2.いま・ここ

 からんころんと喫茶店の入り口でベルが鳴る。時刻はすでに午後八時を過ぎて、扉を押し開けて入ったそこには客がほとんどいなかった。午後十時まで開いていると言っても、閉店間際にいる客は限られている。

 今日もいつも通り、カウンター席に眼鏡をかけた老人がひとり。カウンターの向こうに、店員がひとり。

「おお、なっちゃん」

「こんばんは、紘三こうぞうさん。樹生たつきも」

 老人がしわだらけの顔をさらにしわくちゃにして、笑顔を見せた。

「今日は遅かったね、深夏みなつ

「仕事が長引いたんだよ。窓口のところで長々と話すご老人がいてね。まあ、誰かに話を聞いて欲しかったんだろうけど」

 紘三が嬉しそうに隣の椅子を引いたので、深夏もそこに腰かける。樹生は「どうせいつものだろ」と文句のようなことばを口にして、カウンターの向こうで準備に取り掛かっていた。

「なっちゃんはきちんと話を聞いてくれるからなァ」

「途中で切るのも申し訳ないので。詐欺さぎにあった、という話でしたよ。いわゆる『オレオレ詐欺』ですね。息子からの久しぶりの電話だと思ったのにと大層おなげきでした。役場は愚痴ぐちをこぼすところでもないんですけど」

 これが市役所とか県庁であれば違うのかもしれないが、田舎の町役場だ。窓口のところにやってきては延々と話をしていく老人、お菓子を置いていく老人、とにかく老人が多い。結果として深夏に上司からつけられた名誉か不名誉かも分からぬあだなは『ご老人の愚痴ぐち窓口』だ。

 詐欺さぎというものが、増えている。突然かかってくる見知らぬ番号からの電話、携帯電話にも慣れない老人。もう数年も声を聞いていない孫からの突然の電話が助けてくれという内容で、孫可愛さから大慌てでお金を振り込む。まるで人の善性につけ込むような話で、深夏は毎回吐き気を覚えるのだ。

「俺なんか息子からの電話だったら泣いちまうよ。天国からかけてきたのかって」

「この前それでオレオレ詐欺さぎを大層困惑させたんだよ、じいさん。まあ確かに、父さんから電話かかってきたらそういうことだけど」

 じゅうじゅうと肉の焼ける音がする。みじん切りより大きいざく切りの玉ねぎに、あらめのひき肉。塩胡椒とナツメグの味付けをした大きなハンバーグ。この喫茶店で食事の看板メニューといえば、このハンバーグだ。

 焼き色のついたハンバーグを引っくり返した樹生は、何でもないことのように父親のことを口にした。

「善意につけ込むみたいで、嫌いだな」

「そりゃそうだ。詐欺さぎするような奴はな『いま・ここ』さえ良ければいい奴らだ。十年二十年先のことなんて考えちゃあいない。あいつら人間じゃねえんだな、言葉が使えるだけでチンパンジーと一緒なんだ」

 からからと紘三は笑い、目の前にあったグラスから水を一口飲む。もうすっかり細くなって筋の見える首は枯れ木のようにも見えた。

「いま、ここ」

「人間様には言葉がある。言葉ってのは伝達の手段であると同時に、想像力を働かせるもんだ。三歳児ですら絵本の内容から想像ができるんだから、そこから人間ってのは想像力を鍛えていくんだと」

「チンパンジーには、言葉はないですが」

「そこは人間とチンパンジーの大きな違いらしいがなァ、他にも違いがあるんだと。チンパンジーってのは目の前にバナナをぶら下げてやれば道具を使ってバナナを取れると動物園の解説員が言っとった」

 猿の中には、道具を使うものもいる。ただそれは落ちている木の枝を道具にするとか、その程度のものだ。人類というのはそこから進化して、石器であるとか土器であるとか、そういうものを自ら作り始めた。

「チンパンジーの目的は、『いま・ここ』のバナナが取れれば良いってことだなァ」

 今ここで、木の枝が折れてしまってもいい。

 今ここで、腹が満たされればそれでいい。

 先のことなど考えることはなく、ただ今だけの。それが何も悪いとは言わない。言わないが、そこで立ち止まってしまえば進歩はないのだ。

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