第40話「病床の箱庭【3】枕木セイはハバキに言いたい」

 廃病院の廊下に佇むのは枕木ハバキと惑羽イチト。

「オレ、潜ることはあるけど迷い込むのは初めてなんだわ。こういう時はどうすんのが正解なんだ?」

「ドアーに迷い込んだあとの行動に正解なんてない」


 意図せずドアーをくぐった時、そこが「どの型の異界か」を調べようとするのは有識者の陥りがちなミスだ。

 日本国内にだってさまざまな環境があるだろう、とかねてより副館長が語っている。たとえば街。たとえば海沿い。たとえば山中。たとえばトンネル。

 異界落ちした場合も同様で、落ちた先の環境は一概には言えない。その上、幸いなことに"こちら側"と"むこう側"の混ざりあった境界付近に落ちるため……把握は困難。それが『異界落ち』というものだ。

「じゃあどうすんだよ?」

「正解にあたるまで行動するしかない」

 窓を破って外に出ることを、ふたりは早々に諦めていた。その色彩は閉ざされたように黒いから。ここから外に身を出した瞬間、闇に溶けてしまう確信はある。病院とは、患者を守るためにある施設なので、外よりは安心だ。此方の常識が混ざっている場所なら、きっとそうだ。


「行動つったってなぁ……」

 煤で汚れたガラス窓には、目付きの悪いふたりの男の鏡像。イチトは博物館のカーキのジャケットを羽織り、ハバキはラフなパーカー姿。まるで己が回収員に保護された人のようであると、ハバキは己の姿に嫌悪感を抱く。

「突っ立っていてもしょうがないな。歩くか」

 スマートフォンはもちろん外部と通じない。それなのにメッセージは断続的に届く。送信者不明、意図が分からないスタンプばかり。あまりに連続で来るので、イチトとハバキは仕方がなく通信機器の電源を落とした。このままでは、ここぞという時にバッテリーが切れてしまう。


「それにしてもここ、砂、多いな!?」

 靴の中に違和感を覚えてハバキはスニーカーをひっくり返した。白い砂がこぼれ落ちる。派手な蛍光色の靴下は沈んだ色彩の廃病院内で浮いていた。

「ハバキは、セイという患者のもとによく通っていたのか?」

 そこに唐突に尋問が行われ、ハバキは一瞬声をつまらせる。

「……ッ、まぁ、気が向けば半月に1度くらい」

 イチトの声は予想よりは柔らかく、それでもハバキが警戒を怠ることはなく。

「ではあの病院に異界の入口ドアーがあるという話を聞いたことは?」

「ねぇよ! 『総合病院』だぞ!? んなもんあったら大問題になっとるわ!」

「そうだよな」

 イチトは長い廊下を見つめながら唸る。外開きの扉がキイキイと音を立てながら開いて待っている。それは十、百、千、万と続き、漣のように連なっていった。


「ではあの『野球帽の少年』が開いたのか?」

「あれが魔神なら、ドアーくらいあけるだろ」

 ぼやきながらハバキは目をこする。確光コンタクトレンズによるゴロゴロとした感触がハバキの気持ちをより一層ささくれ立たせた。

「目に入れてるもの、危険性はないのか」

 コンタクトレンズを指してイチトが問う。

「ソレも含めて調べんのが治験ってやつだろ」

「ほう、そのような手伝いもしているとは」

「治験バイトは収入もいいんだぜ? 博物館ならなおさらだ。でもよ、イチト」


 枕木ハバキはとにかくタイミングが悪いのだ。それとも本能が警鐘を鳴らした結果か。こういう時に惑羽イチトの"悪癖"を思い出してしまう。彼の「家族語り」とはつまり、犠牲者たちの物語だ。


「……あんまりヒトのこと詮索すんなよ。気持ち悪ぃわ」

「何にせよ博物館の備品をちょろまかすのは良くないぞ」

 イチトはハバキの発言逸らしに協力する。ポケットから黒グローブを取りすと、押し付けるように手渡した。

「これをオレに渡しちゃっていいのかよ?」

 試すように歯を見せて笑いかける。

「神器も無しに魔神を相手にしようとするな。素人か?」

 素人、という言葉はひどくハバキの気分を害した。これでも正職員という自負がある。イチトの方こそ部外者客員だ。


「お前がそれを語るんじゃねぇよ。この春に神器デビューしたばかりの客員がよ」

 苛立ちをぶつけつつグローブを受け取る。ハバキの第壱神器『区々楓ククカエデ』は、携帯を許可されている汎用神器だ。

「そうだな」

 ……イチトの含みのある表情が煩わしくてハバキは大声をあげた。

「いいか!? 隙を見て説教しようとすんなよ! 家族語りも禁止だ!」

「承知した、正職員殿。そのコンタクトレンズは周辺の存在を感知できたりしないのか?」

「そこまで便利なシロモノじゃねーよ。確光レンズを目に貼っつけてるだけだ!」

 しかしさっそく手近な部屋に入ろうとした途端、扉が音を立てて閉まった。

「んっだよっ!?」

 ハバキはヤケになってドアノブを乱暴に回すが、施錠されたのか開かない。

「思わせぶりに開いてたくせにテメェ!」

 イチトは隣の開いた扉に向かうが、同じように眼前で扉が閉じられた。

「むぅ、入るなということか?」

「腹立つな! 壊したろうか!?」

 苛立ちに任せて区々楓から爪を展開する。赤色光がハバキの三白眼を照らす。

「おい、Rr光を無駄遣いするな」

「オレは先手必勝派なんだよ!」

 赤い光で照らされたのはハバキの顔だけではなかった。閉じられた金属扉に同化するほどに古びたA3用紙が目に入る。

「なんだこれ?」


 甲子園の応援ポスター。

 ハバキの嫌悪感はいよいよ最大にまで膨れ上がる。心の柔らかいところを直接撫でられているような気がした。

「ハ、なんなんだよ……ッ」

 ポスターに写った高校球児の顔は、煤で汚れて判別できない。自分の姿ではない、ということに少なからずハバキは安堵を覚えた。


 なにかしらの答えを求めて視線を彷徨わせば、イチトもハバキと同じように隣の閉じたドアを眺めている。公色警棒を掲げて灯りの代わりとしているようだ。色は銀色……Ws型であることがハバキの神経を逆撫でる。

「そっちは何が書いてあった?」

 ドアに貼られたポスターには『この部屋危険立ち入り禁止!』とゴシック体。

 ……それなのにイチトが一歩引いて、体重をかける位置を調整し。つまりは、蹴りの予備動作を見せるので。

「待て待て!!」

 思わずハバキはイチトと扉の前に割って入った。イチトが足を上げたまま、動きを止める。

「どうした?」

「立ち入り禁止って書いてんだろ!?」

「どこにだ」

 ハバキが指差した紙を見てイチトは怪訝そうな顔を見せる。

「……ハバキがそういうのならやめておこう」

「納得言ってない顔でよくそんな素直なこと言えんなぁ……」

 後ろ髪を引かれていそうなイチトの腕を引き、ハバキは隣の扉へ。もちろん扉は眼前でしまる。廊下を歩くと、それに応じてパタぱたパタと閉じていく。

「なんなんだよ、ほんと……気味悪ぃ異界だな」


 ハバキは廊下の奥を見る。億、兆、京、垓の扉が並ぶ。とんで不可思議、無量大数。そしてどの扉も二度と開こうとしないのだ。回廊のようになっている廊下は、ゆっくりふたりを地下へ誘うように傾斜がかかっている。


「……まさかこの中から正解の出口を見つけろってか?」

 ハバキは自嘲気味に笑った。首筋を冷や汗を伝う。焦げ付いたような匂いと砂埃の気配が気を滅入らせる。

「こうしてふたりの男は戻ってきませんでした、なんて趣味悪ぃ怪談になるつもりはねぇからな!」

 きっとどこかで自分を見ているであろう黒幕野球帽に告げるつもりでハバキは吠えた。

「いい心構えだ」

 イチトはそう褒めてくれたが、もし此処にシガヤがいれば「フラグたてんじゃないヨ」と笑われたことだろう。



 ……。



 進入禁止のテープ。ドアノブのない扉。落石を示すために並べられた小石。箒が立てかけられた扉。元素周期表のポスター。


 どれもこれも「病床の箱庭」から出るヒントにはなりえない。時折意味を見いだせそうな張り紙を見かけるが、それを指摘しようと思えば隣の扉のポスターの方が鮮烈に見え。それを繰り返すごとに、とうとう情報共有の気力も摩耗した。

 ちょうど通りすがった扉には、モルグ市魔神博物館のいつかの企画展ポスターが貼られている。「げに恐ろしきは神の業」のキャッチコピーには見覚えが無い。


 まれに背後からカラカラと音がするのだが、振り返ったところで点滴スタンドが横切っていくだけだ。なんにも下がっていないので点滴としての用途をなすこともない。

 ハバキはおっかなびっくりな居心地で、イチトも表情を険しくし、ふたりで砂だらけの廊下を淡々と進む。

 正解の扉か、あるいは廊下の終わりを目指す。公色警棒が放つ銀色の光はどんな魔物も屠るのだが、この場においては頼りない。


「なぁもし、もしもの話だけどよ」

 扉が閉まり続ける音に耐えられず、ハバキはイチトをひとつ試してみる。

「扉を通れるものがひとりだけ、みたいな条件の出口があったらさ」

 それは誰かから聞かされた記憶がある、実在した異界の話だ。生存者は自殺した。生きてかえってきたのにね、とスグリが小さく呟いた、後味の悪い事件記録のひとつ。

「そういう時アンタならどうする?」

 ここでイチトに「自分が通る」と言われたらどんな顔すればいいだろう、とハバキは今さら後悔する。勢いよくケンカしてやろうかなと自棄になっていると、少し間を置いてイチトが答えた。

「いきたいものがいけばいい。俺たちはずっとそうしてきた」

 やさしい声だったのでハバキの癪に触りもした。

「『俺たち』って、なんだよ?」

「家族の話になるがいいか」

「よくねぇ!!」 

「それならハバキ、この扉を」

 吹き上がるハバキを制してイチトは警棒で扉を示した。ハバキの胸元を遮って銀色の光が扉を照らす。

「アタリのような気がしないか?」


 どんな扉もスルーしてきたのに、とハバキは舌打ちを返す。イチトが指した扉は他よりも一層派手で、高架下で見かける落書きタギングが施されていた。大きな唇と舌の絵はあまりにも凡庸な題材だ。

「気味悪ぃから、オレならパスするけど」

 ハバキの感想にイチトは眉をひそめて怪訝の意を示す。

「これが他のドアよりも新しいようだが」

「よく新しいなんて分かんなぁ、こんな絵が描いてあるのに……ん、いや待てよ」

 ハバキはもうひとつ、すぐ隣の扉に目を向けた。

「新しさを基準にするなら、こっちの方がよくね?」


 隣の扉は、それこそ新築の建物に付けられたもののようにピカピカだ。逆に怪しいくらいに。どうせカギがかかってるだろうとダメ元でドアノブに手を伸ばすが……イチトが、ハバキの手を覆い隠すように、ドアノブから引き剥がした。

「なんだよ。開くか試してみるだけだって」

「正気か!?」

 イチトは声こそ鋭いものの心配そうな眼をしていたので、ハバキは面食らった。

「オレ、何かおかしいこと、やっちまったかよ?」

「未遂だ。だが、よりによってどうして『死体安置所』に入ることを選んだ?」

 指摘されて扉を見返してみるが、なにがどうして死体安置所呼ばわりなのかがわからない。わかりやすいポスターも室名札もない。両目のコンタクトレンズはずっと、油のような不自然な虹色で歪んでいて何もわからない。


「いやいや、なにをもって死体安置所って?」

「扉に書いてあるだろう?」

 この段になってようやくハバキも気がついた。

「……イチト、こっちのドア。らくがきが見えっか?」

 真っ赤な唇と青い舌が描かれたタギング扉をしっかりと指差す。イチトの反応は芳しくない。

「らくがきなんてどこにある? それならお前の勧める扉の方が、手形だらけで不吉だが」

「手形なんてねぇだろ。舌の絵の方が怖いわ」 

「した?」


 ふたりの声は、どんどん引きつったものに変わっていく。

 心の何処かで答えは出ているというのに、互いに探るのをやめられない。

 もはやハバキはイチトの視界を信用できない。イチトもきっとそうだろう。


「は、はは」

 最初に天を仰いだのはイチトだった。天井の蛍光灯はすべて壊れているのに、廊下はぼんやりと明るいまま。

「見えているものがズレているじゃないか!」

 イチトは頭をふるとすぐに真顔に戻った。そして『死体安置所』と称した扉のドアノブに手をかける。イチトはずっと素手なのでハバキはヒヤヒヤしてしまう。

「この部屋に入ろう。まずはお前の目を信じたい」

「……異界落ちの素人だぞオレは。いいのかよ?」

「異常空間に素人もプロもあるか! プロを名乗りだしたらそいつは」

 イチトはつい最近出会ったストール姿の男を思い出し、苦々しい顔を浮かべる。

「ただの異常者だ」


 そもそも自分たちが正常だと言い聞かせることがおかしいことだとハバキは笑ったが、ここはイチトに従うことを決める。

「もちろん開かねぇー」

 ガチャガチャとドアノブを乱暴に回すが、確かな錠の気配がある。金属の錆びた匂いが厭わしい。

「なぁ『銀の盾』使えよ」

「さっきから呼んでいるんだが来ないんだ」

「そんなことあんのかよ?」

「来られないのか、別の用事があるのか……そもそも銀の盾は気まぐれだ。これだから俺の第弐神器は確度が低い」

「呼んで来るだけ優秀だろ。オレの第弐なんてずっと展示室だぜ」

「あれはなかなか来館者に評判がいいそうだな」


 とはいえ神器に頼らずとも人はやっていける。イチトは「下がっていろ」とハバキに命令して自らは扉の前に立った。

 右膝をゆっくり上げ、足の裏を標的に向ける。そのまま、砂にまみれたワークブーツによるスナップキックを1回。2回。3回。扉は勢いよく開かれた。

「ヨッシャ!」

 ハバキは歓声をあげ、仄暗い室内に足を踏み入れる。


 長く院内を歩いていたせいだろうか。「アタリの扉を見つけられたら出られる」とハバキは無意識に思い込んでいた。当然そんなことはない。扉の向こうは狭い部屋いきどまり。砂にまみれたひとり用の病室だ。


「期待させやがってよぉ……」

 しかしイチトの云う『死体安置所』という気配が一切ないのは幸いだった。それどころか最近まで使われていた形跡がある。デスクの上には分厚い教科書が積み上げられていた。

「帰り方とか書いてねぇかな」

 書籍を漁るのは気乗りしないもののハバキはデスクに歩み寄る。何気なく教科書を裏返し――そして目を大きく見開いた。裏表紙の記名欄に『枕木浄まくらぎセイ』と端正な文字がある。

「これ、セイのか……!」

 他の教科書も奪うような勢いで広げて記名を確認する。欄がなければ中表紙に。そのすべてに従兄弟の名前があった。いくつかの本は薬学関係のもので、ハバキはセイが薬学部に受かっていたことを思い出す。


「イチト! ここ、セイの部屋だ!」

 ハバキは弾んだ声で告げたものの、イチトは部屋の入口で立ち竦んだままだった。厳しい眼差しで、警戒を緩めず、開いた彼の口は何を言おうか迷っている。

 その様相にハバキは覚えがある。つい数時間前、イチトを前にした時の己と同じ。なんで、どうしてと畏れる気持ち。

「……せ、セイの、教科書があったんだ。アイツ、薬学部で、頭良くて。たぶんこれ……大学の教科書で」

 説明のために言葉を尽くすがどこか不自然にたどたどしくなる。信じてもらいたいという想いじゃないから。疑われたくないと繕ってしまうから。

「ハバキは大学の教科書を見たことがあるのか?」

「あるワケねぇ……オレ高校までしか行ってねぇし……」

 分厚い本をデスクに戻す。きっと多分、本当に教科書だと思っているのだ、枕木ハバキは。きっと惑羽イチトにはそう見えていないだろうけど。


 カチャリと音がしたのでハバキは顔をあげる。イチトが公色警棒の光量を調整している。強く輝くWs光を伴ってイチトは早足でベッドに向かう。それはシーツに突き立てられ、ジュウと小さな音が聞こえた。ただそれだけ。イチトが何をしているのかハバキは聞けない。聞いてはいけないような気がした。


 やがて警棒からゆっくり光が消えていく。カートリッジの残量ゼロ。

「……。」

 イチトはすぐにポケットから替えのカートリッジを取り出した。それはハバキが博物館から盗み出したものである。

「ハバキ。これで従兄弟を治そうとした?」

 責める声色じゃなかったのでハバキもぽつぽつと言葉を続ける。

「……できればワタラセは、最後にしたかったんだ。これでダメなら、当面の手がかりがなくなっちまうから……」


 日本政府が唯一『超種』と区分した渡瀬ワタラセ型、区分記号はWs。ありとあらゆる異界由来のモノを屠る、狂乱染みた暴虐の使徒。


「総合病院で精製光を使った処方は行われないのか」

「あの手の帰還者がいくらいると思ってんだよ? そんな連中に使うぐらいなら、博物館にまわしたり、もっと他に使いようがあんだろ!」

 ハバキは怒りながら部屋を後にした。イチトの無知もセイの未練も、すべてが腹立たしく思えた。

「おばさんだってオレだって、そりゃあ頼んださ、病院に、でも許可はでなかった。だったらオレがやんねぇといけねぇんだよ……!」

 廊下に並ぶは相変わらずの無限ドアー。通す気も無いのに開かれた金属扉にも苛ついてくる。

「ほら次いくぞ!」

 吠える声でイチトを呼ぶ。イチトものろのろと部屋を出た。ハバキにとっては真新しい扉、イチトにとっては死体安置所の扉をゆっくりと閉める。ガチャリとしっかりした施錠の音。きっと二度と開かないだろう。


 今度はタギングの扉を試みる。他の扉に比べて毒々しいのでハバキは正直気が進まない。それでも。

「オレもドア破り覚えてぇから、オレにさせろ」

 イチトがやったことを思い出しながら足を上げる。イチトも数歩下がってハバキを見守る。

「もっとまっすぐしないと力が入らないぞ」

「ダメ出しすんじゃねぇ!」

 5、6回、乱暴に蹴り飛ばせば、ようやく扉が開かれた。

「……やはり出口にはつながっていないか」

 イチトは諦めたような口調で部屋に入っていった。


 ハバキは中に入ることができない。

 病室の中に化け物がいるから。


 翼が生えているな、と最初に考える。身長は2メートル前後。心臓の位置に女の顔がある。顔があるなと認識できるだけで、美醜を判断したい心境ではない。脈動する肉体はまるで心臓の擬人化だ。頭には目がなく口はみっつ。涙のように斑色のよだれを流す。

 魔神だ、あれは魔神だ、魔神だろう、なのにどうして、惑羽イチトは何も言わない。殺してくれない。

 ……レンズも反応しない。色が変わらない。ヒントが何もない。呼吸が浅くなる。ハバキは己の心臓が早鐘のように鳴っていることに遅れて気がついた。全身から汗が吹き出す。


 ハバキは息を潜めて見守ることしかできない。

「ハバキは、枕木浄という男と、本当に仲がよかったんだな」

 魔神が隣に佇んでいるにも関わらず、穏やかな口調でイチトは云うのだ。

「写真にたくさんうつっている。枕木家はうちみたいに親戚が多いな……」

 イチトが指差す壁を、化物もまた見やっている。


 病室は、今はただ食卓のような匂いがしていて、目をつぶればきっとここは、誰かが泣いているダイニングだと錯覚してしまうだろう。だからハバキは目を背けることも許されない。


「セイの巻き込まれた海難事故は、本当に事故だったのか?」

 イチトは焼け焦げて黒くなった壁を指さして尋ねる。

「彼の記憶は酷いものだぞ」

 ようやくイチトがハバキを振り返った。ハバキがどういう目でイチトを見ているのか、この時知ったのだろう。イチトが眉を下げて薄く笑った。

「わからないか?」

「そこはなんもねぇ壁だ」

「ひとつ不可解なことがあってな、この写真の塗りつぶされている箇所」


 ハバキの断言を無視してイチトは壁を指差す。

 その時とうとう、室内の化け物が、突き動かされたように立ち上がった。


「これ全部お前のおばさんじゃ――」

「イチト借りるぞ!!」

 なりふりかまっていられなかった。イチトに駆け寄ると公色警棒を奪い取り、燦然たる銀の光を化け物に振り上げた。

「イッ」「ショ」「ニ」

 化物は3つの口で懇願する。

「嫌に決まってんだろ!」

 ハバキは無我夢中で化け物を叩き伏せる。肉を調理するような感触で、優勢なのに嫌悪感が勝った。やはりグローブの方があっている、と区々楓の展開を迷う。しかしハバキの神器は『超種』に対応していない。銀の光を扱える者は館内でも稀だ……。

「ゴ」「ハ」「ン……」

 唐突に警棒の銀光は途切れる。最大出力で振るい続けたせいで早くもカートリッジが切れてしまった。得物でないためにハバキは加減をつかめていない。


「くっそ、もう出るぞ!」

 助太刀すらしなかった愚鈍な男の腕を引いてハバキは部屋から転がり出る。

「はやく離れっぞイチト!」

「ハバキ……」

「どーせアンタには見えてなかったんだろ!? もういいよ! 見えてるモノが違うんだオレらは!」

 廊下を走り抜けると追従するように扉がバタバタバタと閉まっていく。開閉の勢いと足踏みによって白い砂が舞う。

「あの部屋に何が居たか聞いてもいいか?」

「やめといた方がいいだろお互いに! オレはアンタが見たのも聞かなかった! そういうモンなんだ、ただ、公色警棒の件は悪かったな!」

「ワタラセ光は高価なんだぞ」

「知ってっから!!」


 ハバキに引きずられながらイチトは廊下を走る。「廊下走るな」と書かれた真新しいポスターは無視をした。

「さっきの部屋に本が1冊だけあったんだ」

「教科書か!?」

「いや、箱庭療法の指南書だ」

「はこにわりょうほう……?」

「箱と砂と玩具を使った心理療法だ。この場所を模しているのだろうか」

「意味わかんね……あの化け物が見えなかったからって余裕感だしやがって!」

「怖かったのか?」

「急に動き出したから泣くかと思ったわ!!」


 進行方向右側に扉の群れ。左側、窓の外は黒色の空。いや、空というのは正しくない。世界がないと形容する方があっている。ここは病院だけで完結した世界。砂降り積もる、病床の箱庭。


 とうとう走り疲れてハバキが座り込む。イチトもハバキに目線を合わせるようにしゃがんだ。

「……ハバキ」

「ハァッ、ハァッ、なんだよ!?」

「守ってくれてありがとう」

「はぁ?」

 イチトの素直な感謝にハバキは調子が狂ってしまった。高圧的にされた方が「絶対生還の男」を警戒し続けていられるのに……それともシガヤの脅しがオーバーだったのだろうか。

「二度はねぇぞ!?」

「その方が俺も助かる」

『ワンッ!!』

「うはぁ!?」


 不意打ちの至近距離で犬の声がしたのでハバキは腰を抜かしてしまった。

「イチト、この犬見えてっか?」

「見えている。ダルメシアンだ」

『ワンッワフッ』

 患者さえいない院内ではじめて見かけたまともな生き物だ。ダルメシアンは砂に腰つくふたりの周りをグルグルと駆けまわる。

「魔神なのか? でもレンズの反応もねぇ……」

『ワン!!』

 ダルメシアンは力強く吠えると、先導する。犬の歩みでは扉は閉まらない。

「そういえば最初にも、犬の鳴き声が聞こえていた。あの犬の声か?」

「そんなの聞こえてたっけ。覚えてねーわ」

 立ち上がらないふたりにしびれを切らしたのか、犬はわざわざ跳ねてアピールをする。

「あれ、ついてこいってヤツじゃね」

「『よく知る生物の姿をしたものは、もっとも良い結末ともっとも悪い結末を招きやすい』」

「それ常設展示室入口の文だろ。東ヱさんの言葉だ」


 よく知る生物とは『人』だってそうとも言える。苦々しい気持ちをなだめながら、ふたりは立ち上がり犬に追従した。



 ……。



 歩きながら、イチトは病室で見た写真を思い出す。

 幼いハバキと肩を組む利発そうな少年の姿。

 セイの母親と思われる部分が黒塗りされている以外は賑やかな親族の集まりのワンシーン。

 唯一黒塗りがない写真はどれも青空のもの。

 バッターボックスに立つ目付きの悪い野球少年。

 観客席で固唾を飲んで見守るセイの横顔。


「ハバキは甲子園出場経験があるんだったか」

「んだよアンタにも見えてんのかあのポスター……」

「ポスター? いいや。きっとセイはお前が誇らしかったんだろう」

「やーめろアンタがセイを語るな。何を見たんだよマジで」

「俺も甲子園に行ってみたかった」

「うぇ!? 意外だな……!?」

「弟が野球をしていてな」

「ああそっちか……聞きたくないから話すなよ」



 ……。



 長く、暗く、ゆったりと下に延びる回廊廊下。

 犬に無反応な扉はイチトとハバキが近づく端から音をたてて閉じていく。もはや慣れっこだ。

 点滴スタンドの音、子供の泣く声、たまに誰かが「ハバキ君」と呼ぶ声も聞こえるが、ふたりは同行者に告げようとは思わない。慣れっこなのだ。


 やがてダルメシアンがある扉の前で立ち止まった。

『クゥ~ン』

 その扉だけは犬をも遠ざけるようにゆっくりと音をたてて閉じる。

「この扉オレならスルーしてたな」

「俺もそうしただろうちなみに、どう見えるか聞いてもいいか?」

「風邪予防のポスターが1枚。スグリがうがいしてる絵だ」

「スグリが描かれているのに無視してしまうのか?」

 イチトが小さく笑った。ハバキにとって珍しい笑い方だった。

「だってそんなポスターばっかりだぜ。下手な絵だけどピンク頭だからかろうじてわかる」

「そうか……俺には、子供の捜索チラシが見えている」

「警察がそういうのシカトしていいのか?」

「知らない人だからな」

 諦観の声にハバキはどこか落胆を覚えた。日頃もそうやって諦めているのか、それとも異界だから諦めているのか判断が難しい。


 なかなか扉を開けないふたりをダルメシアンが『ワンッ!』と吠えて促す。

 互いに目配せした後、イチトがドアノブを回して扉を開いた。

「行くぞイチト」

「そうだな。大人しく案内人に従うか」

 ダルメシアンが先に室内へ。首輪にある「Navigate60」の金プレートが光を受けて煌めいた。

 

 扉の先は白い空間。

 振り返っても入ってきたはずの扉はなくて、もう戻れない。


 足元を白い砂がサラサラ流れていく。波のようなおだやかな空気の流れ。空から蜘蛛の糸のように垂れているのもまた砂で、足元の砂山を崩せば不自然に青い床が見えた。

「箱庭療法も、青い箱と砂で海をつくる。ここは異界じゃない。誰かのセラピーのための空間だ」

「セイしかいねーだろ。おいセイ、出てこい! 返事しやがれ!」


 ハバキの怒鳴り声にあわせて白い砂が動く。海が割れるように、やがてうずくまった青年が姿をあらわした。顔は伏せたままで、茶色い髪に白い砂が絡んでいる。

 こんなに小柄な青年だったかと、ハバキは懐かしい思いでその背中を見ていた。


「セイ、こんなところで何してんだよ?」

《……これは僕の残された理性。ごめんねハバキ君。きみたちを助けたい一心で怖い思いをさせちゃった》

「なあセイ、一緒に帰ろう。おばさんだってずっとアンタを待ってんだ」

《あの酷い出来事のあと、僕はカギに成ったんだ。僕だけの箱庭を開けるカギ。あの魔神からきみたちを守るために箱庭に招き入れたんだけど……》

「おい、オレの言うこと無視すんな!」

「ハバキ。恐らくこちらの声は届いていない」

「……ウソだろ?」


 うずくまる青年の肩に手を乗せると、たしかに砂で出来た像の感触だ。端からほろほろと崩れていく。理性と同じくらい儚いものだ。


《ごめんね。本当だったらもっと早く"ナビ"と合流できたんだ。でもナビが銀の光を嫌がって……》

『クゥーン』

 ダルメシアンは申し訳なさそうに鳴くとイチトの脚の間を潜り始めた。八の字に回る犬を宥めるために頭を撫でると、尻尾の動きがちぎれんばかりに早くなる。

「なるほど、Navigate60。お前はワタラセ光が怖かったのか。そんなものを持ち込んですまなかったな」

『ワフッ』

 Ws型のカートリッジを使い切った頃、案内人ダルメシアンは現れた。イチトが呼んでもこない第弐神器・銀の盾は、己が向かえばふたりの帰還が一層困難になることを理解していたのかもしれない。


《ここまで来たらわかったかな。僕の精神そのものが異空間で、抜け殻の躰はドアノブ代わり》

「……セイ」

《シェルターを病院に提供するのが僕の役目。総合病院が僕を治すことはないけれど、シェルターの管理人として役目をくれる》

「おばさんが、ずっとアンタを待っているんだぞ……あれからずっとだぞ!?」

 ハバキはセイの両肩に手を乗せる。崩れていく。

《こんな僕に、もう人じゃなくなった僕に、親切な人たちが、居場所をくれて……》

 録音の声は揺れる。像を形成する砂がわずかに溶ける。

「なあセイ、やめろ。オレたちはセイを助けるために!!」

《病院は狙われる人が多いから。僕が皆を守るんだ》

「せめておばさんになんとか言ってやれよ……!」

 ハバキはセイの両頬を掴んで上を向けさせる。崩れていく。

《知っているかなハバキ君。魔神にはしつこいヤツが多いんだ。それを僕が守れるなんて……とっても誇らしいことだ》

「なあ、ココまでたどり着けたら、おばさんもアンタと会えんだろ!? だったら招いてやれよ……頼むから……!」

《これから僕は、一生をかけて帰還者どうほうの皆を守るんだ》


 イチトは黙っていた。枕木家の写真、黒塗りされたセイの母親。「本当の母」は触れてはいけない事柄だ。セイが箱庭に置いた化け物が『本物の母親』を屠りにくる。だから絶対に招くことはできない。セイが寂しさに負けない限り。


《僕は病床の箱庭を開く鍵》

「バカ野郎が……ッ」

《でも永遠に匿えるわけじゃなくってね……人ひとりには限られた時間がある》

「枕木セイは、こんな場所になるために生まれたんじゃなくってよぉ……」

《はやくいかないと砂にまみれて消えてしまう。だからもう、帰る時間》

「薬つくるんだろ!? アンタの人助けのやり方は、そっちだろ!? なぁ、おじさんの仕事の助けになりたいっつってただろ! アレを嘘にすんのかよ!!」

《どうか健康でいてね。ああ、あと……》

「受験、あんなにがんばってたじゃねぇかよ……」

《僕のお見舞いはもう十分。たまに思い出してくれたらそれでいいよ。ハバキ君、今までありがとう》


 枕木セイの形をした砂人形は、それからすっかり黙ってしまった。伝えるべき内容を全て吐き、ゆっくりと崩れて周囲の砂と同化する。空から降ってくる砂はどんどん嵩を増す。

『ワン、ワン!』

 早く、と怒るようにダルメシアンが吠え立てる。

「こんなの、おばさんになんて言ったらいいんだよ……」

 ハバキは呻いて自分の手を握りしめる。涙が落ちるのは、コンタクトレンズが痛いせいだ。虹色にぐるぐると揺れてまわる。

「……帰ろうハバキ。お前の従兄弟の厚意を、無駄にしてはいけない」

 そう言うイチトがどんな顔をしているのか、ハバキにはもう見えない。


 動こうとしないハバキの代わりにイチトが扉を開けようとする。砂がつまって扉はなかなか動かず、ダルメシアンがハラハラしながら跳ねる中、力任せにようやく開けた。扉の先は黒い幕が下がっていて向こう側はとても見えない。

 暗闇に目を凝らそうとすれば、3、2、1と数字が順番に浮かびあがる。ここに来た時に見かけたものと同じ書体。どうしようかと迷っているうちに、ダルメシアンに突撃されて、ふたりは扉をくぐってしまった。


『ワオーン!』

《さようなら》


 犬の声とセイの声。焼け焦げた匂いが遠ざかる。砂にまみれる。落ちていく。



 ……。



 映画上映のフィルター、誰かの記憶の混合。


 ハバキが病室にかけつけた時、人じゃなくなった従兄弟がいた。セイだと言われなければ魔神だと断じるところだった。

 おばさんはずっと泣き叫び、言葉は混濁していて、どちらかというと彼女の方が化け物じみていたかもしれない。

 前例のない変異。医者もお手上げ。かくして総合病院から枕木セイは出られなくなる。隔離のため、治療のため、研究のため。理由は山積み。


 その頃枕木ハバキはモルグ市魔神博物館でバイトをしていた。「時給が一番高いから」という夢がなくとも切実な理由で。気味の悪い物品の運搬、怪しい場所の先行調査、そういうなんでもない作業で日々をやりくりしていた。

「……おばさん。オレ、例の博物館でバイトしてんだよ」

 何者でもなかったハバキは「自分にも役に立てることがある」と錯覚した。

「博物館の連中なら、なにか分かるかもしれねぇ」

「ハバキくん、ほんとうに……?」

 泣き濡れる"母親"の、人間らしい声を久しぶりに聞いた。それは確かな高揚感をハバキに与えた。


 ベッドには呆然としたままの、『セイ』という自己かたちを手放しそうになっている人間がひとり。

「オレに任せておけ!」

 何か役に立てるかもしれない。湧き上がる使命感。人生の目標。


 幕が下される。

 それは自意識過剰劇場の終わり。

 またはハバキにとって、第二幕のはじまり。



 ……。




 目を覚ましたふたりは、セイの病室に重なりあって倒れていた。

「重……っ」

 ハバキが上に乗っているイチトの横っ腹を叩く。

「どけよ! 体重何キロだアンタ!?」

「元気だな……」


 時計を見やればすでに夜。野球帽の少年も、ハバキのおばさんも既にいない。虚ろな存在である枕木セイが、半身を起こした状態でベッドに居る……スピスピという鼻を鳴らす異形は起きているのか眠っているのかわからない。室内はぼんやりした緑の光で照らされている。

「セイ、ただいま。匿ってくれてありがとな」

 声をかけても箱庭の主の反応は無い。


「ああ、無断欠勤だなこれは」

 必要以上にハバキに寄り添わず、イチトは今後の災難を嘆いた。

「やっちまった。ヤマさんにキレられるわ……」

「異界落ちしたと言えば許されるだろう」

「逆に尋問コースだろ。それにセイの場所は異界じゃねぇ」

 スマートフォンの電源を入れると未読メッセージや不在着信が溜まっていた。メッセージ序盤に届いていた謎のスタンプはダルメシアンにも見えて、セイが最初からふたりにメッセージを送っていたと理解する。


「戻ってこられて、よかったな」

 イチトのそれは、ねぎらう声のはずなのだが。

 ハバキにはどうも、それがふたりの生還ではなく、『ハバキが犠牲にならずによかった』という意味を含んでいる気がして。

「そうかもな」

 素直に同意できず、時間をかけて立ち上がった。

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