3.『これから』を考える生き物

 ことりと目の前に置かれたのは、いつも通りのハンバーグだ。鉄板の上に置かれたハンバーグは、まだじゅうじゅうと音を立てている。これを切って口に入れれば火傷しそうなほどに熱いということを深夏はよく知っている。いつだってかぶりついて、そして少しだけ後悔するのだ。

 樹生たつきは一息ついて、ぐいと額の汗を拭っている。店内は冷房が効いてはいるが、火の傍にいれば当然汗は吹き出すものだろう。

「なあ、なっちゃん。人間にとっての喜びって何だと思う」

「……喜び、ですか」

 ハンバーグを口に入れれば、肉汁が溢れた。はふはふとまだ熱いハンバーグを口に含んで、口を動かして、そして最後に水を一口。

 エプロンを外して棚にかけた樹生が、紘三こうぞうを見て溜息ためいきいていた。

「じいさん、今度は何の本の影響を受けたんだよ」

「何も受けとらん、失礼な孫め。これは哲学ってやつだ」

 倫理りんりの授業すら受けたことがないというのに、深夏みなつに紘三は何を問いたいのだろう。喜びと一言で引っ括ったとして、それの中身はどう形容したものだろうか。少し考え込んでいたら、フォークにさしていたハンバーグが鉄板の上にぼとりと落ちた。

 じゅうと音を立てる。少しだけ、肉汁がはねた。

「日本はなァ、今目標ってもんを見失ってるそうだ」

「目標、ですか」

「ああそうだ。戦争の後は欧米に追いつけ追い越せってやってたんだ。けどなァ、それが一九八〇年代に終わっちまった。そんで人は結局を見失ったんだと」

 日本というべきか、人間と言うべきか。

 先ほど落ちてしまったハンバーグをさし直し、口へと運ぶ。火傷しそうなほどに熱かったのは最初だけで、もう今はそこまで熱いわけではない。すでにハンバーグは、冷めていっている。

「それは先ほどのチンパンジーの、『いま・ここ』の話に繋がりますか」

「そういうことだ。美味いもんを味わうことも喜びだ。でも、のもまた、人間の本性の中にはあるんだとさ」

 誰かが自分のしたことで喜んでくれた。笑ってくれた。感謝された。確かにそれは、喜びというものなのだろう。深夏の老人の愚痴ぐち聞き係も、ある意味他の人が喜んでくれることなのかもしれない。

「それはつまり『いま・ここ』を味わうのみでなく、という感覚なんだなァ」

 紘三の言うことを樹生は聞く気がないのだろう、彼は後ろの棚に置いてあったグラスをみがき始めている。

 店のベルが鳴ることはない。新たに客が訪れることはない。もう今日は深夏が最後の客で、このまま店仕舞じまいになるのだろう。水曜日は、いつもこうだ。

「チンパンジーは、人間の持つ怒りだとか恐れの原始的感情のみならず、悲しみに喜び、嫉妬しっと、同情、向上心なんかも持ってるそうだ。それから、愛情も。ゴリラも一夫多妻なのに、動物園で生殖せいしょく能力が落ちたゴリラのメスをオスから引き離して次のメスに交換すると、交換されたメスのゴリラがうつになったとかいう話もある」

 紘三はその知識をどこから得たのだろう。そう思ってつい樹生の顔を見れば、彼は「動物園に毎週行っている」と深夏の無言の問いに小さく答えてくれた。

 たしかに紘三の年齢ならシルバー割引で、動物園は無料なのではなかっただろうか。広い園内を歩き回るのは、紘三にとって良い運動なのかもしれない。

「ただなァ、やっぱりチンパンジーは『いま・ここ』なんだ。チンパンジーは脊髄せきずいを損傷して首から下が動かなくなっても、へこたれなかったんだと。それは世話をしてくれる人間が二十四時間つきっきりで構ったからで、動く首から上だけでいたずらをして笑って喜んでいたんだと」

 寝たきりのチンパンジーが、笑う。想像したら、なんとも言えない気持ちになった。

「さあ、人間が同じ状況になったらどうなる?」

 自分がもしそうなったらを、想像してみる。たとえ二十四時間誰かがつきっきりで世話をしてくれたとて、笑って喜べるような気がしない。

「……少なくとも、笑って喜ぶ気にはなれないでしょうね」

「だろう? これがチンパンジーと人間の大きな違いなんだとさ。そのチンパンジーは『これから』なんざ考えちゃいないんだ。チンパンジーは『いま・ここ』で人間が構ってくれているからそれでいいわけだ」

 この先自分はどうなるのだろうとか、治ることがないのだろうとか、そういうことを考えてしまえば、待っているのはきっと絶望だ。先のことを考えれば、明るく笑って過ごせるようになるまでには時間がかかるようにも思う。即座に切り替えたように見せたとて、それは結局見せかけだ。

「人間も、『いま・ここ』に集中することはありますが」

「それでも人は基本的には『これから』を考える生き物なんだってなァ。人間は過去・現在・未来というそうだ」

 たしかに『いま・ここ』には、過去も未来もない。ただ現在だけ、目の前のものだけしかない。

 ある意味で首から下が動かなくなったとき、チンパンジーの方が幸せなのかもしれない。人間はどうしたって、過去の動けた自分を考える。これから生きていかなければならない未来を考える。

 ならばそこが麻痺まひしてしまった人間を、果たして何と形容するべきなのだろう。

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