6(雨とバス停と神社)
梅雨に入る前の試運転みたいな、雨の日だった。
わたしは普段、自転車通学をしているのだけど、さすがにこの雨の中で自転車をこぐ気にはなれない。そこまで根性のある性格はしていない。
それで、学校が終わった放課後の帰り。
雨は憂鬱な独り言みたいに、一日中降り続いていた。ごくごく単調な、誰に聞いてもらえるあてもない繰り言。もちろん、空にだって嫌な気分の時くらいあるのだろう。
わたしは傘をさしながら、もよりのバス停まで向かっていた。赤色の傘に、雨は飽きもせずぶつかってくる。歩くたびに、靴が小さく水を弾いた。
そうやってバス停までやって来ると、先客が一人いる。
青色の傘に隠れて顔は見えないけれど、同じ高校の制服を着ていた。ほかに人はいない。我慢強く雨に耐えているベンチの前を、何台も車が通りすぎていく。
わたしは携帯で一度時間を確認してから、あとは黙って雨の下に立っていた。車のタイヤがあげる水しぶきが、くぐもった音を響かせては消えていく。
しばらくそうしていたところで、わたしはふと隣の人影に見覚えがあるような気がする。念のためにそっと様子をうかがっていると、一瞬傘の下にある顔をのぞくことができた。
「――清島さん?」
気づいたときには、声をかけてしまっている。何となく、意外な相手だった。
清島さんはわたしのことに気づくと、「――ああ」と礼儀正しく笑みを浮かべる。雨の日でも、その様子に変わりはない。世界を終わらせる隕石が空から落ちてくるのを眺めているときでも、その様子に変わりはないような気がした。
「清島さんも、帰るところ?」
ごく自然な流れとして、わたしは訊いてみる。幽霊部員を公言する清島さんなら、たぶんそうだろう。ちなみに、文芸部は休みの日だった。
「――ええ、そうよ」
清島さんの返答は短かった。
「学校には、いつもバスで通ってるの?」
「基本的には」
「この路線てことは、帰りは同じ方向ってことになるね」
「そういうことになるわね」
――会話は続かなかった。
でもまあ、それは想定の範囲内だった。わたしとしても、清島さんが急に饒舌になって、嬉々としてドストエフスキーについて語りだす、なんてことは期待していない。というか、それはそれで別のことをいろいろ心配しなくちゃいけなくなってしまう。
幸いなことに、わたしたちの会話の続きは雨がやってくれた。特に居心地が悪いわけでも、危機的状況というわけでもなく、わたしたちは並んで立っている。雨の日にも、少なくともよいところが一つはあるわけだった。
そうしてしばらくすると、バスがやって来る。
念のために携帯で確認してみると、バスが到着したのはほぼ定刻通りだった。
雨の日ではあったけど、バスの中は案外空いていた。席は半分も埋まっていないだろう。車内には雨の気配と薄明かりが、靄みたいに漂っている。
わたしと清島さんは整理券をとって、ステップをのぼる。傘からぽたぽたと雨の一部を落としながら、誰もいない一番後ろの席に向かった。
「ちょっと話がしたいから、いっしょの席に座ってもいいかな?」
と、清島さんには事前に許可をとっている。何事も相手の承諾を得るのは大切なことだ。この世界は礼儀と約束で成りたっている。
わたしたちは長々とした後ろの席の、真ん中あたりに座った。手をのばせば届くくらいの、でものばさなければ届かないくらいの距離で。
小さなクラクションといっしょにバスが走りだすと、後ろの風景が遠ざかっていった。後続車が、お姫さまに仕える従者みたいな格好で走っている。雨だけが、ずっと同じ場所から動かなかった。
前のほうを見ると、運転席のところまで車内全部をずっと見渡すことができる。そうやって広々した後ろの席に座っていると、ちょっと贅沢な感じがした。
「――一つ、聞いてもいいかな?」
慣性の法則にしたがってバスが安定したところで、わたしは訊いた。
「何をかしら?」
「どうしていつも、長袖を着てるの?」
その言葉を口にするのに、わたしは躊躇も、気負いも、淀みもしなかった。ごく当たり前のことみたいに――昨日の晩ごはんについて質問するみたいに、そのことを訊く。
清島さんはちょっとだけ黙っていた。ものさしを使って、正確な距離を測ろうとするみたいに。それから、言う。
「どうして、そんなことを訊くのかしら?」
「――うん」
当然な質問に、わたしはうなずく。そして心を正しい場所に置くために少しだけ目をつむってから、言った。
「清島さんがいつも長袖なのは、もしかしたらリストカットの痕を隠すためなんじゃないかな、と思ったんだ」
――そう、わたしはずっと、そのことを考えていたのだ。図書室で彼女の存在に気づいたときから、ずっと。
「…………」
わたしがそう告げると、清島さんは口を閉ざした。それはいろいろなものが含まれている沈黙だった。警戒、疑問、推測、逡巡――それから、少しくらいなら興味もあったかもしれない。
ほんのしばらくのあいだ、沈黙が続いた。でももちろん、それは仕方のない話だ。誰も彼もが心の中に閉じ込めている言葉を理由もなく口にしはじめたら、世界なんてすぐにパンクしてしまうだろう。
だから、わたしは言った。空から降ってくる雨の音と、同じくらいの声で。
「わたし、子供の頃にいじめられてたことがあるんだ――」
実のところそれは、わたしがほとんど人にはしゃべったことのない話だった。どれだけ仲のよい友達でも、どれだけ信頼できそうな相手でも、口にしたことのない話。まひろにだって、この話はしたことがない。
でも、わたしはそれを今、清島さんに向かって話していた
クラスメートからの仲間はずれや攻撃、味方のいない一人ぼっちの状況、不登校。それから、公園のブランコに座って、わたしを助けて救ってくれた人のこと――
そんなことをぽつぽつと、わたしはバスの中で雨の音といっしょに話してしまう。
わたしが話を終わると、もう一度沈黙がやって来た。それはやっぱりいろいろなものが含まれる沈黙だったけど、前とは少し違っている。
やがて、清島さんは言った。
「何で、そんな話を私にするわけ?」
訊かれて、わたしはちょっとだけ笑顔を浮かべる。箱の中にしまっておいた、大切で懐かしいおもちゃを見つけたときみたいに。
それから、わたしは答えた。
「――わたしを助けてくれたその人も、いつも長袖を着ていたから」
後ろの席でわたしたちがそんなやりとりをしているあいだにも、バスは雨の中を走り続けていた。窓から見える風景も、すぐあとについてくる車も、最初の時とは違っている。
車内のアナウンスが次の停留所を告げたとき、不意に清島さんが立ちあがった。
「次のバス停で降りられるかな?」
その「かな?」が、わたしを誘ってその許可を求めているのだと理解するのには、少しだけ余計に時間がかかる。
「えと、うん、大丈夫だけど」
家はもう、すぐ近くなので(実際、バス停一つ分しか離れていない)特に問題はない。運賃も変わらなかった。
でも、清島さんは?
「私は定期だから」
――なるほど、それはそうか。
雨は少し、小降りになってきかたかもしれない。傘の先に手をのばすと、ようやく降っているのがわかるくらいだった。空も、泣き言を口にするのに疲れてきたのだろうか。
わたしと清島さんは、住宅地を歩いていた。通りを走る車の音はすぐ聞こえなくなって、特徴のない迷路じみた道を進んでいく。日が落ちるまでは、まだだいぶ時間があるだろう。
先に立って歩く清島さんがどこに向かっているのかがわかったのは、しばらくしてからのことだった。何しろ、ヒントもほのめかしもなかったから。
――例の神社に向かってるんだ。
いつか図書室で資料を探した、あの神社だった。箱の神様を祀った神社。江戸時代に、本社から摂社に格下げされてしまった、例の。
そのことを質問する前に、わたしたちはもうその場所についている。
階段の前の赤い鳥居と、その横にある神社の名前を彫り込んだ石柱。木や薮が雨に濡れて、いっそう濃い緑色で群がっている。
「…………」
清島さんはそんな様子をちらっと一瞥してから、やっぱり無言のままで階段をのぼりはじめた。説明もないし、確認もしない。まるで、わたしがついてこなくたってかまわないみたいに。
やれやれ、と心の中でつぶやいてから(実際にこのセリフを口にする人は少ない)、わたしはそのあとを追う。何しろそれは、わたしに原因があるのだし、責任だってあるのだから。
わりとしっかりしてるけど、わりと長い階段を、わたしたちはのぼっていく。途中、松尾芭蕉だか誰だかの句碑があったけど、残念ながら達筆すぎて解読は不可能だった。
階段をのぼりきると、こぢんまりとした境内が広がっている。正面にけっこう立派な拝殿があって、すぐ右手に水屋、向こうのほうには社務所らしい建物がある。当然だけど、人影はどこにも見あたらない。平日だし、雨だって降ってる。神様はどうか知らないけど、人間にだって都合というものがあるのだ。
建物の前にある立て札には、神社の縁起について記してあった。現在の主神は「誉田別命」(いわゆる八幡さま)。神社そのものは古く、平安時代頃に創建されたそうだ。戦国時代に焼失して江戸時代に再建、云々――とある。
「例の神様がいるのって、こっちのほうでいいのかしら?」
不意に、清島さんが訊いてきた。くし何とかの神のことだ。「――あ、うん」とわたしは立て札から目を離して答える。
それからわたしたちは、拝殿の横を通って裏手に向かった。土の地面があるだけで、特に道らしいものはない。木々が鬱蒼として、なかなか陰々滅々としている。
本殿から少し離れたところに、小さな池があった。おもちゃをたくさん浮かべて遊ぶのにはちょうどよさそうな池だった。水は澄んでいて、魚はいない。よく見ると、平らな水面に雨粒がいくつも跡をつけている。
池には飛び石があって、そのすぐ先にある浮き島にはミニチュアの神社みたいな建物がたてられていた。厳かというよりは、ちょっと可愛らしい感じがしないでもない。
近くにある立て札には、池の由来について記されていた。いわく、大昔に長く続いた日照りの年にも、この池の水だけは涸れることがなかった……いたって凡庸な感じの伝承である。
どういうわけか、神社そのものについての記述はない。
「――池の中に神社があるのも、珍しいわね」
と、清島さんが感想を口にする。
「けど、それと箱の神様に何の関係があるのかしら?」
確かに、それはわたしも疑問だった。たぶん、どこかで話の一部が欠落したり、付加されたり、曲解されたりして、そうなったんだろう。よくある話だった。
わたしが中学の時に見たその神社の御神体は、何ということのないただの箱だった。すぐ手元で観察したわけじゃないけど、装飾も色彩も意匠もない、どっちかというと薄汚れた感じの。たぶんあれじゃ、お弁当箱にだってならないだろう。
昔、福沢諭吉が子供だった頃、「見てはならぬ」と言われた社の扉を開いて、中にただの石ころが入っているのを発見したそうな。で、合理的精神の持ち主だった諭吉少年は、その石ころを内緒で交換しちゃったのだけど、みんな普通にお参りするし、祟りみたいなものも発生しなかった――ということらしい。
何となく、その気持ちがよくわかる感じの箱ではあった。
そんな埒もないことをつらつらと考えていると、不意に声がしている。
「吉村さんの言ったとおりよ」
「え――」
余計なことを考えていたせいで、わたしはとっさに反応できなかった。百メートル走なら、致命的な遅れだった。
でも――
幸いなことに、これは競争なんかじゃない。
「……やっぱり、傷を隠すために?」
わたしはオリンピックならとっくに一位が決まってるくらいの時間がたってから、訊いてみた。
「ええ」
清島さんはそう言って、何かの部品でも検査するみたいに左腕に手をあてる。
見えたりはしないけれど、そこには赤い線と、傷口が治った痕の白い線がいくつもつけられているはずだった。
わたしは傘の下でそんな想像をしながら、訊いてみる。
「……痛くないかな?」
「ま、痛いわね。
鈍――
日常会話では、なかなか聞くことのない単語だった。
「でも大丈夫よ、それ専用のナイフがあるから」
専用――
これまた、なかなか独創的な言葉だった。
「もっとも、どっちにしろお風呂に入ったりとかすると滲みるんだけどね」
「…………」
清島さんはそんなことを、ごく何でもないことみたいにして語った。ごく当たり前に――昨日の晩ごはんについての質問に答えるみたいに。
雨は相変わらず、池の水面に無数の円形を作っていた。
「どうして、リストカットを――?」
その円形の一つみたいにして、わたしは訊いてみる。
「それでバランスがとれるからでしょうね」
清島さんは少し考えてから言う。
「バランス?」
「心の傷に対して」
わたしはよくわからなかった。わたしはよくわからなかったことを示すために、少し首を傾げる。
「つまりね――」
清島さんは、困ったそぶりも嫌そうな顔も見せずに説明する。
「〝見える化〟するの、心の傷を。そうすれば、ずっと対処しやすくなる。心の中の目に見えない、どこがどんなふうに傷ついているのかもわからないままの傷より――目に見える、手で触れられる、すぐそこに痛みのある傷のほうが、ずっと扱いが楽になる」
「心が傷ついてることより、体が傷ついてることのほうがまし?」
「まあ、そんなところかしら」
清島さんは軽くうなずいてみせる。
「どうしてそうなのかは、正直なところ私にもわからないわね。でも少なくとも、それをすると楽になるのは確かよ。体がぱんぱんに膨れあがって、もうどうしようもないって時、腕を切るとそれがすっと消えてしまう。破裂しそうだった風船の空気を、あっというまに抜いてしまうみたいに」
あくまで冷静に、客観的に、分析的に、清島さんは解説する。
「――ほかに、いい方法はないのかな?」
わたしは一応、訊いてみた。自分で自分を傷つけるのは(他人にされるのよりましとはいえ)、あまりぞっとする方法じゃない。
清島さんはけれど、あっさりうなずいてみせた。
「ある、んでしょうね」
それから、少し考えて言う。
「でも私は、それでバランスをとっている。それで、バランスがとれている。だったら、そのほうがましよ。心がぐちゃぐちゃになって、体の中に余計なものがいっぱいつまってるのよりは。この世界のどこにも、心の置き場所をなくしてしまうよりは――」
そんな清島さんの言葉を聞きながら、わたしはある作家さんの書いた文章を思い出していた。
〝――傷ついて生きるのは難しい。けれど、傷つかずに生きるのはもっと難しい。〟
なるほどな、とわたしはあらためてその文章に納得している。この世界の因果とか、罪業とか、そんなことを思いながら。
清島さんはそれから、ちょっと自嘲するようにつけ加えている。
「まあ、あんまり強く切っちゃったりすると、血がなかなか止まらなくて困ったりはするけどね」
「――うん」
と、わたしはうなずくしかない。それ以外に、できることなんてない。
いつのまにか、雨はやんでしまっているみたいだった。池の水はもう、そんなことは忘れてしまったみたいな顔で静まりかえっている。どんなに耳を澄ませても、水滴が傘を打つ音は聞こえない。最後の雨粒が落ちたのは一体どこなんだろう、とわたしはそんなとりとめもないことを考えていた。
清島さんも雨がやんだことに気づいたみたいで、傘をたたんで水滴を払っている。彼女はそれから、ふと気づいたみたいにして言った。
「――ところで、子供の頃にあなたを助けてくれたその人は、今はどうしてるの?」
わたしは手に持った傘の角度を、ちょっとだけ直す。取り残された雨粒たちが、不服そうに地面へと落ちていった。
「だいぶ前に、事故で亡くなっちゃった」
できるだけ何でもないことみたいに、わたしは言った。
「そう――」
清島さんは困ったような、労わるような、難しい顔をする。それ以外に、どうしようもない。
「――それは、残念だったわね」
そんな清島さんに向かって、わたしは笑顔を浮かべる。気にすることじゃないし、間違ったことでもない。それはただ、そうだというだけのことなのだから。
わたしたちはやがて、神社をあとにした。雨の残る階段をおりて、まだ曇り空の町を歩いていく。バス停まで清島さんを見送ったあと、わたしは家まで帰ることにした。
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