたのだろうか?


 だが、その前には猛スピードで走る黒塗りのセダンがあった。

 夕闇の中に紛れてシルエットはよくわからない。そのヘッドライトが竜摩に近づいてきた。


 刹那。

 セダンがわずかに巨体を浮かせると、スキール音を鳴らしながらスピンをはじめた。

 路面があれた田舎道で急にアクセルを踏めば、オーバーステアになるのは当然だ。トラクションの抜けたタイヤはセダンの重たいボディを支えられず、さらにビビッてブレーキを踏んだ結果だろう。


 制御不能となったセダンは、タイヤから白煙をあげて真横にスライドしながら竜摩に迫ってくる。


 猛スピードでドリフトするセダンの動きが、竜摩に近づくにつれてゆっくりとなる。


 フル回転する脳が、生き残るためのビジョンを竜摩に見せる。


 逃げなきゃ。そう思った。


 だが、セダンの動きがゆっくりになったのと同じく、竜摩の足もいつも以上に重くなる。


 走れない。そう思った。


 スキール音が迫る。


 もう、どうしようもなかった。


「アッハッハッハ」

 思わず笑ってしまった。

 絶対権力者として君臨してた仲邑がみじめに失禁した無様な姿を思い出した。

 こんな状態で生き残るために思いついたことが、こんなことなのか。


「そうか」

 これが、報いなのか。


(つづく)

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