第39話「惑羽イチトはハバキに聞きたい」

 会議室は暗い。前方スライドには簡素な説明画面。デスクの上には大量のコピー用紙。室内には若干名の博物館スタッフ。


「『モルグ市総合病院』で深夜2時半にピアノの音が」

「パス」

「次、総合病院の4階奥の壁一面にカラフルな目玉が」

「……パス」

「次、総合病院のエレベーターに」

「総合病院がらみはすべて、パスだ」


 資料を雑に投げ捨てる不座見ふざみ副館長。鑑定員長ヘッド・レジストラとアルバイトスタッフは困ったように顔を見合わせる。無言の応酬を前に副館長はわざとらしくメガネをカチャリと鳴らして牽制してみせた。


「総合病院の噂話はこちらで当たる案件ではない。だから、省略しなさい」

 ゆっくり言い聞かせるヤマヅに怯え、バイトのひとりがあわててスライドを先送りにする。一方で鑑定員長は副館長に果敢に食い下がった。

「待ってください。せめてこの案件だけでも。『野球帽』をかぶった少年が」

「病院で起きた怖い話ならもう十分だ。というよりも、あそこは主任がその筋の者だからいちいち報告しなくていい」

「でもバッド持って襲ってくるって!」

「そういうのは警察案件だ!」

 たしかに、と手を叩く鑑定員長。それを見たバイトたちは「これは笑うべきとこだったのかな」と確認するように囁きあった。


 自分の威厳がやや下がっていることを肌で感じた鑑定員長は「オホン」とわざとらしく咳払いしてみせる。プロジェクターの光が室内に舞う埃をキラキラ輝かせる。

「ま、魔神案件に関する嗅覚は、場数を踏まないとなかなかですね。上手い子がいたらすぐに正規採用してあげちゃいますよ!」

「こんな博物館に正規採用されるのは御免かもしれないがな」

 副館長が鼻で笑うのでバイトたちはますます罰が悪そうにして、鑑定員長はヤマヅを肘で小突く。未来の逸材を逃す言い方はよくない。

「副館長はこう言いますが、夢がある職場ですよ! なんせこの国未曾有の危機の最前線! うちは民間ですから給料もいい!」

 結局お金で釣るしかない鑑定員長だったが、バイトのひとりが挙手をした。

「でもほんとにバイトから正規採用されたひとっているんですか? その前に全員死ぬって、噂で聞いて……」

「あっはっは聞きました副館長!? うちって極悪組織みたいに思われてる! おもしろい!!」

「全力で面白がるな鑑定員長……諸君にひとつ昇進ケースを示すなら、あれだな。回収員コレクターの枕木巾来だ」


 スライドを操作していた正規職員のスタッフが気を利かせて画面を変える。自分のスマートフォンから写真を1枚投影してみせた。

 雑然としたバックヤードでの記念写真。集まってブイサインをつくっている人々の真ん中にいる目付きの悪い青年。

「彼は諸君らと同じく調査員リサーチャーのバイトだった。今は正規職員として採用され回収員コレクターをしている」

「回収員は博物館の花形職ですよ! 高卒でもオーケー! こんなに若いのに責任あるお仕事! お給料もいい。夢がありますねー!」

 鑑定員長のアピールポイントがなんとなく「使い捨て」感もあったのでバイトたちはわかりやすく囁きあった。もはやざわめきに近い音量で。


「貴様、営業向きではないな……?」

「す、すみませんそんなつもりじゃあ」

 煽って末にこの場を収束できない鑑定員長に代わって、正規職員のスタッフが動いた。部屋の照明をつけて注目を集める。

「死んだバイトよりも逃げ出したバイトの方が圧倒的に多いです。枕木は逃げなかったから評価された。皆もモルグ市の災禍から逃げず、平和への一歩に付き合ってくれたら嬉しいです」

 スタッフの胸には「兵司」の名札。調査員の"ベテラン"のひとりだ。不座見ヤマヅとの付き合いも長い……かつて盛愚市に神社が存在していた頃からの。

 信頼の高いスタッフの声かけでバイトたちの空気が和らいだ。その様子を見て鑑定員長が不満げに唇を尖らせるがヤマヅは特にフォローしなかった。

「なんだったら枕木から皆への鼓舞の言葉でも聞かせましょうか」

 いたずらっぽく、しかし爽やかな笑みで兵司がヤマヅに尋ねる。

「……今日の枕木巾来は午後出勤だそうだ」


 やる気ないなぁとバイトのひとりが囁いたので、その場の空気に飲まれて皆はクスクス笑った。その笑みも、「では本題に戻ろう」と照明を落としてスライドに笑顔の女性が大写しになったところで引っ込んでしまう。スライドが進むたびに女性の顔は歪み、つまりはそういうものばっかりだ。



 ……。



「モルグ市総合病院まで」

「『中央病院』のまちがいじゃないっすかぁ?」

 惑羽イチトの言葉に、タクシーの運転手はぞんざいに尋ね返した。街を走りまわるドライバーは大体のことを知っていると決まっている。

「総合病院で、間違いない」

 重ねて言えば「はぁい」と軽い返事。イチトはスマートフォンを取りだし会話を遠ざけるポーズを取った。バッグミラーでそれを確認した運転手は口をつぐんで車を走らせる。


 夏休み、平日午前中。まだ過ごしやすい時間だが外を出歩く人は少ない。

 ふと窓の外に目を向ければレンタルショップの店頭には『UnknownCraft』のポスター。

 睨むようにそれを眺め、またスマートフォンに視線を落とす。画面は真っ黒で、特に何も写っていない。



 ……。



「あれ、こんにちは!」

 病院の玄関口、ひまわりの並ぶ花壇のそばでイチトは声をかけられた。キャップ帽をかぶった、快活そうな笑顔を浮かべる少女だ。

綺空彩華きくうアヤカか」

「今日はまどう先生は一緒じゃないんですか?」

「じゃないんだな。討代倫悟うつしろリンゴに会いにきたんだが」

「あーあ」

 彩華は『すべて察しました』と言いたげに肩をすくめて見せる。少女のオーバーな演技は微笑ましい。

「りんごおじちゃん、もういないって」

「そうなのか?」

 調査員の報告と違うな、とイチトは心の中だけで呟いた。討代は『シらマナ』事件の後、いろいろと都合をつけて総合病院に入院し、滞在を引き延ばしていると聞いたのだが。

 今日のイチトは午前休をとっていることになっている。特法神器を持つ討代倫悟の追跡調査のためだ。


「せっかくおみまいきたのにさぁー」

 彩華は頬を膨らませ、足元を蹴る仕草をしてみせる。

「そちらには退院の連絡がいかなかったのか?」

「ヤクザがふだんどこでナニしてるか、しらなくてもいいんだって!」

 事情通の顔をして少女は言うのだ。イチトは疑いの目を向ける。彼女もグルではないのか?

「わざわざナイショでみまいにきたのにね……ムダアシってやつ」

「そうかもな」

「警察のまどうさんもナイショで来たんですよね? りんごおじちゃんと実は仲がいい?」

「あいつがヤクザから足を洗うなら仲良くしてやってもいい」

「一生無理そう」

 彩華の言葉にイチトが「ふふ」と笑ってみせたので、彩華も安心して笑い返した。おそらくこの少女は何も知らない。そして彩華はふと思い出したように質問を加える。

「そういえば、もうラジオ体操には来ないの?」

「いろいろと忙しくてな」

 大人は平気で嘘をつく。イチトは、もうラジオ体操に参加する理由がないから行かないだけだ。

「……なんか、ジャージのお兄さんかっこよかったって、4年生の子たちが言ってたんだよね。また来てあげてよ」


 そうやって下の子に気を回すこともできるのか、とイチトは素直に感心した。なるほどきっと『シらマナ』の自由研究が滞りなく続けられていれば、正しく次代の個体にバトンを渡せていただろう。この優秀な少女は。


「ラジオ体操には来ないのにお見舞いには来るなんて、意外。りんごおじちゃんはまどうさんの悪口いっぱい言ってたよ」

「仲良しじゃなくてもお見舞いくらいは行くさ」

「……ほんとは仲良くなりたい?」

「あいつから頭を下げるなら考えてやってもいいと伝えてくれ」

 無理難題を言われて少女はクスクスと邪気なく笑った。

「それじゃあワタシ、そろそろ帰ります。さようなら」

「ああ、気をつけて帰るんだぞ」


 少女が病院前バス停に小走りで向かったのを見届け、イチトはこれからどうしたものかと振り返った。そして目が合う。

 ――壁際に枕木ハバキが隠れていて、こちらの様子を伺っていた。

 小さく「やっべ」と呟いたのが分かるのは、イチトの視力が極めて良いから。


 なぜハバキがここに、とイチトは眉をひそめる。ハバキはTシャツにパーカーという私服姿。一方、イチトは小脇に博物館のジャケットを抱えている。

 ひょっとすれば向こうも「なぜここに?」と疑問に思っているかもしれない。互いに総合病院に来ることは告げていなかった。


 そうして次の瞬間、ふたりは同時に驚く羽目になる。空から銀色の光が落ちてきたせいだ。

 指示もないのに急にイチトの第弐神器『銀の盾』が展開された。

「なっ!?」

 イチトの驚きはすぐに落ち着いたものの、ハバキを見て、一歩引いた。

「……落ち着け」

 それは、銀の盾にも、告げたつもりの低い声。


 ハバキもまた、敵対するかのように神器を展開していた。

 第壱神器「区々楓くくかえで」、その中でも彼が一番使い慣れているTt型の攻撃光。

 黒いグローブの指先から、黄色の光が鋭い爪のように伸びている。


「ハバキ、神器をしまえ」

 これは確固たる命令口調。

「イチト、……」

 ハバキは名前だけ呼んで言葉をきる。こちらを批難するかどうするか、ためらっているような様子には心当たりがあった。

 イチトの気が変わる。翼のような光を放ち威嚇する銀の盾に指示をだし、格納ではなく、己の背に移動させた。とん、と小さな音。柄の形成がようやく終わり、盾が正しく「斧」の形に成った合図だ。

「ハバキ。何を隠している?」

 職業柄、隠し事には敏感な性質だ。ハバキの片手が、かばうようにショルダーバッグに伸びたことだってとうに見抜いている。

「……枕木巾来。何を、隠している?」

 同じことをもう一度。今度はもう少し、声に圧をかけながら。イチトはハバキに一歩ずつ近寄る。その背後で、銀の盾がキィンと泣くような音を立てた。


「触ンな!」

 思いのほか強い拒絶。そのまま両手で胸を突かれる。イチトはそれを敵対行動とみなした。手首返しのちの組み伏せ。ハバキを抑えこむイチトの動きは、早かった。

「クソが! 離せよ!!」

 殺気立って吼えるハバキは、がむしゃらにショルダーバッグを剥がすと遠くに投げた。イチトはとっさに右手を振るえば、合図を受けた銀の盾がその身でバッグを受けとめる。

「畜生がッ……」

 盾にぶつかった衝撃で、バッグから中身がこぼれおちる。


 イチトの足元まで、アスファルトの上を転がってきたのは。

 

 表に『Ws』と書かれているのをイチトは確かに確認した。


「ハバキ」

 魔神から得られるエネルギー、攻撃光の抽出・精製は難しい。『超種』に区分されるWs型……渡瀬ワタラセの異界のものならなおさらだ。

「刑法235条、窃盗罪というものを知っているか?」

 それゆえに高価で貴重であることを、正規職員である枕木ハバキなら知っているはずなのに。

「……畜生が……」

 恨み節をこぼすハバキ。イチトはカートリッジの使用意図に考えを巡らせるが、『公色警棒』を使わないハバキには無用のものにしか思えない。

 であれば単なる好奇心か。それならば、この反応は過剰だ。

 転売目的か。ハバキが金に困っているという話は聞かないが、その逆に余裕があるという話も無い。

「どうしてなんだ?」

 銀の盾が反応を示したのは、同じWs型のよしみだろうか。


 短い争いが終わった正面入口、蝉の声に意識が向かう。

 ふたりを責めたてるように煩い音が響き渡る。

 イチトの喉を汗がつたい、反面ハバキは汗もなく、しかし顔色は悪い。


 ……そんな気まずい沈黙は、闖入者によって破壊された。


「やだも~ハバキくん! こんなとこでナニしてんのよ!」

 髪にゆるくパーマをかけた、典型的な"おばさん"だ。彼女は弾けるような笑顔を浮かべている。病院という場には不釣り合いなほどに。

 鮮やかなオレンジの口紅と、レンズ色の濃いメガネが印象的だった。それはサングラスほど濃い色ではなく、しかしブルーライトカットほど薄いものでもなく。

「こんなところでじゃれあって! 元気ねぇ! やけちゃうわ、いろんな意味でねぇ? お友達? オホホホ、ほぉら、外暑いでしょ! 早く早く早く! 立って! 中! 待ってたから! ね! ね! ね!」

 ここまで早口、かつ、ぐいぐい来るもので、イチトは何も言い返すことができなかった。


 困ってハバキに目を向けたが、ハバキもひたすらバツの悪そうな表情を浮かべている。イチトはひとまず、流れに身をまかせることに決めた。

 謎の女が出てきた時点でひまわりの影に身を隠したのは賢い銀の盾。おばさんが背を向けるとすぐにイチトの背についてきたので、イチトはカバンだけ受け取って銀の盾を退散消滅させる。


 こうして3人は、モルグ市総合病院に足を踏み入れる。



 ……。



 イチトはハバキの腕を強く握り決して逃さないようにしているのだが、おばさんから見れば「最近の男の子ってそんなにベタベタしちゃうのね!」ぐらいにしか映らなかったようだ。


「へぇぇ、ふたりはおんなじ職場なのね、いいことよ~仲良しなのは! ほら、うちの旦那、出世争いに負けちゃって~もう窓際でのんびりよ、のんびり! 仲良し同期がいなくて張り合いがないのかもね! ほんとはもっと出来る人なんだけどねぇ~どうにもひとづきあいがヘタっていうか! まぁその控えめなとこが好きなんだけど!」

 質問1%、トーク99%の割合で繰り広げられる雑談劇場。ハバキは移動中ずっと黙ったままだった。絞首台に連れて行かれる者のように。念のためにハバキのグローブは没収済みで、今はイチトのズボンの左ポケットにしまわれていた。

「……。」

 時折イチトに視線を向けるハバキは、むしろイチトの方を不気味に思っているように見えた。イチトが先ほどのハバキの行動について、一切の言及をしないからだろう。

 単に「恐らく近しい関係の人」の前でハバキが不穏な行為をしたことを暴露するまでもないと思っただけだが、その内心を告げる必要はないとイチトは考えている。こうやって秘めてしまうから不気味がられることを知っていても。

「ああ、ダメダメ、ダメね、もう息切れしてきちゃった! ごめんなさいねここのエレベーター、入院患者優先って言われてるからね~おばちゃんそういうきまりに弱いのよ~! 階段をね! ね! つかって! は、は、健康ね! みんなで健康になりましょ!」

 ハバキもまた、イチトと"おばさん"をふりきってまで逃げだそうとはしない。例えば本気で追いかけっこをして、ハバキと勝てるかイチトには分からなかった。試したことはないし、おそらくハバキは追いかける『鬼』側なので。


 関係者以外立ち入り禁止の警告案内をすり抜けて、3人は総合病院4階の奥へと歩を進める。

 ここに入れることは、と、イチトは事情を把握した。この階の廊下の窓はすべて封鎖されている。病室の窓はマジックミラーだと記憶している。

「ハバキ、お前は」

 ようやくかけた声は、おばさんが勢いよく引き戸を引く音でかき消された。


「はいついたー! セイちゃーん! ハバキくんとハバキくんのお友達がお見舞いに来てくれたわよ~!」


 戯けた明るい声と共に、病室に駆け込むおばさん。イチトはハバキの腕を握る手に力を込めた。


「█████?」


 唸り声がひとつ。脳が理解を拒否した為に「よく分からない音がしたな」としか思えない。


 病室の中、ベッドに身を起こしている者は。

 身体はかろうじてヒトの形を保っていた。

 頭は、だめだ。

 長く、絡みついていて、もうヒトのものではない。

 ねじれている。

 そこにしがみついている、歯や目玉の存在が虚しい。

 ツノのように見える5本の突起は、大部分がズクズクと膿んでいた。


「この人は」

「……枕木浄まくらぎセイ、オレの、イトコだ」


 モルグ市総合病院4階は『帰還者』が入院する場所だと、イチトは知っている。

 しかし、ここまで拗れた姿でドアーから戻る者はそういない。

 大方は向こう側で自殺を選んでしまう。あるいは帰ってきてから自殺する。

 人のかたちを手放してしまった人を受け入れられるほど社会は成熟できていない。


 イチトはポケットに入れっぱなしだった、確光レンズ越しに『セイ』と呼ばれた人を見た。色とりどりで美しい。

「……精密検査でも分からなかったんだから、レンズで分かるワケねぇだろ」

 ハバキの声は小さく、暗い。


「はあ~いセイちゃん、今日も元気そうね~、こちらのお兄さんはハバキくんの後輩なんだって! 『博物館』の! すごいわね~!」

 ふたりの男の気まずい雰囲気を無視して、おばさん、否、枕木セイの母親はベッドの上に腰掛ける。セイと呼ばれた帰還者は返事をしない。

「で、ねえねえハバキくん! きょうはどうなのかしら、ねぇ、例の、ほら、あれ! あれ!」

 イチトはハバキの腕を揺らした。ハバキは苦虫を噛み潰したような顔をする。

「おばさん、ごめん……今日は」

 おばさんの急に声のトーンが下がったので、ハバキが一瞬身震いをした。「例のあれ」とは間違いなくWs型攻撃光のカートリッジで、それはイチトのツールバッグの中だ。

「セイちゃん、ごめんねぇ」

 セイの腕を優しく撫でる母をセイは決して見ようとはしない。まっすぐと前を向いている。鼻息のような、スピスピという空気の音はイチトにもハバキにもよく聞こえた。


「彼がああなったのはいつ?」

「……オレがバイトしてる時期。海難事故って言われてたけど、ウソかホントかわかんねぇ」

「セイちゃんはね~照れ屋だからぜんぜんお話してくれないの~早く元気になって、ね、大学に復帰しましょうね! 薬の研究して、世の中の役に立つ人にならなくっちゃねぇ! こんな時代だもんねぇ、こんな時代だものねぇ」

 やつれた入院患者の手をさすり続ける母親。声色はひどくやさしい。

「どこの異界だ?」

「なにもかも分かってねェんだよ……」

 静かに質問を重ねるイチトに、ハバキは苦々しげにこたえる。

「それで勝手に博物館の物を"借用"し続けていたのか?」

「っせぇな! やるしかねぇんだよ! オレが!」

「あ~もうケンカはダメよハバキくん~昔っからケンカ好きだったわよね~でもセイちゃんは優しい子だから、ほら、大声、こんなに驚いちゃって……」


 セイと呼ばれた者は、反応を示さず、ずっと真正面を向いている。


「アンタはそりゃ、身体が変なことになんなくて、帰れたかもしんねェけどさぁ」

 ハバキはずるずると、力が抜けたように座り込んだ。片腕は上げたままだ。なんせイチトが離そうとしないので。

「セイはダメだったんだよ、でもオレは職員になれたから、だから、だからさ、なんとかさ」


 そんな恨み節は、大きな音で遮られた。

「███!!」

 急にセイが唸り声をあげ、首を大きく奮う。

「まあ、まあ!?」

 セイの母親は嬉しそうな声をあげた。だがイチトとハバキはとっさに身構える。

 厭な音がする。何かを叩く音。


 ガラスが割れる音。


「おばさん、ナースコール!!」

 吠えるように告げると、ハバキはイチトの腕を振り払い廊下に出ていった。

「待てハバキ!」

 イチトも続いて飛び出す。なんせハバキの持つ唯一の神器は、イチトのポケットの中なのだ。


「████! ████!」

 遠くからセイの唸り声が聞こえる。

 ハバキと、そのすぐ後ろに立つイチトが目にした光景は。


 橙の細長い光がいくつも宙に浮かぶ、長い長い病院の廊下。

 壁には目玉がたくさん咲いている。

 砕けたガラス片の上に野球帽をかぶった少年が立っていた。


「なんで来たの」

 少年は幼さの残る声で告げる。手には札だらけのバッド。ふたりの男を射抜く幼い瞳は茶に焼けている。

「オイ、アイツ、魔神だぞ……ッ」

 ハバキが一歩引いた。そのまま引かなかったイチトの体にぶつかる。なぜ分かる、と問おうとしてイチトは口をつぐんだ。ハバキの両目が虹色にギラついている。試作段階の、判別用コンタクトレンズを入れているようだ。


 それから間をおかずに、イチトとハバキの目の前が黒色で遮断された。

 急に幕を下ろされたような転換。

 だけどそれはすぐに解放される。

 3、2、1という数字を視認した後に。

 緞帳は速攻で上げられ、歓迎するような扉の音があとに続く。

 百、千、万のガチャンガチャンと開く音。


 ……そうして薄暗い病院の廊下に、ふたりは立ち尽くしていた。

 窓の外は暗黒。壁には古びたポスター。鼻をつく、焼け焦げた匂い。


「……ハバキ。俺たちはいつ異界の入口ドアーに入った?」

「わかんねぇよ。ここ異界なのか? 移動させられた、のかよ。なあ?」

 ハバキはすがるようにイチトを見る。


 きっとハバキは思い出す。真道志願夜の忠告を。

 ――『絶対生還』とやらは自分のことだけで。

 ハバキがイチトから一歩だけ引いた。じゃり、と砂の音がする。

 ――同行者については、生死問わずだからネ。


 果たしてここはどこの異界か。

 古びた病院、誰かのなわばり、遠くに聞こえる獣の唸り。

 巻きこまれたのは、居合わせたふたりの回収員。


 剥がれかけのポスターはうねった字体で彼らに告げる。

 ここは『病床の箱庭』だ。


 ワン、ワン、ワンと、犬の声。

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モルグ市魔神博物館 最堂四期 @sochinote

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