8(絆創膏)
昼休みの図書室にはそれなりに人がいて、みんな本を読んだり、友達といっしょに勉強したり、いろいろだった。そこには図書室的な平和と静かさがある。少なくとも、大勢で騒いだり迷惑行為におよんだりする不埒な輩はいない。
わたしは閲覧席と本棚のあいだを抜けて、奥のほうに向かった。同じ部屋でたいした違いはないはずなのに、歩くたびにプールの底にでも沈んでいくみたいな、ちょっと不思議な感じがしている。
図書室の奥には本棚に囲まれたテーブルが一つあって――
そこでは今日も、清島さんが一人で本を読んでいた。
とても静かに、とてもひっそりと。まるで、深い森の奥にでもいるみたいに。
すぐ隣まで歩いていくと、わたしは思いきって言った。
「――この前は、余計なことを訊いたりしてごめん」
清島さんは顔をあげて、わたしのことを見る。その瞳はやっぱり、ほんの少しだけ灰色がかっているように見えた。
「何のことかしら?」
思いあたることがないらしく、清島さんは小首を傾げる。
「長袖のこととか、傷のこととか――勝手な詮索しちゃったみたいだったから」
わたしがそう言うと、清島さんは「――ああ」という顔をした。ようやく思い出した、というふうに。
「別にかまわないわ。話して困るようなことじゃないし、気にすることでもないから」
「――うん」
わたしはやっぱり、うなずくしかない。
しばらく、間があった。太陽の角度がほんの少しだけ変わったのがわかるくらいの、そんな間だった。
「…………」
清島さんは完全に本を閉じると、わたしに向かって隣の席をすすめる。
「どうぞ、座って――」
お礼を言って、わたしはそのとおりにした。イスを引いて、そこに座る。音は立てずに。
「……実は、言っておきたいことがあって」
と、わたしは自分でもちょっと困ったみたいな、半端な言いかたをした。
「何をかしら?」
丁寧にうながす清島さんに、わたしは言った。
「感謝すべきなんじゃないか、って思ったから」
「――?」
当然だけど、清島さんは不思議そうな顔をした。だから、わたしは言った。
「清島さんが自分を傷つけてるのは、誰かの代わりに傷ついてるせいのような気がして」
「――――」
ほんの少しだけ、清島さんは呼吸の仕方を変えた。そして、飛んでいった蝶の行方でも追うみたいな、そんな口調で言う。
「――。私はそんなに、お人好しってわけじゃないわ」
「うん――」
わたしはうなずいて、でも言葉を続けた。
「それは、わかってる。清島さんは別に、誰かのためにそうしたり、犠牲になったりしてるわけじゃない。それが必要だから、そうするほかにないから、ただそうしてるだけ――」
わたしは自分でもちょっと混乱しながら、それでもすべてを言ってしまうことにする。
「けど清島さんの傷は、誰かの傷でもあるんだと思う。誰かの苦しみや、悩みや、悲しみと同じものなんだって。だからその傷は、世界そのものが傷ついたのと同じなんじゃないかって、そう思うんだ。この世界が傷ついてるから、清島さんも傷ついてる――そんなふうに」
みんなしゃべり終えてしまうと、清島さんは黙っていた。その様子は呆れているようでも、唖然としているようでも、首を傾げているようでもある。
わたしはやっぱり、余計なことを口にしたのかもしれない。馬鹿らしくて、図々しくて、ただ勘違いしているだけで――
そんなふうにわたしが顔を赤くしていると、清島さんは言った。
「――心配してくれて、ありがとう」
「え……?」
清島さんはいつも通りの、歪みのない鏡みたいな落ち着いた表情をしている。
「私のこと心配してくれて、ありがとう。普通の人は、あまりそういうことは言わない。私のしてることを知ると、眉をひそめたり、忠告したり、ただやめさせようとしたり――そのことにどんな意味があるかなんて、考えようとしない。私がそうやって、バランスをとっているんだってことを。だから、吉村さんみたいに気づかってくれる人は、とても貴重ね」
わたしはどう答えていいかわからないまま、やっぱり顔を赤くしていた。どう考えても、さしでがましい口をきいたのは事実だ。それは、わたしなんかが口にしていい言葉じゃない。
「変なお節介みたいなことして、ごめん。本当は何も知らないのに、わかったみたいなことを言っちゃって――」
そう、わたしが謝ろうとすると、清島さんは小さく首を振った。
「いいえ、あなたは私によいことをしてくれたわ」
清島さんはそして、わたしのことを見つめた。その顔はほんの少し――微笑っていたかもしれない。
「この世界で、それはとてもよいことだった。とても稀少で、貴重なこと。世界に価値と意味を与えてくれること。この世界を、少しでも生きやすくしてくれること」
だから、と清島さんは言う。
「――だから、ありがとう」
わたしはちょっとだけ息をすって――
それから、泣いているみたいな、笑っているみたいな、全然格好のつかない表情を浮かべる。それ以外に、どうしようもなかったから。
清島さんはそんなわたしを見て、ささやかな笑顔を浮かべる。きっとそれは傷に貼る小さな絆創膏くらいにも役には立たなかっただろうけど、笑顔であることに間違いはない。
「私のことなら、心配しなくても大丈夫よ」
と、清島さんは言った。
「――私の心は、ちゃんとした箱の中にしまってあるから」
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