第3話 おかしな思い出

 電車を乗り継ぎバスに乗って辿り着いた四風山は、子どもの頃に過ごしたときとは随分様変わりし、西側が大きく開かれて新興住宅地になっていた。私が生まれたのは、東側の八年坂はちねんざかの麓だ。そういえば最近再開発が始まったとニュースでやっていたのは、その古くて長い坂を少し登ったあたりだった。そうしてようやく私の奥底から記憶が泡のように浮かび上がる。そこは確か私が三重に手をひかれて行ったあたりの場所だ。

 夕方に差し掛かり、坂の左右に次第に伸びゆく影を踏みしめながら石段を登る。記憶と違って登るに従い、随分と息が切れる。なんとか日のあるうちに中腹に至り、新しく敷設されたと思しき道路沿いに、ぽつりぽつりと街灯の光が寂しく浮かんでいた。

 先程砂時計を通して見た夏の強い光の下と、眼の前に広がる見る間に彩度を落としていく夕暮れの遷ろい。あたかも全く違う世界が交差しているように見えた。けれどもジャリと踏んだ足の感触は、それがかつて私が歩いた土の道とも、今踏みしめる砂利がわずかに滞留したアスファルトの上も、さほど変わらないような気がした。


 この先で一体何があったのか。

 私は目の前の闇にちらりと赤いスカートの端が翻るのを見た、気がした。思わず足を一歩踏み出せば、耳の奥でジィと蝉が鳴くのが聞こえた。見えない手にひかれ、ざりざりとした導かれた先は更地で、建築資材等とブルドーザーが置かれていた。なにかの記憶がふつふつと湧き上がる。

 目眩がした。

 そして、再び目を開ければ世界は明滅していた。

 耳がぐらぐらと揺らぐ。ジィジィと煩く叫ぶ蝉と、ホウホウという浸透するような梟の声。交互に現れる古い夏の昼と新しい秋の夜。揺れる視界と三半規管をつなぐ脳幹の隙間を縫うように足を進めれば、2つの世界は1つの工事現場で一致した。

 建物はすでに解体され、新しい家を立てるための建材とブルドーザー、そのブルドーザーが掘ったとみられる家の土台のための大きな穴。

 そうだ。ここはもともと、建築現場だった。

 いつの?

 ジィと蝉の声が響き、急に、頭の中で昼が強くなる。


「ほら。あそこに私の家が建つんだ」

 見上げた三重は、誇らしそうに呟いた。

 そこは数十年前、四風の山で新しく開発が始まった地域だった。家があることが当然である私とは違い、三重は四風のさらに山奥の、廃屋のようなところで暮らしていた。私は普段、危険だから工事現場には立ち入ってはいけないと厳しく言われていた。だから初めて見るその不思議な場所に、見慣れない重機に夢中になった。だから妙な気配を感じて振り返ったのは、ニコニコする三重に背後に立つ男が手に持つ角材が振り下ろされた時だったのだ。その音は、急に強く鳴いた蝉の声でかき消された。三重の体はその衝撃の反動で、建設現場に空いていた穴にスローモーションのように落下した。

 そしてストンと昼が去り、世界が夜で埋め尽くされた。世界が真っ暗に戻った。


 呆然とした。そして今の光景が、確かに自分の記憶の中に有ったものだと思い至って愕然とした。

 あの時、昼日中の男の顔は逆光でよく見えなかった。あの男が誰だったのかはわからない。そして何故両親が貧民窟の子どもと付き合ってはいけないと言っていたか、俄に思い出した。当時、貧民窟の子どもばかりを襲う犯罪者がいたと噂になっていたからだ。未だ治安が定かでない時代だ。貧民窟の子といれば一緒に襲われるかもしれない。両親は確かに、そんなことを言っていた。

 そして私はあの時、大慌てで逃げ出した。あれが噂の犯罪者だと思って。あの男の顔も、あの穴の中も確認しないまま。

「櫂ちゃん」

 梟の声の隙間に、不意にそんな音が聞こえた気がした。

 そちらを見ればストンと、暗い、穴があいている。

 僅かな月明かりや星あかりすら届かない、ただの闇。その上をひゅるりと風が吹いている。

「三重、ちゃん?」

「櫂ちゃん……逃げて」

 そのかすかな声が耳に届き、一も二もなく穴の中に飛び込んだ。

 私はまた、思い出した。あのさんざめく蝉の音に紛れてそんな声がしたことを。そして私は三重のことを忘れていた理由を思い出した。私は三重がいなくなったことを、もっといえば三重が襲われたことを誰にも話さなかった。誰にもだ。そしてそれで、何の問題もなかった。

 なぜなら、私は三重に会うことがなかったから。

 そして誰も、三重のことなど考えもしなかったから。

 それは三重が貧民窟の人間だったからかもしれない。そもそもあれ以降、三重は山から降りてこなかったから、会うこともなく記憶が想起されなかったからかもしれない。

 最初は治療の必要でもあるのだろう、そう思い込もうとした。けれども蝉のがなりたてる暑い夏が過ぎ、コオロギが寂しげに羽を擦り寄せる秋がすぎ、そして雪が全ての音を吸着する冬に至って初めて、私は重い足でのたのたと登った八年坂から小道を抜けてその場所にたどり着くと、すでに家が建っていた。

「お母さん! お皿持ってきたよ」

 子どもの声がした。だから思わず駆け寄った。

「お手伝いができて偉いね」

 慌てて窓から覗いたそれは三重ではなく、別の子だった。台所で母親と楽しそうに過ごしていた。その母親は、かつて廃屋で垣間見た三重の母とは異なった。

 だから、私は全てを忘れることにした、のだ。

 あのまま三重が死んでしまったのだとしても、もはや家が建ってしまっては仕方がない。いや、改めて思えば私は家が建つのを待ってから、ここにきたのかもしれない。良心の呵責と、それから時間の経過に伴いますます三重のことを言い出せなくなっていた心が耐えきれなくなったから、私はここを訪れた。だから、すでに三重が落ちた穴がないことに、ホッとした。ホッとしたことで心は説得された。もうどうしようもないことだと。

 けれども。

 けれども今、私の目の前には再び穴が空いていた。

「櫂ちゃん」

 わずかに聞こえる音を頼りに、必死で土塊を掘り返した。必死で掘り返した。今掘り返さなければ、また、家が建ってしまう。あの時ホッとした後も、本当は私の心の底に埋まった三重のことは、様々に積み重なる思い出にぎゅうぎゅうに圧縮されただけで、消え去ったりはしなかったのだろう。そして三重のことを再び奥底に閉じ込めることは気が引けた。

 そんなことを考えながらどのくらい掘ったのだろうか。あたりはすっかり夜の帳が落ち尽くし、ひたすらに自分が土を掘る音ばかりが響いていた。手指はおそらくもはやひび割れて、何の感触も感じなかった。けれども私は掘り続けた。

 そして。

 そしてコツリ、と何か固いものが手に触れた。

 そっと払い、取り出して見れば、それは小さな頭蓋骨だった。両手のひらに乗るほどの小さな。そう思うと、自然に涙がこぼれ落ちた。

「遅くなってごめん。三重姉ちゃん」


 その後、私は骨を丁寧に風呂敷に包んで警察に向かった。

 私は正直に幼少の頃の出来事を語った。夕方に四風の山に登ったら、突然思い出したのだと。

 そして都合子ども1体分の骨が発見されたが、古いものだ。誰の骨だかの特定はもはや不可能だし、そもそも山奥の貧民窟はすでにない。そして、仮に殺人事件だったとしても、すでに時効が成立しているそうだ。

 その骨の件は、それですっかり終いになった。

「櫂ちゃん。逃げれて良かったねえ」

 ふいに、そんな声がした。

「ああ。三重姉ちゃんのおかげだ。ありがとう」

 私はすっかり記憶を取り戻し、漸く呼びかける隙間に名を得て、落ちつくことができたのだ。

 

Fin

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砂時計の覗く先 ~不思議な質屋 Tempp @ぷかぷか @Tempp

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