4.抜け殻

 公園のベンチは、じりじりと炙られるように暑い。夏の青い空は、けれどあの絵ほどに美しいとも思えない。

 薄暗がりの美術室、あの絵とあの子だけが光を放っているような気がした。視線を捉えて離さない、引力があったような気がした。

「お母さん! こっちこっち!」

 母の手を引いて、子供が公園にやってくる。

 なまぬるい風で公園のブランコがひとりでに揺れる。熱された砂場の砂、少しだけびた青いジャングルジム、ゾウの形をした滑り台。

 子供はそんな遊具には目もくれず、母を引っ張りながらまばらに植えられた木々の根元にしゃがみこんでいる。

 セミの声が降り注ぐ。雨のように降り注ぐその声のうち、ぼとりと落ちるものが叫んでいるものはどれだけあるのだろう。

 九月二十二日、足元にセミが落ちてきた。

 秋の彼岸ひがん、まだセミは鳴いていた。命を削って鳴き、それでも何かを遺そうとして、声を張り上げて鳴き騒ぐ。

 あのセミは、何も遺せなかった。これがお前のしたことだと突き付けるように、今にも蹴り飛ばしそうな足元に落ちてきた。

 ジジ、ジジ。

 弱々しい声で鳴いたあの声は、一体何を訴えたかったのだろう。ただ声を張り上げて生存競争に晒される地上で、命を削って鳴き続けて。

「あ!」

 木の根元にしゃがみこんでいた子供が、何かを見付けて満面の笑みを浮かべる。その小さな手の平の上に何かを乗せて、誇らしげに母に見せている。

「お母さん、あったよ! セミのぬけがら!」

 セミは、地上へい出した。蛹のままで朽ちることなく、地上に出てきて羽化をした。

 い出さなければ、がらはない。い出して羽化をしたものだけが、そこに己がいた証明としてがらを遺す。

 母と子の笑い声がする。

 スマートフォンのカメラロールを開いて、ただひたすらにさかのぼった。きっとあのデータは消していない。他の何を消しても、何を忘れても、あの写真だけは消していない。

 カメラロールの一番古い写真は、青い空。真っ青な空に白い入道雲、吹き抜ける風。ぱたりとスマートフォンの画面の上で、水滴が跳ねて砕け散る。

 指先で、カメラロールを進めていく。ある冬の山、ある秋の頭を垂れる稲穂。土の中からい出した彼女が描いた、いくつもの絵。

 ぱたりぱたりと、水滴が落ちては砕け散る。後から後から落ちては砕けるこれは、決壊したかのように零れて落ちる。

 蛹のままに朽ちては、遺らないものがある。どれだけ残酷であっても、地上へとい出なければ遺されなかったものがある。

 もう一度、過去へ。一番古い写真へ。

 青い空。夏の空。汗を拭って、汗を滴らせて、あの子が描いた。その絵を一目見ただけで、零れ落ちたことばがあった。

 空を見上げて、鼻をすすった。

「ああ」

 入道雲がそびえ立つ。セミが、鳴く。

「そうか。そう」

 柔らかで暗い土の中にいるだけでは、遺らないものがある。そこはきっと穏やかでやさしくて心地良いのかもしれないけれど、そのままではきっと腐って死んでいく。

 地上へとい出したセミだけが、蛹になって羽化をしたセミだけが、がらを遺す。たしかにそこに存在していた証として、先の分からない世界へと飛び出した証として、自分の欠片かけらを落としていく。

 これは、がらの青い空。


「……きみの絵が、何より好きだよ」

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9月22日の蝉 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

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