聖なる夜は長距離列車の中

かろ

聖なる夜は長距離列車の中

 

 コロナ禍で在宅勤務になり、大学の時頑張って就職活動をして本当によかった。早く起きる必要もなく、密になる満員電車に乗らずに済む。朝、会社へ行きたくなくなる葛藤も減り、人間関係のストレスも軽くなった。業務への集中力も上がり、効率もよい。新しい生活様式としてずっと続いて欲しかった。


 

 必要な時には出社するが、オフィスはいらない。夏がきて猛暑日が続くと、外には一切出たくない。食品や日用品はスーパーがすいている曜日の夕方にまとめ買いするか、通販すれば十分だ。さらに面倒なときは宅配や出前を利用した。窓から入ってくる強すぎる日差しを浴びるたびに、外で働いている人間は本当に大変だと思った。自分の生活を快適にしてくれることに感謝しつつ、そんな人達への優越感もあった。カーテンを閉め、エアコンを入れた。


 

 しかし、二年もすると奇妙な苛立ちが瞬間的に湧き上がってきそうになることがあった。ストレスはほとんどないはずだし、仕事も順調に進んでいる。けれど、すぐに分からないところが聞けず、自信のあったプレゼン資料も、たった一言「ご苦労様」しか返って来ず、ちょっとした周囲からの感想を聞けない。ズレや交流のなさは分かっていたし、今に始まったことではないものの、他の社員との些細なすれ違いやわだかまりが知らないうちに澱のように自分の体に積もり続けていたのだ。隙があると、勝手に噴出しそうだ。


 

 最初はじっと座ってパソコンの前にいられたのに、今はすぐにインスタントコーヒーを飲みに立ち上がる。中腰で資料作成をし続けていたこともあった。貧乏ゆすりがとまらないときは一旦外へ出た。外の空気を吸い、散歩する。一時的に楽になっても、解消しきれない苛立ちで集中力が澱む。ジム通いしたり、ヨガやピラティスのDVDを買ったりしても、長続きしなかった。朝寝坊の心配から解放され、熟睡できていたのに、何度も飲むコーヒーのせいで、睡眠不足になった。やることが他にあるのに、SNSをしきりにチェックした。友達がライブに行ったり、旅行したりしていた。

「あれ、いつ飲みにいったんだろう」 

 友達が数人で写っている写真が流れてきた。マスクもしていなかったし、距離も近い。

「こんなの、クラスターでも起きそうじゃん」

 いつ皆で計画したのだろうか。コロナ前は予定が合わないといっていた。自分は誘われていなかった。でも、行かなくてよかったのだ。感染してしまったら大変だ。ブロックすると角が立つから、友達数人の投稿をミュートした。短い動画や「いいね」したことも忘れるような小ネタの連続が指を止めさせない。嫌な投稿を見ても、スクロールした先には溜飲を下げる呟きがあった。オンラインの打ち合わせは、発言する気が失せていった。「特にいうことないか」「次でいいか」と思うようになった。


 

 家事はやる気が出たときだけ少し片づけた。溜まっていく早さに追いつかず、山積みになっていくものを端に寄せるだけになった。通勤していた頃は、もっとこまめに片付けていた。丁寧な暮らしを心がけ、ミニマリストを目指した。小さくて狭い部屋だが、私の居場所だ。夜中は静かで、何者か知らない隣人は生活を邪魔しなかった。 


 

 休みの日は何もしなかった。というより何もできなかった。外出する気も起きず、ネットサーフィンをし続けた。その姿勢は、仕事をしているときと同じだ。夕方になって「自分は何をやっていたのか」と急に焦りだす。語学を勉強しようと思っていたはずだし、投資を始めようと本を読む予定だった。慌ててやろうとするが、とりあえず夕飯を食べようと、そのまま忘れる。在宅勤務が始まったときは毎日休みのようだったが、今は365日24時間業務中だ。


 

 夜、電気が消えた部屋で横になっていると、ノートPCが開いたまま机の上に鎮座しているのが目に入る。充電中を示す赤い光を見つめ続けた。在宅勤務用に購入した中古品で、寝る前には閉じておくべきだった。大きな口を開け、私の全生活を飲み込もうとしている。電気代が痛いが、エアコンをつけないではいられない。変に冴える頭の中で、生活費がいくら上がったのか計算した。この単身者用のアパートはインターネット完備だが、あまりにも速度が遅く、接続が不安定だったため、自分でモバイルルーターを契約した。それでもつながりにくい時があった。自分の負担を増やしたのにうまく行かず、イライラするが、この部屋の抵抗なのだ。純粋で効率化した業務で侵略されても、会社の領土になるまいと必死に抗っていた。


 

 平日の午後、私は用もないのに会社の前まで来た。秋に向かい、涼しくなり始めた。簡単なデータ入力の作業を午前中に終わらせ、午後は有給を取ることにした。自宅から会社まで電車で四十分程度だ。駅の中を歩くと、背中に迫りくる他人の歩みに怯えなかった。電車内は、毎朝都市を這う苛立ちに満ちた鼠色人間がぎゅうぎゅう詰めになった空間と同じと思えない。私が座っても、まだ座席に余裕がある。会社の近くに住めれば通勤に悩まずに済んだが、それはできなかった。



 会社の最寄り駅で降り北口から五分歩く。駅の北側はオフィス街で高層ビルが立ち並んでいる。その中に我が社はある。中へは入らない。自分の所属する場所を外から眺めていた。誰もが憧れるガラス張りの高い高いビル。限界などないとでもいうように空を貫き、太陽光を反射し輝く神殿だ。鼠色の人間たちが目指す巡礼の地。頑張って正社員になった。やりたかった仕事ではないかったものの、安定していた。辞めていく同僚もいたが、頑張って続けた。在宅勤務になってストレスが減り、「自分らしく」生きられているではないか。大きな不満はない。これからもこの会社に勤め続ける。会社を外側から見るためだけに有給を取った。今日は奇妙なことをした。ここ二年間で最も非日常だった。



 帰ろうとすると、女性が一人、ビルから出てきた。彼女はうちの派遣社員だ。もう仕事が終わる時間か。彼女は平凡な名前だった。平均的な容姿、能力。卒なく過不足なく。文句や愚痴は言わない。だからうちの会社で他の派遣よりも長く続けていられるのだろう。今年で三年だ。派遣には在宅勤務は認められていなかった。彼女は最寄り駅へ向かって歩いた。電車に乗ると思ったら、彼女は改札前を通り過ぎ、南口から出た。下り坂を下っていく。南側はあまり治安が良くないといわれていた。安い飲み屋があるが、北側のオフィス街の人間は飲みに行かず、まっすぐ家へ帰った。次の巡礼のために体力と金を残したいからだ。


 

 私は彼女をつけた。冷やかしで、あまりにも暇だった。派遣社員で、自分より年上で、女性が一人きりで治安のよくない場所へと向かう。何かを見つけたからといって、別にいいふらすつもりもなかったし、上司にチクるわけでもない。ただ「自分より下の人間」が一体何をするのか下衆な興味が湧いただけだ。「自分はあの女よりはマシだ」と思える精神安定剤が欲しかった。


  

 駅の南側には商店街があった。古びたアーケードが場末感を醸しつつ、並ぶ店の看板は色彩に溢れ、多国籍で、騒がしかった。道にはヒビが入り、どこからか水が流れてきている。飲食店や雑貨店など小さい店がひしめき、窓から内装が見えて、つい覗き込んだ。彼女を追いながらも、周囲を見回すのに忙しくなった。スパイスの香りや、肉を煮込んだ匂い、油で揚げる匂いが鼻に飛び込んでくる。通りは混んできた。もう夕飯だ。何か私も食べたいが、どの店に入ったらいいか分からなかった。


 

 慌てて本来の目的を思い出し、少し猫背の彼女を追うと、ベトナム料理の食材店に入った。看板には英語と日本語とおそらくベトナム語が書かれている。白い壁に無機質な白い棚が並び、そこに商品が並んでいた。販促用のポップはほとんどなく、簡素な店内だった。調味料らしき瓶を手に取り、棚に戻していた。それを繰り返した後、何かを決めたのか、一つだけまた手に取り、レジで会計をした。店員はおそらくベトナム人であり、彼女は片言のベトナム語(多分)で話し、笑い合っていた。この店の常連なのだろう。私も店に入って彼女の真似をして商品を見た。どうやって使うか予想がつかない食材と異国の文字の羅列に見入った。

「あれ? 山田さん?」

「あっ、えーっと、こんにちは。……鈴木さん」 

 先に気づかれた。鈴木さんは仕事帰りなので、スーツを着てパンプスを履いていた。ファンデーションは崩れず、アイラインとアイシャドーが丁寧に入っていた。上向きの睫が華やかだった。髪は後ろできっちり一つに結んでいる。私は日焼け止めを塗っただけの顔で、ジーンズに首元がよれよれの丸襟のニットを着ていた。髪はまとめて後ろでお団子にしていたが、ぼさぼさな頭を隠しきれていない。スニーカーはボロボロで、恥ずかしい。会社の人に会う可能性を考えて、もっと清潔感のある恰好をすればよかった。

「山田さんもこっち側へ来るんですね。今日は午後から休みでしたよね。遊びにとか?」

「えーっと、たまたま通りかかって。ちょっとした用があって」

「オフィス街の人って基本こっち来ないから珍しいですね」

「ええ、まあ」 

 鈴木さんと話が続かなかった。街はどんどん暗くなり、小さな店たちの明かりが通りを照らし出し、存在感を示し始める。二人の間は冷めているのに、熱気に囲まれていく。


 

 私は帰ろうとしたが、一人引き返すのは寂しかった。PCが口を開けて飲み込んでいる部屋に戻りたくない。今日は非日常だ。自分らしくないことした。

「一緒にご飯食べませんか? き、金曜の夜ですし」

 鈴木さんがとても驚いた顔をした。喜んではいない。大してあんたと私、仲良くないよねといいたげだ。気が合うわけでもない人とご飯を食べて何が楽しいのだろうか。鈴木さんは私から少し目を逸らした。

「あ、ごめんなさい、やっぱ……」

「いいですよ。何を食べますか」

 鈴木さんは私と目を合わせ、軽くいった。意外な展開だ。自分から誘ったにもかかわらず、答えを用意できなかった。ベトナム料理を食べたい気もするが、流行りの韓国料理を食べたい気もする。変わったものに挑戦したいが、落ち着いたいつもの味に逃げたい気もする。

「す、鈴木さんは何が食べたいですかね」

「私は何でもいいですよ。好き嫌いとかアレルギーとか特にないし」

「流行ってる店とかあるんですかね、この辺には」

「流行ってる店ねえ……」 

 雑談をほとんどしない鈴木さんとの溝を何とか埋めようと必死だった。自分からいいだしたのだから、責任を取らなくてはならない。そう自分を追い詰めても、スマートな会話にはならなかった。

「あーじゃああそこにしようっと」 

 鈴木さんは私にくるりと背を向けると、すたすたと前を歩きだした。私も慌ててそれについていく。一分もしないうちに、薄い緑色の外壁の小さな店の前にいた。手持ちのお金で足りるだろうか。

「この辺の店に高いとこはないから」 

 鈴木さんが私の財布を覗き込んだかのようにいった。例外もあるかもしれないのでは、と疑ったが、ここは鈴木さんを信じるしかなかった。  

 店に入ると、いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞと落ち着いた声が聞こえた。赤色がはげた革張りの椅子が囲むテーブル席が三つあり、カウンター席が四つある。外から想像するよりも天井は高く、シーリングファンが回転していた。内装の壁は外壁よりも濃い緑だった。

「奥のテーブル席にしましょう」 

 古びた焦げ茶色の木のテーブルに、対角線上に向かい合わせになって座った。メニューを見ると、麺類が中心だった。フォー、パッタイ、カルグクスと書かれ、きつねそばもあった。どれも千円前後だった。

「麺が食べたくて。どうですか?」

「えーっと。何がいいんですかね」

「あ、ここ、牛バラ煮込み麺があるな。これにしよう。ベトナムフォーにしたらどうですか?」

「パクチーが苦手で」

「抜いてもらえばいいじゃないですか」

「あ、じゃあそれで」 

 メニューには料理の古びた素人写真が並んでいたが、どんな味なのか分からず、いわれたままパクチー抜きにして注文した。外食するのも久しぶりだ。二人の間には不安定なアクリルスタンドがあり、少しほっとする。

「山田さんて、仕事早いですよね、本当に」

「え、そうですか」

「今日もデータ入力の作業あったでしょ、あれ、他の人だと午後までかかるんですよ。早くても抜け漏れも多い人もいるし」

「誰でもできることですしね。私は何年もあそこで働いてますし」  

 予想しなかった褒め言葉に動揺した。最近は、補助的な仕事ばかりだ。年数だけ積み上がり、スキルはついてきていない。

「でも鈴木さんもエクセルでのデータ分析とか強いですよね」

「とりあえずこれだけは続けようと思って。でも、なかなか生かせるところもないんですよね、求められてないらしく。前の会社は三カ月で切られちゃった。自分探しばっかりしてたらいつの間にか。一つの場所にいられなくて。いろんな職場を旅してる気持ちになる」 

 自信がなさそうに小さめの声で鈴木さんは話した。誰も責めてないのに言い訳しているようだった。

「山田さんを見てると、私もそうなれたらよかったなと思います。仕事が早くて、しっかりしてて積み重ねてるものがあって、信頼されてる」 

 自分が恥ずかしくなった。さっきまで私は鈴木さんを見下そうと躍起になっていた。

「私の田舎には仕事があんまりなくて。食いっぱぐれない仕事はあるけど、給与が低くて、皆体壊してる。長く続けられる仕事をって考えてただけなんです。自分に向き合ったことなんてないかも」 

 後悔からくる謝罪の代わりの自己開示だった。鈴木さんは出された水を飲んだ。マスクを外した他人の顔を久しぶりに間近で見た。口紅はしていなかった。

「……うちで正社員になってみる気はないんですか」

「それができたらいいですね。今年で三年で、もうすぐ契約更新の時期ですし」 

 注文した麺が来た。鈴木さんが頼んだものは、牛肉がおいしそうだ。フォーを食べると、優しい味の中にも鶏のだしがよく効いていて箸がとまらない。今まで食べたことがない味だ。

「この辺なんですか? 住んでるの」

「いいえ、ここから四十分ほど電車に乗ったところです。もっと海際です」

「そうなんですか」

「会社から近いからここに住もうと思ったんですけど、不動産屋さんが女性の一人暮らしには勧めないって。北側は高すぎて住めないし」 

 私が住んでいる場所とは反対側だったが、同じ時間をかけていた。私も気軽な気持ちで南側には住まない方がいいといわれた。

「この街にはよく来るんですか?」

「大学時代、アルバイトしては海外旅行へ行ってたんですよ。ホステルとかゲストハウスによく泊まってて。この街にいると、そのときのことを思い出せる」 

 彼女は少し遠い目をする。頭の中は今、時と海を越えているのだろう。

「でも、再開発されるらしくて、小さい店はなくなっちゃうだろうな」 

 旅した街が自分の記憶だけにしか残らない場所になる。彼女はやがて存在しなくなる永遠を惜しんでいた。

「ずっと空港にいる気分なんですよね。飛行機がキャンセルになって、空港で寝泊まりしたことあります? 目的地に向かっている人がたくさんいるのに、自分は足止め。自分はちゃんと明日行けるかなって不安なんですけど、わくわくもしてて」

「それってどこなんですか?」

「えーと、香港かタイ。何度かあるんですよ」 

 どこか覚えていないほどに、たくさん旅行しているのだ。私は海外へ行ったことはない。飛行機も高校の修学旅行で北海道に行くために乗ったのが最後だった。     


 私は大学時代、資格取得の勉強ばかりしていた。アルバイトは成長できるものをえらんでいた。間違っていたとは思わない。正社員になれて、安定した収入がある。    

 しかし、思い出して浸れる場所と時間があるのが単純に羨ましかった。過去を見る彼女の顔は、ここにいるようで、どこか知らない場所に向いている。私の過去はいつも机の前だ。ふと顔を上げると、ポスターが貼ってあった。あまりにも懐かしい地名が入っていた。

「このクラフトコーラ、私の田舎で作ってるんだ」

「へー。山田さんの地元ってコーラで有名なんですか?」

「いや、知らないです。コーラの工場も、このブランドも見たことないです」 

 旅行から実家へ戻ったようだ。あの地元には何があったのだろう。今は何があるのか。いつまでも変わらず遅れた田舎だと馬鹿にしていた。コーラ缶のお洒落で都会的なデザインは、自分より成功した同級生を見ているようだ。 

 

 私はいつまでも同じ場所で、足元を見ながら、足踏みをしていた。鈴木さんはそんな私の目の前で、見たことのない地図を広げていた。

「この店、美味しいですね」

「ねー、思ったより美味しいね」

「思ったよりって、鈴木さん、この店入ったことなかったの?」

「うん、初めてー」

「え、それで私と来ようと思ったの?」

「いつもね、この店の前を通るたびに入ってみたいなと思ってたんだけど、タイミングが掴めなくて。いろんな麺を出してるのは知ってた。山田さんが一緒にご飯食べよーっていうから、じゃあ入ってみようと思って」

「ええっ、美味しくなかったらどうするつもりだったの?」

「えーそれでもいいじゃん。あそこの店思ったほどおいしくなかったなって、それで終わり。いい話のネタじゃない? 美味しいんだから当たりだよ」

「話のネタ」

「そう」 

 私にはない発想だった。選ぶなら外れたくない。失敗したら時間もお金も無駄だ。外れたくないから最初から何も選ばない。


 

 彼女に負けた。多くの寄り道と路地裏を知っている彼女に敵わない。私は常に大通りを歩き、神殿への巡礼だけを繰り返してきた。笑うと目元にしわが入りつつも、若く見える鈴木さんの顔を見入った。負けて脱力した身体は、とても楽だ。彼女と一緒に駅まで戻る。街灯と電飾看板が照らす通りを歩く。酒も飲んでいないのに浮かれて、水で濡れた道で滑って転びそうになった。鈴木さんが「危なーい」と笑いながら私を支えてくれた。



 駅から北側を見ると、神殿が見える。まだ働いている人がいるのか、タイルのようにびっしり張られた窓がぽつぽつと光っていた。光ったタイルの中一つ一つに、ひたすら何かの神のようなものに向かって奉仕する人間がいるのだろう。今は少しだけ、あの場所がちっぽけに見える。

「また今後ともよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」 

 あははと私たちは一緒に笑い出した。私たちの間にあったビジネスモードは、もうおふざけなのだ。駅のホームで別れた。私は走り出した電車の窓から、ずっと鈴木さんに手を振り続けた。彼女も振り返してくれた。それから南側の街を見た。いつも見過ごしていた景色が、さっき過ごした時間と重なり、途端にきらめき出して私は目が離せなかった。あの看板、さっき前を通った店、あの店はいつか行ってみたい。あの店で、彼女と顔を合わせ、あの店でご飯を食べて、彼女の旅行の話を聞き、いつか一緒に海外へ行けたらいい。


 




 会社は彼女の契約を更新しなかった。彼女は欠勤もなく三年間勤め続けてきた。次はもっと若い女性を入れるという。面談のため出社したとき、上司に「彼女にずっと勤め続けてもらえばよかったじゃないですか」といったら、彼もそう打診したらしかった。

「彼女にここにずっといないかといったんだよ。クーリング期間を空ければまた派遣で雇い直すからって。でも「正社員にはしてくれないのですか」といってきてね。それはちょっとできないといったら、じゃあやめるって」

「……それって、彼女にとても失礼なんじゃないですか……?」 

 上司はとても意外そうな顔をして、好奇心と煩わしさが混じった目を向けた。

「そんなに悪い話だとは思ってなかったけど。山田さん、彼女とそんなに仲良かったんだ」

「いえ……」

「若い方がいいでしょ、飲み込みが早くて従順だし。彼女じゃなきゃいけない理由でもあるの?」 

 私は沈黙した。あまりにも無力だった。


 

 私は彼女がいなくなった後、新しい派遣社員に業務を教えるため、在宅勤務が終了した。誰もやりたがらないので、課長が本当に助かるよといった。山田さんは独身で一人暮らしだから。他の人は家族がいて、感染を避けるために在宅勤務を続けさせてくれっていうからね。本当にそう思うんだったら、基本給あげてくれよと思ったがいえなかった。この会社で続けていくためには、自分の欲求に出来る限り無関心になることだ。私は神殿への巡礼を再開した。


 

 コロナ前とは違う業務も増え、電話と郵便物への対応も多かった。雑務ばかりだ。在宅勤務者へ連絡を取ると、返信が遅い。私はすぐ返信をしていたが、そういう社員ばかりではなかった。こんなことを鈴木さんは毎日していたのか。


 

 正社員は別の社員が会社のシステムにログインしているか確認できるのだが、勤務時間中ログオフしてしまっている社員がいた。その理由は分からない。あまりにも長時間でなければ咎められない。サボっているようにしか思えなかった。一体何をしているのだろうか。この場にいない他人の生活について、こんなに考えようとしたことはなかった。在宅勤務のはずの正社員が、ある朝オフィスに来た。「今日は家にいたくないから」と。

「おはようございます。どうしたんですか」

「家事育児が私に偏ってることに今更我慢できなくなってね。在宅勤務で両立できると安心してたけど、何で私だけが『両立してる』のかと思って。夫と喧嘩して、今日を勝ち取ったの」

「そうだったんですか」

「独身は楽でしょう。どこでも行けて」

「……そうかもしれませんね」

「家以外の場所があって助かった。誰かと話したかった」

「そうですね。私もそう思います」 

 彼女は休憩時間に個包装のお菓子を手渡しでくれた。どこでも売っている市販のお菓子だが、とても嬉しかった。書類をすぐに片隅に追いやり、頬張った。それだけのことが随分失われていた。

 私より若い派遣社員の女性は、仕事がなかなか覚えられず、そういった自分に失望しているようだった。私はいった。「業務が増えてるから大変なのは当たり前ですよ。分からないことがあったら聞いて。私はいつでもいるから」


 

 引継ぎ資料は鈴木さんが作ったものだった。課長から資料と一緒に手紙を受け取った。「三年間ありがとうございました。最後にご飯一緒に行けて嬉しかったです。またどこかで」と書かれていた。それを読んでまた会える期待は持てなかった。またどこかで。本当はもう会えないのに、それを隠して、私たちは未来に別れを先送りする。会わなかった時間をいつか共有できると信じて。


 

 帰りにあのベトナム食材店に行くことがあった。料理は得意でないので、インスタントのフォーを買った。少し覚えたベトナム語で会話すると、店員は喜んでくれた。私はちょっとだけ寄り道を覚えた。これで彼女に近づけるだろう。


 

 私はときどき南側の駅近くのホステルに寝泊まりした。使わなくなった雑居ビルを改築したのだそうだ(個室ビデオ店が入ってたとか)。コロナの影響で泊まる人は多くはなかったが、生活に流れていく他人の足音と声を組み込んだ。いつの間にかあの苛立ちがなくなっていた。私は今の場所から離れない。住んでいるワンルームも、勤めている会社も私の場所だ。誰もが求める安定を手にしている。自分に自信がある。生きてきた道は正しかった。けれど、私が一生懸命勉強してきたのは、狭い部屋でパソコンの小さい画面に向き合うためだけではない。私が道を歩くための「靴」とするためだ。


  

 寒くなった。浮かれた曲が流れる街は、再開発が進み始めた。ブランドショップが入る巨大ショッピングモールができるそうだ。タワーマンションも立つが、元からここに住んでいた人達はどこへ行くのか。彼女と来た店に一人でいた。入り口にはリースが掛けられていた。変わらず緑の壁にはげた赤色の椅子。小さいツリーが隅に置かれ、安っぽく電飾が点滅していた。何度もリピートされる聞き飽きたクリスマスソングの中で食べる牛バラ麺は美味しかった。白飯も頼んで、そこにとろけるほど柔らかい牛肉をのせてかきこむ。彼女と座った奥のテーブル席を一人で占領して、店全体を見る。カップルで来ている人がいないのが救いだ。皆一人で麺をズルズルとすする姿は虚しさを通り越して、滑稽だ。私もその一部だ。事情なんか知らなくていい。


 

 ホステルに戻ってきた。一階は受付で、二階と三階が客室フロアだった。二階は女性専用で、ワンフロアに二段ベッドが所狭しと並んでいた。シャワーを浴び、上段で寝る。外で酔っぱらいが騒いでいてうるさい。酔っぱらいは周囲から迷惑がられることで孤独を紛らわせているのだろう。カーテンの隙間から入る車のライトが部屋の天井に伸びて、通り過ぎた。夜の長距離列車に乗り、クリスマスイブからクリスマスへ移動していた。私の頭は何度も秋の始まりの日へ戻ろうとした。彼女と連絡先を交換しなかったのは、距離を詰めすぎて嫌われたくないと、互いを大切に思った結果だと信じた。眠る前に考える。明日、旅に出よう。一生戻ってこない。全て放り出して、探しに行く。


 

 彼女じゃなきゃいけない理由が私にはある。彼女には私じゃなきゃいけないことはあるだろうか。冗談だ。どこにも行くつもりはない。騒ぎ声の会話がまた近くなっては遠くなっていく。静けさに耐えられず一人を受け止め切れない同乗者は置き去りにしよう。毎日眠りに落ちる前、何度も思っている。 

 彼女に会いたい。

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