Wind Back(巻き戻された時)

西尾 諒

第1話 「序章」そして「走馬灯」って何のこと?問題

 そのレストランを見つけたのは、単なる偶然、そう思っていた。

 レストランの名前はTemps perdu。古い木の看板に書かれた、洒落た字体のフランス語は「失われた時間」という意味だ。きっとプルーストの有名な小説から拝借したのだろう。

 のきからその看板が吊してあるこぢんまりとした建物は、褐色に変色しかかった煉瓦れんがの壁で全体が覆われて、アスファルト舗装の道路との間に僅かに覗いている地面から伸びたつたがその壁を半分ほどよじ登り、茶と緑の心地よい色合いのコンビネーションを作っていた。

 でもまあ、外見だけでは何の変哲もないよくあるビストロ風のレストランに見えないこともない。煉瓦れんがだって、もしかしたら古い色合いに加工した模造品かもしれない。

 でもそこから流れてくるブイヨンの素敵な香りは激しく僕の食欲を誘ってきた。じっくりと煮込んだ上質の鶏肉と香味野菜が醸し出す本物の香り。だから、僕は初めてそのレストランを見つけたとき、その「偶然」を喜んだ。


 しかし・・・。今、考えると、それは「偶然」ではなく「必然」だったのかもしれない。そのレストランを初めて見つけたのは今から47年前、僕が65歳の時。


 え、勘違いをしているんじゃないか、だって?

 確かに。

 47と65を足せば112だ。普通に考えればそんなに長生きしているわけがないだろうと思って当然だ。例え長生きできていたとしても、ベッドで寝たきりの生活をして、フレンチ・レストランなどに一切興味を失っているに違いない。腕に点滴を打たれたまま現実と幽界ゆうかいの間を彷徨さまよいつつ、天井板の模様に何かを見出そうと必死に頭を動かしているのがせいぜいだろう。

 でもそれは「事実」なんだ。もう少し話を聞いてくれ。


 実を言うとその店を訪れたのは今回を含めて僅かに2回だけである。1回目の訪問と共に僕ら(この複数形の意味は後に分っていただけるだろう)はその店を訪れる機会を失ってしまった、

 つまり、「こっちの世界」ではその店は「跡形も残さずに」なくなってしまっていたのだ。


 それから47年の間、僕らはその店が本当に消えてしまったのか確かめに何度も同じ場所を訪れてみた。だけど、一度たりとも見つけることは出来なかった。

 あの時の煉瓦は模造品などではなく本物だった。触って確かめてみたし、店の人間も保証した。

 その煉瓦の古さから考えてその建物は明治時代、どんなに新しくても大正時代の初期くらいには建てられていた筈である。そんな建物が忽然こつぜんと消えるはずはない、と僕らは考えた。

 もしかしたら一本、道を間違えたんじゃないか、と話し合いながら探し続けた。しかし、辺りを一日掛けてしらみ潰しに探してみてもそのレストランを見つけることはできなかった。

 あのレストランこそは僕らに奇跡を起こした舞台であり、「もとの世界」との唯一の結節点けっせつてんであった。だからこそ、僕らの身に起きた謎を解くために絶対に必要だったものだった。だがそれは一度たりとも僕らの目の前に姿を現すことはなかった。すくなくともこの47年の間は。


 それなのに・・・今日、そのレストランが突然僕の目の前に再び忽然と現われたのだ。

 それを見つけたとき、僕は自分の目を疑った。1度目が純粋に美味しそうなレストランに巡り会えた歓びだとしたら、今回は古代遺跡を見つけた考古学者が感じるような奇跡、或いは邂逅かいこうのようなものだった。

 いや・・・あれは果たして1回目だったのだろうか?そして本当に今回が2度目なのだろうか?もしかして「初めて」なのか?僕は混乱して立ち尽くしていた。

 そもそも、同じレストランなのだろうか。同じ木製の看板を掲げて、同じブイヨンの香りを店の外に惜しげもなくばら撒く同じ名前のレストランだとしても。

 でも僕はそのレストランから逃げるわけにはいかなかった。どうあっても今日、彼女とこの店を訪れなければならない。さもないとまたこのレストランは消えてしまうかも知れない。


 そして「2回目」の66歳の冬、同じ日僕は一緒に連れ去られた「彼女」の60回目の誕生日をそのレストランで食事することにしたのだった。

 最初訪れた時はランチだった。今回はディナーだという違いはある。

 でも結論から言うと、違いはそれだけではない。最初の時は、僕と彼女はゼンマイ仕掛けの時計のバネに弾き飛ばされたように過去に戻った。

 そして今度は・・・僕は今、救急車の中にいる。その救急車の中に「彼女」が同乗しているのか、分からない。彼女が・・・生きているのか、さえも。僕は今、死ぬほどの痛みに耐えている最中だ。脇腹から熱い物が溢れ出ている。必死に救急隊員が傷口を押さえてくれたが、そのガーゼは瞬く間に赤い血で染まり、脇から血が滴っていく。とくとくと、血の流れ出る音さえ聞こえる。そこから今、まさに僕の命が流出していっているんだ。人生において狙撃を受けたのは二回目・・・二回も狙撃される人間など平和な日本に滅多にいるわけがない。それでも一回目は万全の備えがあった。だが今回は・・・。


 ・・・・。いけない。意識が薄れかけてきた。救急隊員が必死で大きな声で呼びかけてくる。うっすらと空けたまぶたの向こうに必死の表情をした男の顔が見える。その男の顔の毛穴のぼつぼつが妙に鮮やかに見えた。ぽってりとした唇の端が乾いて白くなっている。

「聞こえますか?」

 うん・・・。聞こえるには聞こえる。それを伝えなければ・・・彼は判断を誤るかも知れない。仕方なしに頷いてみせる。

 「頑張ってください。大丈夫ですよ」

 大丈夫なわけがない。僕はピストルで撃ち抜かれたんだ。今までの人生で一度しか聞いたことの無い、ビシッという空気を切り裂く鋭い音。それに続く激しい衝撃。たたらさえ踏めずに僕は背中からひっくり返ったばかりなのだ。

 なんでこんなことになってしまったんだろう。僕は天を仰ごうとして諦める。そんな微弱な力さえ残っていないのだ。

 「彼女」は大丈夫だったのだろうか?あの後、銃撃の音は続けて鳴りはしなかった。けれど、それは彼女の身の安全の何の保証にもならない。もしかしたら一瞬失神して音が聞こえなかったのかも知れない。或いは彼女は犯人に拉致らちされたのかも知れない。それが犯人の目的であったならば・・・。

 不意に走馬灯そうまとうのように最後に食べた食事の風景が、豆のスープの色が薄れかけた意識のスクリーンに映し出された。「死」がもの凄いスピードで僕に近づいてくるのを感じる。

 それにしても・・・。走馬灯って本当はなんなのだろう?ふとそんな愚かな疑問が頭の片隅に浮かび、そのままそこに居着いた。

 迂闊うかつだった。2度の66年、合計132年を生きてきた最後の問いがこれなのか?そんなつまらない質問が僕の・・・。

「不覚」・・・。

 浮かんできたその単語と共に僕の意識は・・・唐突に闇に墜ちた。スープに浮かんだ豆の色以外、人生を駆け抜ける走馬灯は・・・見えなかった。

 その時は。


 

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