2024年8~10月 動き出さなかった運命

 それはある夏の日のこと。

 ひとつの噂が、お父さんの耳に届いた。


 親会社への逆出向どれいけいやく──

 次はワナビくんらしいよ?


 我が社はブラック企業だが、表向きはそれなりの優良企業。そして優良とされるゆえんは、県規模の大きな親会社があるからだ。


 親会社は大規模な事業を進める際、各子会社から人を集める風習がある。

 下々は親会社の偉大な技術を学ばせていただくという建前なのだが、現実は「現場をよく知る人間を、子会社の安い給料テーブルのまま死ぬほどこき使う」だけ。


 まともな知識もなく肩書だけで人を使う親会社の人間、そんな上司の下について。

 人生を犠牲にしてそこそこの残業代を稼ぐ、というのが逆出向の実態だった。


 我が社からも数年に一度、奴隷が送り出されていた。


 そして次の候補が、なんとお父さんであるという、とんでもない噂である。


「まじっすか」

「管理職を集めた会議で決まったらしい」

「いや、ほんと勘弁してください」


 先輩からの情報で、お父さんは青ざめた。


「ワナビくんの知識量だと本っっ当に大変だから……覚悟しておいてね、ハハッ」


 現在地獄の逆出向中、目の死んでいる有能先輩からもそう聞いた。


 この先輩、子供が生まれた直後というプライベートが大変な次期に逆出向をくらい、年単位で残業漬けの生活を送った結果──現在、奥さん(正社員として職場復帰)とは離婚/親権/財産分与/云々、ドンパチやっていると言う。


 ワナビ家なら、どうなる?


 お母さんは専業主婦だが、お父さんの家事負担は平日でも4~5時間はある。

 それが削減、もしくは消滅したら。


 まぁ、『離婚』だろう。


 日頃から離婚という言葉を好んで使うお母さんは、絶対に離婚する。

 離婚したところで問題は悪化するだけのはずだが、それはそれ。お母さんは合理的な思考ではなく感情で動くタイプなのだ。


「さて、本当にどうしたもんか……」


 管理職から正式な打診がきたら断れない。

 断るという選択はすなわち、管理職および親会社を敵に回すということ。

 そうなれば、これまでの『プライベート最優先、手抜き可能な』働き方は難しくなる。

 最悪、居場所がなくなる可能性あり。


「いっそ、親会社が爆発しねぇかな」


 と、8月のお父さんは思っていた。



 ……。


 気付いたら、話がこないまま。


 数ヶ月が一瞬で過ぎ去ってた。


 本当に親会社が爆発した?

 そんなこたぁ、ありえない。

 となれば、何が爆発したのだろう?

 ……決まっている。


 お父さんの頭の方が爆発したのだ。


「やめなさい!!」

「ぬわあああーーーーーん(涙)」


「ダメって言ってるでしょ!!!!」


「あああああああああ(怒)」プルプルプルプル


 お父さん爆発の理由を語るには、ワナビ家の日常を紹介せねばなるまい。

 繰り返されるお母さんと娘の争い。怒りと涙の相克。


「これ食べなさい、はやく!」

「ちばう(違う)」

「食べなきゃダメでしょ、ほら!!」


(スプーンを口に押し付ける)


「ちばーう!!」

「もう、食べなきゃご飯抜きだからね!? 捨てるよ!?」


(バシーン! と机を叩く)


「やだーーーーーー!!!!」


「○○(娘)が悪いんだからね!!!!!」


 お母さんのイライラゲージは常にMAXだった。


 笑顔のない家庭。

 これはまずい……。


 お父さんも、「相手は子供なんだし、もう少し楽に考えたら?」と何度も言った。

 そして「娘を思い通りにしようとすることはやめて欲しい。「しつけの範疇をこえているし、誰のためにもならない」的なことをオブラートに包んで何度も伝えた。


 そして何より、お母さんが少しでも楽になるよう、家事負担を増やしていった。

 睡眠時間を削り、気力を振り絞り、恐らくは寿命までも犠牲にして。

 お母さんが楽になるなら。その一心で。


「ただいま! ちょっと待ってね、お母さんのご飯用意したら、遊びにいこう」

 帰宅後は一度もソファに座ることなく、ご飯を用意して、片付けて。


「お母さん休ませてあげようよ、夜の公園も楽しいよ?」

 公園で1時間も遊ばせれば、疲れて少しは寝つきもよくなるはず。


「おやすみ! え、本読め? じゃあ一冊読んだら寝ようねー、……え、ロケット?」

 声がガラガラになるほど声をはり、体を張って、娘と遊んだ。


 娘が寝たら洗濯機を回して、食事の買い出しにいって、掃除をして、諸々の片づけと翌日の準備をして、それが毎日毎日……、


 ……すべてが無駄だった。


「あれして」

「はい」

「これして」

「はい」

「これはこういうやりかたで」

「はい」

「これはこうで、これはこう、これはこう、こう、こう、こうで……」

「はい」


「終わったなら、あっちの部屋いって」

「はい」


 これだけ頑張っているのに、どうしてお母さんはイライラし続けているのだろう。

 教育方針の違い? いや、それ以上に、価値観が違いすぎる。


 そして、お父さんはふと気づいた。


「あぁ、そうか。俺は──」 


『お母さんを楽にしたい』というのは、本音ではなくて。


 ──仕事で疲れて帰ったときに待っている、『温かい家庭』が欲しかったのだ。


 ……。


 気づいてしまったら、あとは時間の問題だった。怒りながら不満をまき散らすお母さんの姿を見て。虚しさがどこまでも溢れてくる。顔に出ていたのだろう。


「何か言いたいことでもあるの」

「……はい」


 ある日。

 問われたお父さんはつい言ってしまった。


 疲れていても、何とか楽しくやれっていける……そんな家庭を望んでいるのだと。

 すなわち、現状は望むものではない、と。


 お母さんを前にして、口にしてしまったのだった。


「へぇ、そんなこと思ってたんだ」


「ですから、○○に対してもあまり怒らないでいただけると」


「悪いことしたら怒るべきだよね?」


「怒るのと叱るのは別物だと思います……感情をぶつけるのは違くないですか」


「疲れてもイライラするなってこと?」


「そうは言いませんが……できるだけ、態度に出さないようにはして欲しいです。あとは、机や扉などのモノに当たるのも、教育的によくないかと……」


「そうだね、あなたはすごいね。疲れててもヘラヘラできるもんね。でも私は無理」


「お母さんがストレス発散できる時間が持てるよう、俺も頑張りますので」


「そこまで気を遣っていただいてありがとうございました。だから、もういいよ」


「え?」


「ありがとう。ほら、感謝を伝えたでしょ。これで満足? 温かい家庭じゃん」


「……なんというかその、感情が……」


「はぁ。…………面倒だから、もう何もしなくていいよ。家のことは私が全部やるから。外でご飯食べて、家に帰ってこなくてもいい。気を遣われてもうざいだけだし」


「……それはお母さんの負担が大きすぎますよね。パンクしますよね。もう少し楽に考えらませんか。お母さんにも○○にも笑顔で幸せに過ごして欲しいんですが」


「私は幸せに見えない? どうして?」


「……俺は、子供とずっと一緒にいられる環境ってのは、すごい幸せだと思います。大変なことも多いってのは分かりますけど。でも、自分からしたら羨ましい生活をしてるのに、いつも不満ばかりで……もう少し、幸せを感じてもらえればな、とは」


「無理だね」


「どうすれば笑って暮らしてくれますか」


「無理だよ。だって、幸せじゃないから」


 ……その日は、絶叫しながら床を殴った。


 それから数週間、何度も何度も同じようなやり取りを繰り返したが、ダメだった。


 結論的には『これまでどおり』。


 お母さんだって、お父さんのことが嫌いなわけではないし、まして娘のことが憎いはずはない──ただ、思い通りにいかない子供を相手にする以上、一般的な『幸せ』という状態ではなく、イライラしないのは無理、ということだった。


 お父さんの望む『温かい家庭』。

 それが手に入らないことだけは、お父さんの疲れた頭でも理解できた。


 どうすればいいのかは分からなかった。


 いや、理屈では分かっている。

 問題を解決できるものがあるとすれば、『時間』しかない。

 娘が、ある程度の思慮分別のつくようになるまで。あと五年か十年もすれば、希望は見えてくる……、そのはずである。


 ……ただ、長い。

 娘と過ごす時間は幸せだが、心と体が持ちそうにない。心と体、どちらのやまいが先に致命傷になるか分からないが、絶対にくる。


 何年も耐えなきゃいけないのなら。


 楽に死ねないかなぁ。

 消えるように、死なないかなぁ。


 通勤退勤で、自転車のペタルをこぐ時間。

「車に轢かれないかなぁ、どうかなぁ」といつも考えている自分がいた。

 だが、交通ルールを守る限り、そうそう危険なことはないらしい。


 どうすれば死ねる?


 徹夜で家中の掃除をしてから仕事へ行ったこともあった。

「無意味だよな」そう、人生と同じように無意味だ。ただ仕事の効率が落ちただけ。

 上司に帰るように言われ、図書館で寝て起きたら、まだ生きていた。


 ベッドで寝転がる度、脳みそがゆっくりと捩じられて、体の芯までゆっくりと曲げられていくような感覚に襲われる。喉が渇き、嘔吐するほどに気持ちが悪い。


 悲しくて何度も床や壁に打ち付けた右の拳は、恐らく骨折していた。 

 少なくとも神経まではイっている。


 痛みをこたえてタイピングをする度、「まだ『いる』んだな」と実感する。

 胸の鼓動はとまらない。不整脈の可能性はあっても、心臓は確かに動いている。


「……ワナビくん、大丈夫か?」


「大丈夫ではないですが生きてはいますよ」


「…………。体調が悪いときは、いつでも帰っていいからな」


 上司に声をかけられたしばらく後。


 メキメキッ……。


 お母さんとのやり取りを思い出すと、悲しくなった。そして悲しみの次には、ふつふつと煮えたぎるような怒りがやってきた。


 お父さんはマウスを破壊していた。もちろん右手(指)の方も破壊。しばらくは左手オンリーでタイピングをするハメになった。


 感情の制御がヘタクソになり──

 お父さんは、次第に危険人物として認知されるようになった。



 ──というわけで。冒頭の件に話は戻る。


 この有様で『お父さんを親会社へ逆出向』などありえるはずもない。


 もし、今のお父さんへ話を持ってくる人間がいたのなら。

 お父さんはそいつを殴り飛ばし、笑いながら刑務所へ行くことを望むだろう。

 なんなら、何人か刺し殺そうか?

 そうすれば死刑になるかもしれない。電気椅子なら楽に死ねる? ……


 ……馬鹿なことを考えるのはよそう。


 噂では、次の人材が見つからず、まだお父さんが第一候補らしいのだが。



 さて、そのような状況だから、お父さんは創作の世界からも距離を置いていた。


 お手軽なツイッターすら、数日に一度チラ見すればいい方だった。カクヨムに至っては、何週間かに一度開けばマシなほう。


 公募の意欲はめっきり衰えていた。


 とにもかくにも時間がない。体力もない。気力もない。身も心もボロボロで、日々を過ごすのが精いっぱい。そんなあふれた言い訳(実感)ばかりが浮かんでくる。


 限界ワナビお父さん。

 どうやら、自分でつけた名前ハンドルネームらしい。


 ……今時はハンネ、なんて表現しないか。

 なんていうんだろう。分からないし、調べる気力もない。


 ぐぐぐ──突然、締め付けられるような心臓付近の痛みで我に返る。近頃は、限界に近づいていく体を特に感じていた。すっかり歳とっちまったな、たはは……。


「……限界、か」


 それでも、創作の世界なら。


 お母さんにも会社の人間にも。

 ケチをつけられることはないよなぁ。


 ネットの誰からも、世界中の誰からも、文句を言われる筋合いはない……かなぁ?


 かつてはお母さんに公募の落選報告をしていたが、今ではそれも消滅した。もはやプロ作家デビューなど微塵も期待されていないし、忘れられている。


「ということは……今なら、好き勝手できるってことか?」


 創作の世界でなら、何をしても許される。

 そこには現実もクソも関係ない。

 だって、素人アマチュアの創作なんだから。


 ヤケクソだった。文章で誰かに想いを伝える、なんて高尚な考えはまったくない。自分ためだけに雑な感じで筆を取る。……するとそこには、本物の自由があった。


 お母さんにも何者にも縛られない、自分だけの世界。


 創作の中のお父さんは──限界ワナビお父さんは、どこまでも自由だった。


「よっしゃ、書くべ」


 エッセイ(というか本稿)を書き進めるのは楽しかった。


 諸々の問題で、筆を取れない日も多い。

 何なら、まで書くのにおよそ1ヶ月。マトモに書けたのは数日だけ。


 だがまぁ、それでいい。

 そもそも、書くのもやめるのも自由なのだ。そう割り切ってしまえば気楽だった。


 さて、これを書き終えたら、次は公募の世界に戻ってみようかな?

 作品を書ききれる気はしないが、できることからやってみようか……。


 頭の中の世界でなら、生き生きと輝ける。

 無限の世界へ飛んでいけるのだ。

 そのうちでいい。

 何をどう書こうか、などと、とりとめもなく考えているだけで気晴らしになる。



 2024年11月22日。

 天気は夜になって雨模様。

 限界ワナビお父さんは、久々にカクヨムを開いている。

 なんて格好つけて書いていたら、22日中に投稿できなかったわけだが。


「俺はまだ生きているぞ。画面の向こうのあなたは、生きてますか?」



 ──生きている限り、続く。

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ワナビ自戦記 ~限界ワナビお父さんは今日もお母さんに怒られます~ 限界ワナビお父さん @mizutarosa

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