3(ストーカー?)
「こわっ、ストーカーかよ」
と、まひろは隣で、牛乳をちゅうちゅうやりながら言った。
――デジャヴュ、だろうか?
お昼休みの昼食時間、わたしたちは中庭のベンチに座ってごはんを食べていた。陽なたぼっこをするのは日に日に厳しくなっているとはいえ、気持ちのよい青空の下で食事をする誘惑には抗いがたい。
中庭にはほかにも、ちらほら生徒たちの姿がある。サン・ピエトロ大聖堂ほどじゃないにせよ、人気の場所なのだ。園芸部が精魂込めて手入れした花壇だって眺めることができる。
わたしとまひろはそんな中庭にある、ベンチの一つに座っていた。見あげた空は飛び込みたくなるくらいの青さで、あくまで健康的でエネルギッシュな太陽の光があたりを照らしている。たぶん、あと五十億年くらいは大丈夫そうだった。
まひろは片足であぐらをかいて、牛乳を飲み、カレーパンにがつがつとかぶりついている。バスケ部でのまひろのポジションは
でもその凛々しい王子さまは今、けっこうだらしない格好で食事をしている。ファンの女の子が見たらがっかりするかもしれない。
「……誰が人気者だって?」
まひろはいつかと同じような、疑り深そうな目でわたしのことを見る。なかなか都合のいい勘の鋭さではあったけれど。
「まあ、それはいいんだけど――」
と、わたしは話を元に戻すことにする。
「わたしって、ストーカーなのかな?」
もちろんそれは、清島さんのことについてだ。昨日、図書室でその名前がわかったことを、わたしはまひろに話していた。
「自覚ないわけ?」
とまひろは呆れたような表情をする。みんなのボディランゲージが急に変わったのでないかぎりは、そのはずだ。
「少なくとも、乙女ってレベルの話じゃないね」
「でも、わざとってわけじゃないし。見たのはたまたま、不可抗力ってやつだよ」
弱々しいながら、わたしは一応の反論を試みる。そんなわたしに、まひろは容赦しなかった。
「ストーカーはみんなそう言うんだよ」
どうやら、わたしがストーカーであることは決定事項みたいだった。
「ちゃんと法律だってあるんだから。ただの乙女心でした、なんて言い訳にもならないよ」
「そうかな――」
わたしは意味もなくごはんをつつきながら、渋い顔をする。お母さんが真心を込めて作ってくれたお弁当には悪いと思ったけれど。
「裁判になったら、一年以下の懲役か、百万円以下の罰金らしいよ」
実に不穏な話だった。そんなふうに具体的に言われると、意味もなく不安になってしまう。
「……というか、友達なら協力してくれてもいいんじゃないかな?」
「友達だから、忠告してるんでしょ」
言われて、わたしは渋い顔のまま玉子焼きを口に入れる。どんな顔をしてみたところで、お母さんの作ってくれたおいしい玉子焼きの味は変わらない。
目の前にある花壇には、きれいな青空によく似た色の花が咲いている。細長い葉っぱの塊になったところから茎がのびて、その先に花火みたいにしていくつも花が咲いていた。根元の札には、アガパンサスと名前が書かれている。何となく、彼岸花っぽい感じの花ではあった。
太陽をいっぱいに浴びた花たちは、どれも満足そうに見える。
「――何で、その子のことがそんなに気になるわけ?」
と、不意にまひろは言った。
もちろんそれは、清島さんのことについてだ。わたしは少し、考えるふりをする。その答えは、訊かれる前からとっくに出ていたのだけど。
わたしは流れ星でも見つけたときみたいに、そっとつぶやくように言う。
「長袖を着てるから、かな」
「――あ?」
怪訝そうな顔のまひろに、でもわたしはそれ以上何も言わなかった。
そのことを説明するには中世の年代記ほどじゃないにせよ、それなりに古くて長い話が必要になるのだ。
※
昔々、わたしはいじめられていたことがある。
小学校時代、よくある感じのやつだった。靴を隠されたり、持ち物を盗られたり壊されたり、机の上に嫌な言葉を書かれたり。何かあるとわたしだけがのけ者にされて、ひそひそと陰口を囁かれたりもした。
それは子供らしい率直さと残酷さだったけど、当時のわたしにはその現実に対応できるほどの知識も、経験も、能力なんてものも、ありはしなかった。
みんなにとって、わたしはただの目新しいおもちゃで、それ以上でも以下でもなかった。自分たちはこんなにも楽しいんだから、それが〝わるいこと〟だなんていうふうには考えない。
でももちろん、わたしにとってはそんな単純な話じゃなかった。よいとかわるいとかの問題じゃなく。
わたしは自分の存在が憂鬱だった。消えてなくなってしまえれば楽なのに、と何度も思った。明日、学校といっしょに世界がなくなってしまえばいいのに、と自分の部屋で何度も考えた。
そしてある日、わたしはとうとう学校に行かなかった。
いつも通りに家を出たあと、わたしは学校とは反対方向にむかった。そこにはあまり人の来ない公園があって、わたしはその公園のブランコに一人で腰かけていた。
公園はやっぱり無人で、何だか世界のはしっこから落っこちてしまったみたいだった。誰もいなくて、何の音もしない。時間まで、どこかに行ってしまっている。手をのばしても、そこにはすかすかの空白しかない。
わたしは恐ろしくみじめで、恐ろしく寂しかった。わたしがいられるのは、こんな場所でしかない。割れてばらばらになったガラスみたいに、自分の存在そのものがどうにかなってしまいそうな感じだった。
そんな場所にいて、わたしはブランコを揺らすような気分にさえなれずにいるのだった。
――隣にあるブランコに誰かが座る気配がしたのは、その時だった。
わたしはけれど、顔を上げてそっちのほうを見ようともしなかった。正直、どうでもよかった。何もかもが、どうでもいい。世界が壊れたって、すぐ横で誰かが死んでしまったって、何もかもどうでもいい。
「――どうかしたの?」
雨粒が一つ、落ちるくらいの時間がたってから、その人は訊いた。
視界の隅で見るかぎり、その人は制服を着ていて、中学生くらいだった。細くて柔らかそうな、長い髪。絵筆を使って、優しく描いたみたいな顔の輪郭。洞窟の奥にある鉱石に似た、きれいな瞳をしていた。
その人は手をのばせば届くくらいの、でものばさなければ届かない距離で、わたしの隣に座っていた。
わたしはその時、何故だかすべてをしゃべってしまっていた。本当に、何もかもどうでもよかったのかもしれない。あるいは、世界からも見捨てられてしまったみたいな公園で、その人とブランコ一つぶんの距離を隔てていたせいかもしれない。
実際のところは、よくわからない。
でもとにかく、わたしは自分のことをしゃべってしまって、それはもうとりかえしのつかないことだった。自分のみじめさも、恥ずかしさも、情けなさも、みんなもう表に出してしまったのだから。
何もかもしゃべってしまったあと、わたしは言った。
「わたしは、どうしたらいいの?」
その人はちょっとだけ黙っていた。紙に塗った絵の具が乾くのを待つみたいな、そんな間だった。やがて、その人は言った。
「心の正しい置き場所を探すの」
それはとても静かな、でもとてもはっきりした声だった。何ていうか、白くてくっきりした、月の光みたいに。
「自分が自分でいられる場所、自分の形が一番よくわかる場所。自分が何を考えていて、何を感じていて、何がしたいのか、それがよくわかる場所――そういう場所を探すの。それは見つけにくいかもしれないし、見つかっても難しい場所にあるかもしれない。でもそれは確かにあるし、どんな人にでもそれは必要なものなの」
「でも、わたしは――」
わたしは何か言おうとした。そんな場所なんて見つけられそうにないし、どこかにあるとも思えない。
けどその人は、本のページをめくるみたいに小さく首を振ってみせた。
「とにかく、今のあなたに必要なのは、学校に行くことじゃない。あなたに必要なのは、ちょっと休むこと。ちょっと休んで、心がまた自然に話しだすのを待つことなの」
わたしはその人のことを、じっと見つめた。その人がどれくらい真剣なのか、どれくらい信頼できるのか、そんなことを確かめるために。
でも――
その人はただ、にっこり笑っただけだった。春の太陽が、冬をすっかり追いはらってしまうみたいに。
――それから起きたことは、まるで魔法みたいだった。
わたしは一週間もたたないうちに学校に戻って、そしてそこはすっかり元通りに変わっていた。まるで、時計を巻き戻したみたいに。わたしがいじめられる以前の状態に。
その人が、何もかもしてくれたのだ。わたしがいじめられていることを報告して、先生やスクールカウンセラーの人と相談したり、クラスのみんなやわたしのことをどうするか決定したり、そんな何もかもをすべて。
結果として、いじめはすっかり消えてしまうことになった。壁のラクガキをきれいに消してしまうみたいに、痕跡さえ残らない。
まるで神様がひょいと、深い穴の底からつまみあげてくれたみたいだった。
――本当に。
時々、わたしは思うのだ。もしもあの時、ブランコの隣にその人がいなかったら。もしもその人が、わたしの話をきちんと聞いてくれなかったら。例えそこまではよかったとしても、学校でのことがうまくいかなかったとしたら。
もしもそうだったとしたら、きっとわたしの世界は今よりずっと暗くて、厄介で、複雑なものになっていたに違いない。
きっとその世界では、心の正しい置き場所なんて見つけられずにいたに違いない――
だからわたしは今でも時々、その人のことを思い出すのだ。深くて、暗くて、底なしの穴から、神様みたいにわたしを救ってくれた、その人のことを。
そうするといつでも心が軽くなって、生きているのが少しだけ簡単になるのだった。
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