十一、青山
小樽の坂には、まだ少し雪が残っている。遠景、海を見下ろせる公園の中に佇み、桜井は黒い一眼レフを構えている。坂を上ったり下りたり、近づいたり離れたりと、アングルを変えながら数十枚、桜の枝の写真を撮っている。
四月上旬の今、勿論、まだ桜の花は咲いていない。黒い枝の先、僅かに蕾が生まれているだけだ。青山は、傾斜に停めた白い軽自動車のドアに凭れて、その帰りを待っている。
しばらくして満足したのか、桜井はこちらへと戻ってきた。左耳で蝶のピアスが揺れる。その反対側、右耳には桜を象った銀色のピアスが輝いていた。桜のピアスの中央、雌蕊にはブルーサファイアの宝石が嵌り、先端には桜のちりめんの御守りが下がっている。
「待たせたね」
「もういいんですか」
「ああ。良い感じの蕾が撮れた。公園に雪が残る今、桜が咲く前に来たかったんだ」
「よかった。じゃあ、これで書けますね」
青山は心底納得している桜井を見届け、鍵を回して車に乗り込む。運転席と助手席の間の灰皿には煙草の吸殻が詰まっている。そろそろ掃除をしなければならない。
エンジンを掛けると冷気がエアコンから吐き出された。桜井も助手席へと乗り込む。シートベルトをしたのを確認してから、ギアを切り替え、アクセルを踏んだ。小樽の坂をゆっくりと下り、少し雪の残る町中へと降りていく。
「咲いたらもう一度来ますよね。すぐに連絡ください。ずっと海の上にいるから、季節感わかんなくなるんです」
雪の隙間、枯れた草の根元から新芽が覗き始めている。あと一ヶ月後、ゴールデンウィーク頃には咲くだろうか。車通りの多い小樽運河横の道を通る。観光客が運河に背を向けて、嬉しそうに写真を撮っているのが見えた。運河を過ぎて、マイカル小樽改め、ウイングベイ小樽の近くを通る。花曇りの空の元、漁船が並ぶ沿岸を走っていく。
「相変わらず忙しいんだね。漁はともかく、海洋葬チャーターの方はどうなの」
船の側を通ったからだろうか、桜井が尋ねた。青山は前を見据えたまま、自慢げに答える。
「おかげさまで盛況です。志春さんの小説の影響もでかいんですよ。モデルになった漁師さんにお願いしたいって、わざわざ祝津まで来る人もいるんですから。お陰様で、すっかり骨を潰すのも撒くのも上手くなりました」
「散骨、ちゃんと本腰入れてやったら、漁業の傍らで商売として成り立つものなんだな。思えば、俺のときは無謀だった」
「……今更、それを言うんですか?」
今、振り返れば、あのときは全部が無謀過ぎだ。岩礁の先、滅多に人が寄り付かない入り江だとはいえ、あんな観光地に遺骨など撒くものではない。撒ききれなかった骨が詰まった重い骨壷を血の滲む手でひいひいと抱え、日没に怯えながら、あの岩場と険しい崖を逆走したのは、本当にしんどかった。入り江から鰊の入ったモッコを背負って隧道まで登った、かつての漁師を心底尊敬する。
「でも、あの時の俺は、ああしたかったんだ。だからこそ、骨を残してもいいと言ってくれた君には、本当に感謝している」
骨を持ち帰った後、桜井は、あの時青山が思い付きで言ったことを全部やった。祝津に戻って船に乗り、日本海に骨の大半を撒いてから、残りを手稲山の麓の墓に納めた。さらに妹の骨の一部を業者に頼んで、ブルーサファイアにしてしまった。その宝石は遺骨の中から取り出した御守りと合わせられ、桜井の右耳で輝くピアスとなっている。
青山は、欠けた骨の一粒まで行く先を見届けた後、漁が待つ生活に戻った。父親と共に網を引くその傍らで、桜井家に行った散骨と同じことを他の人にも始めたのだ。海洋葬がようやく副業として確立し始めたちょうどその時期、桜井の三作目の小説が刊行された。それは、青山をモデルにした物語だった。
「おれも感謝しています。志春さんを船に乗せなかったら、海洋葬なんてやってませんから。人の死を食いものにする罪悪感みたいなものは、たまに感じますけど」
海の上、遺族の悲しみに触れて、きらきら海底に沈んでいく骨を見るたびに、底知れぬ不理解を感じる。他人の悲しみはわからない。でも、わからないままでいいとも思っている。青山は、喪失の側にそっと寄り添っていたいだけだ。
「その罪悪感って、なんか俺みたいだな」
「ええ。似てきたの、やだな」
「なんだよ。本当は嬉しいんだろう」
茶化すように言う桜井に、青山は緩い微笑みを返す。雪の残る海岸線、花曇りを映す海はどこか深く、重い。その青い沿岸線に、広く泡立つ白濁が浮かぶのが見えた。
「あっ、群来だ」
桜井が嬉しそうに呟く。うげ、と青山は眉を顰めた。
「また、すげえ忙しくなるじゃん」
「前はあんなに喜んでたのに。嬉しい悲鳴じゃないのか」
「そうですよ。おれらが何年も稚魚の放流を地道にやって、めちゃくちゃ頑張って呼んだ群来です。でも、ほんっと忙しいんだよ。あいつらどんだけ捕れるんだ。そりゃあ昔は村は総出になるし、全国から出稼ぎを呼ぶために鰊御殿を建てるのもわかりますよ。それなのに、今は磯焼けのことも考えなきゃならないし……。猫の手も借りたいくらいです」
「小説家の手は?」
「いらないです。どうせ、あんたは書くことしかできないので」
「ああ。そうだな」
書くことしかできない。それに頷く桜井の声は、どこか誇らしげだ。群来る海に沿って、アクセルを踏んでいく。花曇りの空からちらりと雪が舞った。その白はフロントガラスに触れて、じわりと透明に溶けていく。
「雪だ。これじゃあ、また桜が遠のきます」
「また冬に逆戻りか」
もうこの時期では積もらない雪が、降り落ちては溶けていく。その雪の姿はまるで風に舞って飛ぶ、桜の花びらのようだった。
「でも、なんだかこの雪、桜みたいですね」
「確かにそうだな。桜の花が舞うことを桜吹雪とも言うしな」
桜井の喩えに、青山は頷く。雪を見て、桜井と同じものを考えていることに淡い喜びを覚える。
「その喩え、ずっと不思議だったんです。おれ、志春さんに連れられて本州の桜見て、本当に吹雪みたいだなってびっくりしたけど、桜を吹雪に喩えられるってことは、そう最初に名付けた人は、雪の吹雪のこともちゃんと知っている人なんだなって」
「そうかもしれない。そういや俺も、上京した時、桜を見て雪を思い出したよ」
「なら、その逆もありますよね。雪を見て、おれは今、桜を思います」
青山は来たる春を願う。純粋な期待が芽生えていた。
今日見た蕾が芽吹くところを見たい。それは、確かな未来への期待だった。
「ねえ。来月、小樽の桜は勿論見るけれど、それが終わったらまたどっか行こう。今日はこれからいつも通り、芸術の森まで美術展観にいくけどさ。久々に、遠いとこまで行ってもいいかなって。青山君、どこか行きたいとこないの?」
「ええ、うーん……。開拓の村の年パス、来月で切れますよね。博物館で今度やる企画展、すげえ気になってるんですけど」
「それはまた来月の桜のついでで行くことになるでしょ。もっと、遠くとかさ」
「でも、もう稚内も函館も知床も根室も行きましたよね。大抵は行き尽くしてません?」
「じゃあ、道外か」
「また軽井沢ですか?」
「いや、箱根に行きたい。この前サン=テグジュペリの『人間の土地』を読んだじゃないか。星の王子さまミュージアムが箱根にあるんだ」
「箱根、良いですね。温泉もあるし。でも、せっかくサン=テグジュペリを観るなら、故郷のサン=モーリス・ド・レマンスがあるフランスまで行きたいですよ。フランスまで行くなら、アルルに寄りたい。ゴッホの絵が観たいです」
「アルルの前にルーブル美術館に行こう。行ったことないだろう。初めてなら『モナリザ』は観たいだろう?」
「はい。観たいです」
青山は深く頷く。語る夢は現実に変わり、いつか今になるだろうという予感があった。桜井が語るなら行けるのだ。青山は桜井の語る夢を信じている。そして、きっと桜井も。
「君となら、どこまでも行ける気がする」
桜井は、青山を消さなかった。埋まる骨を消さないまま、ずっと隣で書き続けている。桜は芽吹き、また次の物語を生むだろう。新たな話が、愛が、生れ出づる。
「おれもです。あんたが死ぬまで側にいます」
そう青山が返すと、僅かな沈黙の後に、問いが飛んだ。
「……もし、先に俺が死んだら?」
青山は笑いながら答えた。
「あんたの骨を海に撒いて、書いた全てを守ってく。先におれが死んだら、あんたはおれのことを書けよ。また書いて、愛してよ」
いつの間にか雪は止んでいた。群来る海の上、花曇りの空を割って一筋の光が落ちる。あたたかな光が、二人を照らした。
「書きつづけて、生きろ」
青山が祈るから、桜井は応える。
冬の後には春が来る。春が来るのだ。
欠けつづけて、光れ 青村カロイ @terminaLive
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