第41話「ゴースト夏祭りの怪」

「でたのか」

「でました」

 深夜の会議室。不座見ふざみ副館長の前に並んで立つのは惑羽一途まどうイチト枕木巾来まくらぎハバキ。ふたりが説明すべきは『病床の箱庭』での出来事だ。


 病院からの奇妙な帰還劇の後、ふたりはタクシーで『モルグ市魔神博物館』職員用通用口へ向かった。連絡つかずのふたりを心配したスタッフたちは遠ざけられ、そのままふたりはクリーンルームで除染作業を受ける。

「自分たちは異界落ちしていない」という主張を繰り返したため、普段よりいっそうの時間をかけて処置が施されてしまった。待っていたのは風と光と除染水によるカラフルな中和の世界だ。


 狂っていないと殊更に主張する者を、信じる賢人はまず居ない。そのため深夜に至る。


 副館長も大あくびを連発していたが、ふたりの報告の冒頭『野球帽の少年』というキーワードへの食いつきはとりわけ大きかった。

「でたか、そうか。本当に『野球帽』が……くそ」

 そこまで一息にひとりごとのように漏らしてから、ヤマヅは会議室の天井を仰ぐ。壁際の時計がカチカチと鳴っている。

「やつの異界区分は確認できているか?」

「ハバキ、どうだった」

 イチトは知らない。そのため傍らの男に回答を促した。ハバキは目配せを返すことなく、不機嫌そうに口を尖らせる。

「Oz型でした」

「それは何を使って確認したか?」

 眼鏡の奥で副館長は睥睨へいげい。明らかに、疑っている。

「開発部製の確光コンタクトレンズ……試験段階のヤツだけど」

「ならば、その区分は話半分として受け取っておこう」

 ヤマヅとハバキの舌打ちの音が重なった。双方に何らかの当てが外れたのだろう。


 空気を変えようとイチトが口を開きかけたが、どうせ余計ことになると察したのかヤマヅが手を広げて制止する。不満そうに口を開きっぱなしのイチトを一瞥後、ヤマヅはわざとらしく大きなため息をついた。空気は重いままだ。

「バットをブン回すガキなど市警察の案件だと思ったんだがな……それで、貴様らはくだんの少年に襲われて異界落ちしたと?」

「落ちたと言うよりあれは……」

 イチトが続けようとしたがハバキが前に出た。

「『総合病院』で起きたことは『総合病院』の管轄だろ、副館長?」

 

 ハバキは拳を強く握りしめていた。あの病院が枕木セイを犠牲にして異空間シェルターを保持し続けていると口外すれば、ハバキが重ねてきた小さな過ちも知られてしまうだろう。ハバキはそれを忌避して口を閉ざす。


「……ふむ」

 ヤマヅの瞳はいっとう冷たい色をしていた。

「お前は正しくモルグ市の住民だな、枕木巾来」

 『博物館』も『総合病院』も公的な機関ではない。目的は一致しているが、利害は微妙にすれ違う。それぞれの腹に抱えたものが飛び出さないように、互いに手をとり睨みあう関係だ。

「ハバキ? お前は博物館の職員じゃないのか?」

 ひとり春から来た部外者のイチトが問う。報告義務、と続きたがハバキは歯を剥き出しにして威嚇するだけだった。

「ふむ、俺ならもっと上手に嘘をついて誤魔化すがな」

「言うな、惑羽一途。この性質に我々は助けられている面もある」

「アンタらふたりしてオレのことバカにしてねーか!?」


 吠えるハバキだったが、イチトとヤマヅ両方に一瞥を向けられたのでそれ以上は続けなかった。そもそも詳細を拒否するハバキが悪いのだ。ふたりが説明すべきは『病床の箱庭』での出来事だったのに。

「枕木巾来、惑羽一途。ふたりは今日の分は出勤扱いとしよう。代わりに明日もきちんと働きなさい」

「了解」

 先に答えてイチトは己の荷物に手をかけた。キャップを深くかぶり、目元に影をつくって。

「ハバキ。俺は見ていたし、知っている。そこは理解しておくことだな」

 罪への牽制を理解したのかハバキはもう一度舌打ちをした。


 ……イチトが部屋を出ていく。廊下から「うわっ」と驚く職員の声が聞こえたが、部屋に残されたハバキとヤマヅがそれを話題にすることはない。

「枕木巾来」

 "モルグ市魔神博物館副館長"としてヤマヅは重々しく口を開いた。

「ナイトミュージアムも近い。あまり無茶をするなよ」

「……はい」

 無茶をする必要もなくなったから、と誰に泣き言をいえるわけもなく。ハバキは深く頭を下げた。



 ……。



「うわっ」

 場面は会議室を出て行ったばかりのイチト。出てすぐぶつかりそうになった相手は夜間スタッフの青年であった。彼はまだ若く「青年」よりは「少年」と形容した方がより適切な印象かもしれない。

「む、すまん」

「うわー!」

「そんなに驚くな、と言いたいところだが。俺を怖がるスタッフが多いことをよく知っている」

 二度見で声を上げた少年に流暢に語りかけながら、イチトはこの場から逃げようとする少年の首根っこを掴む。夏だというのに彼は首元まで覆うインナーを着用し、肌を極力露出しないようにしているようだ。


「べ、別におれは驚いても怖がってもいないっスよー!」

 少年は腕を振り回して抗議した。白いグローブで覆われた手が空を切る。イチトに当たることはない。

「ではなぜあんなに声を? 驚きでないなら歓喜か?」

「うぅ……すみません、驚きっス……見栄張りました。おれが悪かったっス」

 少年がおとなしくなったのでイチトは手を離す。このまま逃げるだろうと思っていたが、意外にも少年はそこを離れなかった。興味深そうにイチトを見上げる少年の燻った翠の瞳に、イチトの茶色に焼き尽きた目が反射している。

「俺は回収員2班の惑羽イチトだ」

「あ」

 自己紹介されると思っていなかったのだろう。意表をつかれたような間の後に、少年は戸惑いながら笑った。

「知ってるっスよ! ご丁寧にどうも! おれは回収員4班の"ゴート"っス!」

「本名を名乗れ」

「イヤっスよ!? 護身のために隠してるんスよ!?」


 本来、博物館の職員はカーキの外套を着用する。しかしゴートだけが特別製の白の上着だ。何か特別な役割を持つと一目で分かる出立ちだった。それは明らかにどこかの異界の影響を受けている瞳の色と関係があるのだろうか、とイチトは考える。イチトの観察する目線に気がついたのかゴートは自分の身を手で隠した。


「なんスかそんなに見て……」

「本名を当ててやろうか。ゴートだから後藤さんだな」

「イヤっス! ぜんぜん違うし、教えないっス! おれのこと後藤さんなんて呼んだら絶交っスからね!」

 喚くゴートにイチトはむぅと憤りの息を返した。

「廊下で騒げばいずれヤマさんに怒られる。歓談がしたいなら場所を変えよう」

「付き合ってくれるんスか?」

「次にいつお前と会えるかわからないからな」

 そう声をかけるとゴートはきゅ、と口を結んでイチトを見上げたのだった。



 ……。



 ゴートにカバンの紐を引っ張られながらイチトはバックヤードの長い廊下を歩く。夜勤組がパタパタと駆けまわる足音が反響し、非常口を示す緑の灯りがチカチカ明滅を繰り返す。


「『野球帽』のことを聞きたいんスよね~」

「お前もあいつ狙いなのか。そんなに危険人物なのか?」

 先を歩くゴートの足元、白いスニーカーが歩くたびに重たい靴底をわずかにきしませる。

「活動の活発化が予見されてるっス。容姿の特徴とか受けた印象、教えてもらえませんか?」

「とは言っても、一瞬会っただけだからな」

 イチトが速度を落としたのでゴートは首だけ振り返る。同行者が行方不明にならないか心配するように。カバンの紐手綱は握っているはずなのに。

「あれは……ハバキが真っ先に魔神だと言ったから気づけたが、そうでなければ普通の子供と思っただろう。札だらけのバットに目を瞑ればな」

「持ち物の特徴は正しいっスね」

「顔はよく見えなかった。ただ、此方を責めているような口ぶりだったな」

「相手はなんて」


 まるで正誤の確認のようだとイチトは少々不快に思った。だから何を言われたかは教えなかった。

「この説明で俺を試しているのか?」

 代わりにゴートに圧をかけて問う。

「え、試すって、おれが? まどうのおにーさんを?」

 少年は目を丸くしたのち、バツが悪そうに笑ってみせた。短く切り揃えられた黒髪をガシガシとかいて「気分を損ねたらすみません。でも別にそんなことで怒らないっすよね?」なんて取り繕うものだから、イチトは一層不愉快を覚える。


 ヘラヘラしている様子は、日頃相棒として接しているシガヤとも、夜組の3班の露悪的な大人たちとも違う性質をしていた。ゴートのそれは、賢い子供が大人を揶揄う時の笑い方だ。


 ふたりはいつの間にか博物館の外に出て、イチトの帰路に沿って歩いている。夜にうるさい虫も今日に限っては鳴き声をひそめている。ときおり道路の向こうでエンジン音が響き、街灯の影がアスファルトに揺れた。モルグ市の夜は、ふだんから人通りが少ない。

「お前はシガさんのことも、まどうのおにいさんと呼ぶのか?」

「あれれ、話題飛びました?」

 これ以上怒られることはないと理解したのか、ゴートが歯を見せてニカッと笑ってみせる。

「あっちは『まどうパイセン』っス!」

「俺よりシガさんが年上なのだから、おにいさんと呼ぶのは向こうでよくないか?」

「あっちの方がパイセン感しますもん。それに、おれにおにーさんって呼ばれるのはイヤっスか?」

 別に、とイチトは答える。そしてすぐ「そういう『おれに』という聞き方はよくない」と説教をした。


 話題も本質から逸れて、気がつけばふたりは提灯の下がる夜道を歩いていた。紅い光が点々と、夏特有の濃い色をした夜に浮かんでいる。

「……ゴート。お前の仕事はいいのか?」

「おれは博物館館長直下の人員スよ」

「では、おれを家に送り届けるのが、館長から与えられた使命か?」

 不自然だ。それはゴートの同行だけじゃない。

「いいえ! 館長の指示がない時はおれは好きに行動していいので。まどうのおにーさんを無事におうちに届けるのは〜おれが勝手にやってることっス~!」

 不自然だ。さっきまで過剰に言葉で笑顔で取り繕ってきた少年が、曖昧な半笑いを返すことが。

「うちに着いてくる気か。茶でも出そうか。ちょうど駅前の菓子屋の季節限定フィナンシェもある」

「お、おもてなし!? おじゃましたいんスけど、おれはマンションのエントランス前で失礼するっス!」

 ……不自然は崩れた。これは素のリアクションだ。

「そうか。うちにはお前と歳が近い同居人がいるんだ。紹介しようと思ったのだが」


 一瞬、強く息の詰まる緊張感が奔った。直後にふたりの眼前に提灯がひとつ落ちて来る。ドチャ、と普通じゃない水音にイチトは身を引きゴートも腰から下げていた神器に手をかける。

「分かっていたのか!?」

「なんでおれを怒るんスか!」

 視線の先、紅い点々が連なり道をつくる。これまで落とされていた灯りがふたりを中心に次々と灯っていく。

「お前が何かをしたからだと思うだろう……!」


 それでもイチトはゴートに背中を預ける。ゴートも信号銃を構えて周囲を見やる。いまふたりが立つ此処が縁日の中心地。露店が連なり道をつくり、ふつうのお祭りと違うのは、行き先が8方向に伸びていること。スピーカーから籠もった迷子の放送が聞こえるが、それはたった1度だけしか流されなかった。


「1日に2度の異界落ちはごめんだぞ……ッ」

 敵襲はないと見做したイチトは、護身の構えを解いて背のボディバッグから第一神器・公色警棒を抜き取って握りしめる。運の悪いことにWs型のカートリッジが空っぽだ。

「これはまだ異界落ちじゃないっスよ。まだ」

 露店の軒先に描かれた文字はところどころだけ読める、またそれが随分と具合が悪く思うのだ。ズレたひらがなカタカナが不安を誘う。唯一、崩れた箇所のない幟には「もるぐ市こどもまつり」と時代を感じさせる字形で書かれていた。


「なるほどな。こどもがこの奇妙な縁日に足を踏み入れば、異界の入口ドアーに辿り着くという状況か? シガさんが好みそうなホラーシチュエーションじゃあないか」

 屋台に人はいない。もちろん道ゆく人もいない。灯る紅色と、食べ物の香りだけがある。お面売り場には虚無が並び、わたあめの機械が生み出すのは甘い香りと稼働音だ。

「なんにも食べ物がないスね……ヨモツヘグイじゃなさそうス。人里ど真ん中でそこまでさせる魔神がいるわけないか」

 ブツブツ考察しながら南西の道を進むゴート。イチトはそれを追いかける。

「よもつへぐいとは?」

「黄泉の国でものを食べることっスよ。日本神話スね!」

 イチトは眉をひそめた。黄泉の国、という言葉の響きだけが耳に残る。

「食べたらどうなる?」

「元の世界に戻れなくなる謂れがあるっス」

 じゅうじゅうと肉が焼け、金物が打ち合う音が夜に響く。脂の匂いが胃袋を無遠慮に刺激する。その向こうで客引きの声まで想像できる――けれど、この場には誰ひとりいない。幽霊が縁日を催しているかのようだ。


「俺は過去、幾度も異界でものを食べたことがある。よもつなんたらが日本神話起源なら、異界は日本じゃないから適用されなかったわけだ」

 屁理屈を捏ねるイチトに、ゴートが初めて不愉快そうな表情を向けた。ガタンと近くのテントで何かがひっくり返った音がする。

「どうスかね、異界で食ったものが悪さして帰還後に死んだ話を聞いたことありますけど!」

「それは単に食ったものが悪かっただけだろう。サバイバルではキノコを食うな……『家庭科』で教わる範疇だ!」

 イチトの口答えに思うことがあったのか、ゴートがわざわざ噛みついてきた。

「たしかに習ったっスけどぉ! おいしそうなおやつならまどうのおにーさんは食べちゃうでしょう!? 今後は気をつけてほしーっスね!」

「俺をのべつまくなしの腹ペコ男と思っていないか? その話の出どころは誰だ!」

「イヤっス! それ教えたらスタッフの5割がおにーさんに怒られるっス!」

「主犯格を吐け!」


 言い合いながら次第に早足。警戒しつつ露店の通りを駆け抜ける。道なりに行けばすぐに分岐。ゴートの先行を許しているせいで、ふたりはぐるぐる巡っている。その証拠に、鎮守の森に囲まれた社から離れていないのだ。なぜだか無人の屋台を突っ切る気にはなれない。屋台を乱すのは憚られた。


「ハァ、ハァ……」

 言い合いと早歩きで息切れしたゴートがスタートウォッチを見やるが、電源が入っていないようだった。この時やっとイチトはスマートフォンの存在を思い出す。確認すればこちらも電源が落ちている。

「今何時だ?」

 イチトは思わず天を仰ぐが星はまったく見えなかった。紅い燈が邪魔をする。近くの金魚掬いの屋台でボチャンと大きな水音がしたが、振り向く頃には水音のことを忘れている。

「……ボーナスがほしいものだ。業務外でドアー潰しとはな」

「やっぱお金が出ないといやっスか?」

「人を試すようなことを言うな。俺がやる必要があるのならやる。俺の目標は、この国のドアーをすべて封じることなのだから……」

 喉の乾きを覚える身に、テントから下がるかき氷の文字が恨めしい。並ぶかき氷機は虚無を削っている。いちご味もレモン味もブルーハワイも等しく透明色だ。

「だが本件、本当はお前の仕事なのだろう?」


 憤りを隠して巻き込んだことを問えば、ゴートは真顔を崩して意味深に笑ってみせた。

「仕事じゃないけど役目ではあるっスよ」

「お前はシガさんの弟子か?」

「えっ……ドキ……なんスか急に……たしかにパイセンはおれの尊敬するひとではあるっスけど……?」

 この戯け方は照れ隠しだと、イチトは、周りが想像する以上には人を見てきた人生なので理解ができる。

「笑い方がシガさんの模倣だ」

「えー! うまくできてたっスかぁ?」

 しかし質が違うとイチトは鼻で笑った。シガヤの笑いは、そのほとんどが悪意の隠蔽だから。ゴートはそこまではものにできていない。


「さて、この状況をつくりだしている元凶はどこなんだ。それともドアーを封じれば解放されるか?」

 遊べもしない屋台なんてただ煩わしいばかりの存在だ。今度はイチトが先導を引き受けて早足で進む。選んだ通りに並ぶ屋台が、たったふたりの客を呼び止めようとする気配がわかる。声など聞こえやしないのに。

「ちょっと、適当に進まないで……」

 追いすがるゴートの手をはらう。指先に屋台のパイプがぶつかりカーンと澄んだ音を立てた。それを合図にイチトは立ち止まる。

「……ああ、懐かしい。昔、きょうだいで縁日に行ったことを思い出す」

「それって何歳くらいの時の話スか?」

 カーンカーンと音は遠くに駆けていく。ある場所に吸い寄せられるように。

「とおかそこらだ。兄がいて妹もいたからな。兄の無計画で小遣いが尽きて、おれたちは金もないのに屋台の間を歩いていた」

「へ、へぇ、兄に妹……さんにんきょうだいスか?」

 イチトは目を伏せると、今度は警棒で支柱を叩いた。カーン、と飛んでいく音に、今度は香りも混ざっている。それを探りながらイチトは、己の思い出話をゴートに与える。

 

「姉も弟もいる。おれは焼きそばが食べたいと騒ぐ弟の腕を引っ張る係。姉は『友達に会えたら奢ってもらえるかもしんないから』とのたまう兄を止めながらぐずる妹を慰めるという最難関ミッションをこなしていた」

 瞼の裏で思い出す光景はもはや朧げ。でも、妹以外は笑っていたことは印象深い。

「んふ、ご両親はいないんスか」

 光景を想像したのかゴートも吹き出す。

「その時はいなかった。兄が母同伴を嫌がったんだ。そういうお年頃だ。父は仕事だった」

「お母さんが一緒にいたら焼きそばが食べれたかもしれないのに」

「そこは兄の戦略ミスだな。それに俺は焼きそばよりベビーカステラの方がいい。あれならきょうだいで分けて食べやすい」

 そう伝えれば、ゴートの笑いの種類が変わったのをイチトは視認する。目を細めてにんまりとしてみせて。

「またまた~甘いものだからっスよね?」

 決めつけは良くないと、イチトは怒るべきだった。

「俺のことは、甘いもの好きではなく家族想いな男として記憶してほしいものだ」

「だったらこの匂いに釣られて行かないでくださいよ?」


 ゴートが今度は下がり眉となってイチトの腕を掴む。イチトがとあるテントの中に入ろうとしていたのを止めるためだ。そこは休憩所として用意された場所だろう。折りたたみテーブルとパイプ椅子が並んでいる。

「……だが。音も香りも、煙も気配も、この先に向かっている」

「いやいや。もう十分迷ったので、おうちに帰りましょ!」

 とうとうゴートは力任せにイチトに組みついてきた。

「お前の仕事はなんなんだ、ゴート!?」

 しかしふたりの間には明確な体格差がある。パイプ椅子が倒れ、周囲の提灯が揺れた。ゴートは返り討ちにあい地面に倒れ伏す。

「俺を陥れるつもりか!?」

「そんなんじゃないっス! 決して、そんなんじゃ!」

 悲しむようなざわめきの気配。瞬きのたびに周囲の屋台の配置は変わり、地に伏すふたりの前に一本道をつくった。屋台は全てリンゴ飴だ。


 ゴートは、最後まで取り繕うことはできない。それはシガヤとの経験の差だろう。言葉と表情で人を煽るにはゴートは若すぎる。

「……こ、ここをまっすぐ進めば、この祭りから、抜けられるっス」

 苦しそうに白状するゴートの胸元を掴むと、イチトはゴートのボディバッグを漁った。中から出て来たのは祭囃子用のバチだ。

「お前がこの祭りを呼んだのか」

 イチトの問いにゴートは何度も頷く。

「人を遠ざけるため……中を迷わせる祭りを呼ぶ道具っス。これは神器じゃあないスよ、各地に似たような嘘の祭の結界はあるはずだし」

 種明かしをしたということは、もうイチトを足止めする必要はなくなったのだろうか。十分時間が稼げたのだろうか。

「この手のものは、おそらく使用制限があるのだろう? 常時使えるなら異界落ちする人がどれだけ少なく済むことか!」

 イチトがゴートに叱りつけるたびに祭りの電灯は明滅する。

「どうして俺に使ったんだ……!」

 イチトの叱責にゴートは頷いた。無表情だった。


 どうして、という声は祭囃子の音に負ける。ハレの日の気配に惹かれて人々を災禍から遠ざける手筈。年に1度のモルグ市こどもまつり。異界よりも楽しいことが、この世にはきちんと存在する。


「……ここで俺が、年に1度の切り札を無駄にして、お前を振り切りこの先に向かえば」

 地面に尻餅をついている少年を跨ぐように立ち、イチトは警棒を顎先に突きつける。警棒のスイッチを入れれば攻撃光が炸裂する。もしもゴートが異界の影響を受けているのなら、その輝きはたちまち毒として身を蝕むだろう。

「お前は館長からどんな叱責を受けるんだ?」

 爛々と輝く黄緑の瞳がイチトを見上げている。ゴクリと喉が動くのが見える。少年は突きつけられた警棒を恐れているが、それ以上に……。

「おれがどれだけ怒られるかは気にしないでほしいっス」

 どんな笑顔をつくろうか迷っている、中途半端なかたちだった。


「今日この日はすべてを無視してくれませんか? 理由はいつか教えるっス」

 周囲の温度が下がりはじめる。幽霊が集まりはじめていると言われたら信じるだろう。

「俺は『いつか』なんて言葉を真に受けるたちじゃないぞ」

「それなら、此方に事情がありそうだと察しておきながらも自分の理念を曲げられない、超堅物な男なんスか?」

 ゴートは探りを入れるが、イチトの目つきに耐えられないのかすぐに視線を外してしまう。

「……ああもう、おにーさんの目は怖いな。おれの言葉が響いてるのか全然わからないっス。おれが泣いたらやめてくれる? それとも亡き弟さんの代わりにおれとお祭りを楽しんでと言ったら応じてくれるスか?」

「無駄な提案をするな。俺は何人なんぴととも、自分の弟を重ねない」

 イチトは強く断言し、ゴートの腕を引いて起き上がらせた。


「今日はお前に従ってやろう、ゴート」

 無理やり立たされたゴートの足はふらついていた。仕方なくイチトはゴートの体をおぶる。

「ちょっ……そこまでしなくていいっスよ」

「お前が呼んだ祭りの場を出るまでの辛抱だ」

 男の体にしては不自然に柔らかさがあったが、イチトはそれをわざわざ指摘はしなかった。

「この歳でおんぶって……」

「であればアレはどうだ。ファイアーマンズキャリーを知っているか?」

「あっこの間まどうパイセンにやってたやつ! 今のがいいっす。この歳でおんぶしてもらうことは貴重なんで!」

「調子のいいやつだ」


 イチトは願われた通りに災禍から目を逸らし、屋台の並びが導くままに進む。離れていく。やっていることは昼と同じだ。誰かに守られた空間を行く。

 この手のシェルターが十分にあれば、人は異界落ちをしなくなるのだろうか。枕木セイのような形代かたしろがたくさん居れば、ドアーを塞ぐ必要はないのだろう……。

 いや逆だ。余計な犠牲を増やさないためにイチトは異界の入口をすべて塞ぐと決めている。それすらも根本的な解決策ではない。真の解決を目指すなら、異界を滅ぼす必要がある。


「まどうのおにーさん、おれあそこのヨーヨーすくいやりたいっス」

 黙り込んだイチトの肩をゴートが叩く。

「無いものをねだるな」

「つれない人っスね」

 通るべき道だけに灯りがついてふたりを導く。何かを見捨てる後ろ髪を引かれる想いは、背中のゴートが散らしていく。屋台から流れ込む煙には甘辛いソースの匂いが絡んでいる。これはたこやきだろうか、焼きそばだろうか。

「ゴート。俺の呼び方を変えてくれないか」

「パイセン呼びがいいっスか?」

 灯りの数は減っていく。カン、カン、と背後で金具を取り落とす音が続く。役目が終わったと言わんばかりに、唐突に祭りを諦めていくように。状況を見ようと振り返るイチトの目元をゴートの白いグローブが覆い隠す。

「イチトでいいだろう」

「イヤっス」

「俺に言うことを聞かせるくせに俺の言うことは聞いてくれないのか」

 ゴートは背中でキャラキャラ笑った。笑い声が喉の奥で転がっている。イチトを揶揄うのが心底楽しいと隠さない声だった。


 目隠しが外されると、イチトは公園前に立っていた。この向かいがイチトの住むマンションだ。夏の夜の湿った風に祭りの名残はない。道を照らす伝統に蛾が何匹か集まっている。

「ここまで来ればもう大丈夫っス」

 イチトの背から飛び降りてゴートは片手を上げる。

「それじゃあおやすみなさい!」

 文句を言おうとしたイチトを視認したのか、あわててゴートは一本指を立てて「しー!」と言う。確かにマンション前で揉めれば近隣住民に迷惑がかかるだろう。

「……おやすみ。また次、会える時に」

「すぐ会えるっスよ! なんせ『ナイトミュージアム』がありますからね! お世話になるっス!」

 そう言い残してゴートは走り去った。イチトはその姿を見送ってから、数歩後退して自分が来た道を確認して見たが、どこにも祭りの赤い灯りは残っていなかった。それから最後に、己の背に体重を預けていたゴートの香りを思い出し、むぅと憤りの声を吐いてみせた。



 ……。



「ただいま」

 玄関に入ると、靴棚の上の小さなライトがぽっと灯る。フツカの要望で置いた人感式のライトだ。

「兄さんおかえりなさい! 遅かったね!」

 出迎えるフツカは普段とまったく変わらない。"いつも通り"という存在はありがたいものだ。

「同僚……と帰りが一緒になって。喋っていたら遅くなった」


 冷房の風に乗って、ルームフレグランスの甘い香りが鼻をつく。あまりにも長く異界やその周りをうろいていたからだろうか、今日はとりわけ自宅の香りが意識できる。同居人が勝手に決めたものなのでルームフレグランスの種類をイチトは知らない。ただ、清涼感のある甘さは気に入っていた。


「同僚って言い方珍しいね。しがさんとは別の人?」

「一緒に仕事をしたことがない相手だからな。お前と年が近いヤツなんだ」

「あ、わかった。スがつく女の子だ!」

「スグリのことか? よく覚えていたな。今日一緒だったのはあいつじゃあないが、スグリもお前と年が近いな」

「うげ、そんなに若くて魔神博物館で働くなんて」

 嫌悪感を隠さずに、フツカはべっと舌を出して見せる。フツカの魔神嫌いを考慮すると、ゴートもスグリも彼とは相性があまりよくないかもしれない。


「そうだ、お夕飯! 温めなおしたら食べられるよ」

「用意してくれるか」

「いいよぉ。今日は焼きそばだよ。ちゃんと具もあるから安心して」

「成長だな」

 同居を始めた頃は具なしだったフツカの焼きそばも、イチトの根気強い指導のおかげでキャベツ・にんじん・豚肉が追加されるようになった。

「ちょうど焼きそばが食べたかったんだ」

「ほんと? ぼく、いい仕事をしたみたいだね」


 手洗いうがいをして食卓につくイチトをフツカは嬉しそうに待っている。食事を用意した褒美が与えられる時を待っているのだ。

「……しかし屋台の味とは違うんだろうな」

「これは塩焼きそばだからね〜!」

 へへ、と柔らかく笑うフツカに見守られながら、イチトは塩味の濃い焼きそばを食べた。求めていた屋台の味とは違うものだが、これはふたりの日常の味である。

「うん」

「美味しいって言ってよ」

「喉まで出かかってたんだぞ」

 せっかちめ、と言えばフツカは頬を膨らませる。冷えた麦茶を飲み込んでからようやく「おいしいぞ」と言えばフツカは満面の笑みを浮かべてみせた。演技でも誤魔化しでもない、心からの笑みを。



 ……。



 翌日。イチトは少し早く起きて、いつもとは違う道を通って博物館に向かった。理由は当然、昨日の現場を見つけるためだ。

 朝から日差しは厳しく、キャップを被ったイチトの目元に濃い影をつくる。


 幸いすぐに該当の場所に見当がついた。それらしき場所に数人、カーキのジャケットを着た人が集まっていたからだ。全員がモルグ市魔神博物館の職員である。

「おはようございます」

 声をかけると数人が厳しい目をイチトに向けたが、すぐに、相手は私服の回収員だと気づいて警戒を緩めた。

「もう終わりましたよ」

 職員に先手を突かれてイチトは面食らう。

「……ドアーを封じたのか? それとも魔神が出たのか」

「もう終わりましたよ」

 職員はわざと繰り返す。イチトがどれだけ尋ねても職員はなんにも教えてくれなかった。


 蝉が耳障りなほど鳴いている。木々の隙間から入道雲が見える。この辺りは街中だから鎮守の森などあるはずもなく。そういえばモルグ市の社は、魔神侵攻の折に潰されたことを思いだす。

「……まさか、犠牲者がいたなんて言うんじゃあないぞ」

 街路樹のそばに血痕を見つけたイチトの問いに、職員は気まずそうに目を伏せた。言葉にされずともわかる顛末にイチトは「嗚呼」と憤りの息を吐いた。

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モルグ市魔神博物館 最堂四期 @sochinote

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