4.生の可能性

 詐欺さぎ被害にあった老人の話を聞いた。多分そうして金を手に入れた相手は、先のことなんて考えてもいない。あるいは、きっと『これから』を考えたとして、同じ手口で金をだまし取ることしか考えていないのだろう。掴まるかもしれないなんていう未来の可能性を考えないから、そんなことができるのだ。

 彼らは『いま・ここ』の金が欲しいだけ。相手の幸せを、相手の喜びを考えることもできず、目先のものにつられて動くだけ。

 ハンバーグの最後のひとかけらを口に押し込んで、咀嚼そしゃくする。もぐもぐと口を動かしながら、チンパンジーと人間の違いを考えた。

 ごくりと飲み込んでから、行き当たった答えをひとつ。

「人間は言葉を持つからこそ、『物語』を持ちますか」

「おお、なっちゃん。正解だ。人間はを生きているんだ」

 言葉があるから、過去と未来を想起できる。自分の生きてきた道を説明し、そして未来への展望を語ることができる。

 一方で、言葉のないものはそれができない。

「それから誰ぞが言ったな、『可能性なくしては、人間はいわば呼吸することができない』と。人は『できるはず』を信じて生きる。これを奪われると生きられなくなるんだってなァ」

 紘三こうぞうはしわだらけの顔をくしゃりと歪めて、笑っていた。

 自分はこれができるかもしれない。これができるはずだ。そういうものは、確かにある。深夏みなつがそういうことを大きなものは最後に考えたのは一体いつのことかは分からないが、それでも些細ささいなことでなら考えることはいくらでもある。

「これを聞いて俺は思ったね。ああ、戦争ってやつはこのを奪い合うもんだったんだなと」

 紘三の顔に浮かんだものは、何だっただろう。

 樹生たつきがことりと棚にグラスを戻した。深夏も樹生も、当然ながら戦争というものの現実を知らない。この中でそれを知っているのは、紘三だけだ。

「そういうもんに、俺は放り込まれて帰ってきたんだってなァ。つまり俺の生の可能性は奪われなかったってことだな」

「可能性」

「そうだ。人間は可能性で生きている。この可能性ってのはな、喜びや大切なものって言い換えてもいい。で、その可能性を失えば健康だろうが何だろうがお先真っ暗、ってやつだ。逆にこうすればできると可能性がはっきりしちまえば、人生明るいんだろうよ」

 それは言い換えれば、夢というのだろうか。

「人は、可能性を持つことで生きている……」

「そういうことだ。そう考えりゃ、ある意味詐欺をするような奴らも『大金が手に入るかも』って可能性で生きてるのかもなァ。金って資源がなきゃ、できねえこともある」

「金だけあってもどうにもならないこともあるだろ、じいさん」

「そりゃそうだ。人脈ってやつも必要だからな」

 グラスを磨いていた布をたたんだ樹生が、呆れたように紘三に告げる。金だけではどうしようもないものもある、けれど金さえあればどうにかできることもある。

 正直なところを言えば、深夏は別に大金が欲しいとは思わない。身の丈にあったものだけで十分で、今手にしているものだけで構わない。けれど、詐欺さぎに関わるような人たちは違うのか。何としても金という資源が欲しいのか。

「あとは能力だろ」

「おっと。そいつは欲望とセットのやつじゃねえか」

 可能性の実現。

 能力という言葉だけで考えるのならば、それを実現させるためには能力は必要だ。たとえば海外に生活したいと思ったときに、いずれ獲得しなければならない能力はその土地の言葉であるとか、文化であるとか、そういった知識だ。

「能力ってものは拡大するもんだ。ルソーとかいう人が言ったんだったかなァ、『人間とは欲望と能力の不均衡ふきんこうのうちに不幸があり、均衡きんこうの状態にあれば完全に幸福と言える』だったか」

 それはつまり、不可能を望むなということだろうか。自分のできることを欲する限りは幸福なのか。

 けれど本当にそれは、良いことなのかは分からないのだ。いくら頑張っても思うようにならないことはある。誰かにできることは自分にできなくて、悔しくて苦しいことがある。

「これが人間の物語につきものなんだなァ。この欲望と能力のバランスってもんが問題で、物語になる」

 人とは、己の生の可能性が必要なのである。そして欲望と能力のバランスに苦しみ、あがき、その上で過去から未来に向かうのか。そういう時間を、『これから』を、生きるものか。

「じゃあ紘三さん、死ぬとは何でしょう」

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