林檎

中尾よる

林檎

 硝子ガラスの、砕け散る音がした。手を見ると、さっきまで持っていたはずのグラスが消えている。今日磨いたばかりの革靴に、琥珀色の水滴が撥ねて、床に滑り落ちた。

「お客さま、大丈夫ですか?」

 店員が布巾を持って現れ、足元に屈んで散らばった硝子の破片を拾い集める。

「今、代わりのグラスをお持ちしますね」

 手早く破片を片付け、カウンターな戻る彼の背中に軽く頭を下げた後、俺は自分の掌を見つめた。

 ————あの日と、同じだ。わけもなくグラスを落として、こぼれたカルヴァドスが彼女のスカートに撥ねた。あの日もこんな風に、醸成された林檎の香りが空中に投げ出され、困惑して彷徨っていた。


「あ」

 自分が落としたグラスの音に気がつき、俺は間抜けな声を出す。ごめん、と呟き、屈んでグラスの破片を拾い集めると、彼女もしゃがみ込み、小さなグラスの破片を人差し指で突いた。破片の一つを持ち上げ、目の高さまで掲げて、バーの薄ぼんやりとしたライトに透かせて見る。そんな彼女を目の端に捉えながら、残りの破片を掌に集めた。店員に雑巾でも持ってきてもらおうかと、立ち上がると、しゃがんだままの彼女が小さく口を開く。

「いつも、カルヴァドスばかりね」

「え?」

「でもね、私、あの香り苦手なの。濃くて、甘くて、何だかとても、苦手」

 俺はなぜ、今彼女がそんなことを言い出したのかわからないまま、次の言葉を待った。彼女は硝子の破片を掲げていた手を下ろし、立ち上がって俺の掌の上に破片を置く。

「ごめんね」

 そう言って、彼女は、乳白色のスカートを持ち上げ、あーあ、濡れちゃった、と子供のように笑う。俺は、彼女の言わんとすることを理解できないまま、ぎこちなく笑い返した。


 カルヴァドスが、俺たちの関係に、どれほどの意味を持っていたのか、俺にはわからない。けれどあれから半年、もう彼女には会っていない。

 “いつも、カルヴァドスばかりね”

 結局今も、俺は林檎の香りに包まれている。

「お待たせいたしました」

 店員が、新しくカルヴァドスを注いだグラスを渡した。

「どうも」

 アルコールの入ったグラスを、天井のライトに透かしてみる。そのまま一気に、中の液体を喉に流し込んだ。胃壁が、焼けるように熱くなる。

 あの時の彼女の言葉の意味は何だったのか。答えは今もわからない。わかるのは、今ここに彼女がいないこと、これから先も、自分の隣に彼女が立つことがないということだ。

 周りに漂う甘い香りが、鼻をついた。

 今夜も、カルヴァドスに包まれて、夜が更けていく。彼女のいない、長い夜が、幕を開けた。

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林檎 中尾よる @katorange

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