5.バベルの塔

 人はやがて、死に至る。

 生きることが物語ならば、生の可能性を必要として欲望と能力のバランスの上に物語を成り立たせるのであるのならば、死を何と言おう。

 人は死んでしまえば何もできなくなる。ありとあらゆる生の可能性を失って、それを死と言うのだろうか。けれど、死というものを人間は経験できない。

「なっちゃん、人間は自分がいつか必ず死ぬってことを知ってるだろ?」

「そうですね」

 人は死ぬ。命あるものは等しく終わる。不老不死なんてものは絵空事で、だからこそ古代の権力者は不老不死を追い求めた。

 もちろんそんなものはどこにもなく、彼らは今この世界のどこにもいないけれど。

「動物は知らねえんだな、これが」

「それは……『いま・ここ』を生きているからですか」

「そういうことだ。肉食獣に追われりゃ逃げる、けどそれは『いま・ここ』の危険を回避するためであって、死んだらあらゆることができなくなるからじゃあない。人生という言葉はあるが、他の言葉はねえだろ?」

 人は死の恐怖を知っている。動物とは似て非なるそれは、動物はただ目の前の今差し迫っている恐怖から逃れたいだけなのだ。けれど人間はいつ来るとも知れない死へ恐怖することがある。

 明日、自分の人生はぷっつりと断たれるかもしれない。何事もなく百歳まで生きるかもしれない。病気は、事故は、そうして一命をとりとめることだってある。

「死ってのはなァ、だなァ。ま、だから人間は何が大切でどうしたいのかを自分に時々問うのが大切なんだと」

 人間は、必ず死ぬ。ならば、何をかかえて、どうするのか。

 その物語の終わりを決めることはできない。ならばその途上を、どうするのか。

「人間の物語は壊れるんだぜ、なっちゃん」

「壊れる、ですか」

「別に壊れたって死にゃしねえよ? 可能性は断たれてないんだから。ただ生の可能性は見えなくなる、これが物語が壊れることだなァ。そうなると必死で再構築するしかねえんだ」

 自分には才能がないのだと絶望をすれば、可能性は見えなくなる。他人から傷付けられて、見えなくなることだってある。

 人は自分の手で物語を壊せると同時に、他人の物語を壊すことだってできるのだ。

「でも、その再構築は難しい。そのために承認を求めるのかもしれねえよ」

「承認……」

 認めて欲しいと誰かが叫ぶ。自分はここにいるのだと、声なき声が叫んでいる。

「なんだっけなァ、今時承認欲求とか言うんだったか?」

 情報が発達した社会において、自分を発信することは簡略化された。成功者をうらやみ、自分もそうなりたいと願う人は、そこに承認欲求がありはしないか。

 ではその欲求は、誰かに認められれば満たされるのか。次へ次へと、肥大化していくのか。

「今どきは物語が壊れやすいのかもしれねえなァ。みんながみんな同じ方向を向けるわけでもなし、てんでばらばら、同じ言葉をしゃべってるはずなのに、言葉も通じねえと感じることがある」

 同じ日本語をしゃべっていても、通じないと思うことはある。同じ説明をしたところで、誰もが同じように受け取るわけでもない。

 あらそうなのねと受け入れる人、なんだその面倒なのはと溜息を吐く人。馬鹿にしているのかと怒り出すような人もいる。それは見た目だけでは分からずに、そうして言葉が通じないと一瞬ここがどこだか分からなくなる。

「現代社会は、罰をくだされた後のバベルの塔みてえだなァ」

「バベルの塔というと、神話の」

「そうだ」

 ある王が、天に届く塔を作ろうとした。神はその傲慢を怒り、罰として言葉を通じなくした。

「同じ言葉を聞いても、受け取り方が違う。認識が違う。物語を持ってるやつ、壊れちまったやつ、再構築したやつ、きっとそういうので違って聞こえちまうんだ」

 現代社会は、バベルの塔。たしかにそれは、相応ふさわしい形容のような気がした。通じているようで、通じない。異国か異世界か、途端に言葉が通じなくなる瞬間。

「言葉なんてもんは、受け取りたいように受け取るもんだな。流行の歌を聞いても、物語を読んでも、心に響かねえってのも当然。自分は楽しめねえってのも当然。そういうもんだ」

 紘三は肩を竦めている。樹生は店の窓のカーテンを閉め始めていて、ただ粛々しゅくしゅくと閉店の準備をしていた。

 もうじき時計の針は、午後十時。

「じゃ、好き勝手やるしかねえんだなァ。もちろん、人様に迷惑かけねえ範囲でな。詐欺さぎはクソだ」

「結局そこに戻ってきたんですね」

 向く方向はもう定まらない。ならば自分の向きたい方を向いて、自分の物語を描いていくしかない。誰も、何も、辿り着くべき先を教えてくれないのならば。

 全員が達成するべき目標を見失ったというのならば、自分の達成するべき目標を定めるしかない。

「生の可能性、ですか」

「悪いな、なっちゃん。じじい戯言ざれごとに付き合わせてよ」

「いえ」

 ゆるりと、首を横に振る。

「楽しかったです。色々と」

 特に何を相談したわけでもない。紘三は言いたいことをただしゃべり、深夏はそれを聞いていただけ。

 それでも、無駄ではない二時間だった。

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チンパンジーとバベルの塔 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

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