節穴の心眼 最終話
僕の話が暗くなっていくのと同時に、空模様も暗くなっていた。先程まで顔を出していた太陽は雲に隠れ、西の方から黒い雲が近づいてきているのが見える。心なしか風も強くなり、木々も音を立てて揺れている。
「まあ、こんなところだ。これで僕が話すことは全部話したつもりだ」
「うむ。よく分かった。で、どうだ? こうして全部話して、すっきりしたか」
そういえば、この一件のことを氏家に話した表向きの目的は、僕がこれまでの嫌な思いを全部吐き出してすっきりすることであった。だが、自分でもすっきりしたのかよく分からない。でも、話したことで何かが変わったのは事実だ。
「……多分、すっきりしたというレベルまではいかなかった。と言うか、これからもすっきりすることはないと思う。相変わらずモヤモヤした気持ちは残っている。でも、若干少なくなったのかも」
「それで良いのだ。心の負担は少ない方が良いに決まっておる」
「そんなものなのかな」
氏家は、まるで全てを見透かしているかのような目で僕に
「しかしこの話、よくよく考えると、恋人関係、不倫関係に入っている四人とも、皆負け組だと思わぬか?」
「負け組?」
「そうだ。平たく言えば、損をしておる、という感じか」
突然何を言うのかと思い、「それはどういうことだ?」と話を促してみる。
「そうだな。例えば、岸崎は長年付き合っていた彼氏に裏切られたから明らかに負け組だし、武夫だってなんだかんだ言って負け組だと思わぬか? 結局あいつも目的を果たせずに終わっておるわけだから」
「確かに行為には至らなかったのか。音緒も一年以上つきまとわれたのに、よく逃げきれたよな」
「まあ仮に武夫があの女を捕まえることができておったとしても同じことであろう。何故なら、あいつの目的はあの女の『最初の男』になることであろう? だがその前にあの女は既に元カレとやっておったわけだ。だから武夫は絶対にあの女の『最初の男』にはなれなかったということだ。皮肉な話であるな」
「確かにな」
「で、順大もあれだけ好きであった彼女に裏切られた。そしてその彼女も、自業自得とは言え順大に捨てられたわけだ。だから四人とも全員損しておる。それどころか全て失っておるわけだ。『三方一両損』ならぬ、『四方一文無し』であるな」
「なんだ、その言葉は」
「今それがしが考えた。だが、そんな感じであろう?」
確かに僕にとって、それまで生きがいでもあった音緒を失ったことは損なのかもしれない。しかし、本当に損ばかりかと問われたら、それは違うと思う。
「一文無しでもないだろう。少なくとも僕はそうだ」
別に全てを失ったわけではない。何と言っても、ここに僕に共感してくれる友達がいるではないか。
「まあお主が言うならば、お主は一文無しではないのであろう。しかし、他の者たちは明らかに全てを失っておる」
僕はここで、他の三人のことを思い浮かべた。四年間一緒だった武夫に浮気された岸崎さん。志半ばで音緒を射抜けなかった武夫。そして僕と別れた音緒。しかし、どうも音緒だけは何かが違うような気がした。
「だがなあ……果たして音緒は本当に負け組なのか? と僕は思うんだ」
「ん? あいつが勝ち組だと言うのであるか?」
「いや、分からない。そもそも僕には音緒の本心が分かりかねるんだ」
「と言うと?」
ここで、僕がこの電話以来どこか引っかかってきたことを話すことにした。自分でもよく分からないが、きっと氏家なら共感してくれるだろうと信じて。
「恐らく音緒は、僕のことを好きじゃなかった。僕は、音緒の本命は僕以外の誰かなんじゃないかと思っているんだ」
遠くで雷鳴が聞こえた。氏家は「ほう」と言い、「どうしてそう思うのだ?」と尋ねてきた。
「音緒と電話した時の、最後に
正直、自分の中でも考えがまとまりきっていない。そんなことがあり得るのかよく分からなかった。だが、「これはあくまでも僕の推測なんだけど」と前置きして続けた。
「そりゃあ、音緒の本命が僕であれば、僕と別れたことによって明らかに損をしているわけだから、負け組になるだろう。だが、もし音緒の本命が武夫ならばどうだ? その場合、武夫も音緒も自分の恋人と別れることができたから、束縛がとれて、本格的に付き合うことができる。そりゃもちろん岸崎さんが目を光らせているのは間違いない。だが、後一年辛抱すれば、大学進学とともに遠くに引っ越すことも可能だ。そうなれば、岸崎さんからも逃れられ、めでたく二人は結ばれる、なんてことも実現できる。そうなった場合、武夫とともに勝ち組にならないか?」
氏家は腕を組んで唸り始めた。無理もない。自分でも何か変なことを言っているような気がしている。恐らく論理の飛躍もあるだろう。だが、それを覚悟してでも氏家に相談せずにはいられない自分がいた。
「それに、武夫の他にもう一人、音緒の本命と言えそうな人がいる。甘粕だ。と言うのも、音緒が武夫に追い詰められた時、真っ先に相談したのは、僕じゃなくて甘粕だった。確かに彼は音緒にクズ呼ばわりされていたけど、もし仮に僕が本命で、甘粕をクズだと思っていたら、そんなことはしないはずだ。やっぱり僕には、音緒の言っていた『クズだからこそ相談できる』という論理が分からないんだ。なんだかんだ言って一定の信頼感はあったんだと思う。だから、実は最初から甘粕とよりを戻したいがために、彼に相談したのではないだろうか」
風で木がざわめき、葉が二、三枚落ちた。氏家は僕の言うことに対して
「……まあお主の言うことも分からぬことはない。しかし、まず甘粕については、例の証拠を漏らしたわけであるから、決してあの女に良く思われておらぬであろう。あれだけ激怒したことから分かるようにな」
確かにそうだ。あのトーク履歴が流出する前なら、甘粕が本命でもおかしくはなかった。だが、下手をすると音緒の人生を崩壊させかねないトーク履歴を他人に流した今、果たして甘粕は音緒にとって良い存在だと言えるだろうか。答えは否である。よって、甘粕が本命であるという線はほぼないと言って良い。
「じゃあ武夫が本命なのか」
僕は呟いた。しかし、氏家は首を横に振った。
「あの女は武夫からずっと逃げておったのであろう? だから、武夫が本命ということもないのではあるまいか?」
これまた反論できない。まさにその通りなのである。そもそも武夫から逃げている時点で武夫が本命であるわけがない。考えてみれば、僕と電話をしている時に武夫のことをあれだけ悪い奴のように話していたのだから、本当に嫌いである可能性が高い。だがそうなると、不自然な点が生まれる。
「じゃあ例の浮気の証拠のトーク履歴はなんだったんだ?」
あの文面だけ見れば、音緒は武夫と両想いのように見える。実際僕もそのつもりで音緒と電話したから、どうして音緒が武夫のことをそこまで好いていないのか理解できていなかった。
「分からぬのか。あの女は武夫に嫌われたくなかったのだ」
「嫌われたくないだと? 自分は武夫のことが嫌いなのに?」
「そうだ。それがしが思うに、あいつはいわゆる八方美人であると見た。だから、元々誰からも嫌われたくない性格なのであろう。たとえ自分が嫌いな相手であってもな」
確かにその推測が正しければ、音緒の行動が説明できる。音緒がどれだけ武夫のことを嫌いだとしても、自発的に別れ話を切り出さなかったのはそのためであると言える。一度武夫と別れた時も甘粕に強要されたからであり、自分から別れようとして別れたわけではない。そしてあのトーク履歴も、心の中では武夫を全く好きではなかったが、あたかも好きであるかのように振る舞うことで、武夫に嫌われないようにしていたのだろう。また、武夫と二人きりになるのを避ける時に、僕とデートしようとしたり他の人と一緒に帰ろうとしたりして逃げていたが、これは決して直接的に「一緒になるのは嫌だ」と言うのではなく、公明正大な理由を掲げて断ることで、少しでも武夫の気分を害しないように配慮した、とも考えられる。しかし、やはりこの理論もどこか引っかかる。
「だが、本当にそんな行動をし得るのだろうか? いくら何でも自分が嫌いな人にまで好かれたいと思うのはおかしくないか? それに、八方美人だとすると、甘粕に対して明確に素っ気ない態度をしていたことに矛盾するんじゃないか? 後、最後の電話をした時の僕への態度とかもそうだし」
「さあ、そこまでは分からぬ。嫌いな人にも好かれたいというのは心の働きであるから、理屈では説明できぬ。甘粕やお主のことについても、例外と考える外あるまい」
まあ、一応音緒と付き合っていた僕が分からないのだから、氏家が分からないのは当然とも言えるだろう。何だか変なことを聞いてしまったと反省する。だが、正直言って氏家の仮説じゃないと音緒の行動は理解できない気がする。だから音緒は八方美人だということにしよう。しかし、それでもまだ分からないことがある。
「じゃあ結局音緒は誰のことが好きだったんだ?」
元々はこれについて論じていたのであった。とりあえず僕ではなさそうだというところから始まり、話しているうちに武夫や甘粕もあり得なさそうだと明らかになった。そうなると、他にどんな可能性が残っているだろうか?
「それがしはお主であると思っておった。だが、お主の言う通り、あの女がお主のことを好きでないならば、誰のことも好きではなかったのであろう」
正直、僕もそれしかないと思っていた。音緒は、何人かの男と親密な関係になっておきながら、結局誰に対しても恋愛感情を抱いていなかったのだろう。そうなると、氏家の一文無し理論も崩れてくる。僕はここから導き出される結論を言った。
「ということは、音緒は三人の面倒くさい男たち全員と縁を切ることができて清々しているかもしれないぞ。だとすると、音緒はやはり勝ち組だと言える」
再び雷の音が鼓膜を揺らす。少しの沈黙の後、氏家は首肯した。
「お主の言う通りだ。全く、考えれば考えるほど、よく分からぬ女だ。やっぱりお主、そいつと別れて正解であったな」
結局はこの氏家の言葉が全てを物語っていると言えた。僕らがこれだけ考えて分かったのは、音緒が何を考えているか本当に分からないということだけであった。そんな女と付き合った僕がどうかしていた。音緒という人間を理解せずに衝動的に告白したことが、そもそもの間違いだったのだ。
「……全く
僕はため息を吐いた。と同時に、手の甲に水滴が落ちるのを感じた。空に手のひらを向けてみると、一滴、二滴と雨粒が落ちてきた。いつ降ってもおかしくはなかったが、天気予報では深夜に雨が降ると言われていたから、まだ大丈夫だろうと高を括っていたのである。
「そろそろまずい。帰らねばならぬな」
氏家は鞄の中をまさぐっている。恐らく折り畳み傘を探しているのだろう。
「まあ、人を見る目なんて簡単には養えないものだ。この経験を糧にして、『心眼』を磨くしかないのであろう」
なかなか傘が見つからないのか、氏家は鞄の中から筆箱や教科書を取り出している。しかし、その中でぽつりと放った言葉が僕の心に引っかかった。
「心眼……」
まさに僕に欠如していたのはこれだったのではないだろうか。人を正しく見定める力こそ、僕に足りなかったものだったのだろう。
「お、あったあった」
そう言って、氏家はところどころ穴の開いた折り畳み傘を取り出した。雨は先程よりも強くなってきている。
「では、また会おう。困った時はいつでもそれがしに相談してくれ」
「ああ、また会おう」
氏家は最後に僕を見て舌なめずりをした後、傘を開いて走って駅の方へ走って行く。その背中を見て、僕も自転車をとりに戻るため学校へ駆けた。
ケケケ、全部それがしの思い通りに動いてくれた。順大にもバレておらぬようだし、順大から彼女を引き離すというこの作戦は大成功だ。
そもそもあの音緒とかいう女がくっついてから、このそれがしを差し置いて、順大は奴とばかりイチャイチャしておった。全くけしからん。
しかし、これは言うほど簡単ではない。まず、それがしがどこからあの女に関する情報を手に入れれば良いのか分からなかったのだ。情報を手に入れぬことには始まらぬが、その情報源が見つからなかったのである。それがしはここで行き詰まってしまったのだ。
だが、噂というものは流れてくるものだ。それがしは同じクラスだった甘粕が、あの女の元カレであることを知った。元カレほど良い立場の人間はあるまい。付き合っておった経験があるというだけで、情報源としてはうってつけであるからというのはもちろん、既に別れて赤の他人になっておるから、あの女にとって都合の悪い情報でもあまり
早速それがしは甘粕との接触を試みた。同じクラスであったから、話しかけるのも容易だった。その上、甘粕と氏家では、苗字が「あ」から始まる者と「う」から始まる者という関係で出席番号も近いから、これまでにも何かと親交があった。そのおかげで、甘粕はそれがしに快くあの女の情報を提供してくれたのだ。そして、それがしはそこであの女が武夫と浮気しておることを知ることができた。正直言って、ここまで首尾良くあの女の弱みを握ることができるとは思っていなかった。それがしは幸運だったのだ。
情報さえ
さて、もはや順大をたぶらかす邪魔者は消えた。その上今日の会話で、順大もそれがしの良さに気付いてくれたであろう。時は満ちた。順大の傷が
節穴の心眼 / 栃池 矢熊 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei
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