ここは、小さな神様がいるところ
安路 海途
1(小さな箱)
――時々、小さな箱の中に入りたいと思うことがある。
膝を丸めて横になったとき、ちょうど体がぴったり収まるくらいの、小さな箱。自分だけがそこに入れて、それ以外の何も入れないくらいの、小さな箱。
そこでは何の物音もしなくて、何の光もなくて、じっとしていると世界がもう終わってしまったのかどうかさえわからなくなる(でも、ちゃんと呼吸はできる)。
わたしはその小さな箱の中に、ただ静かに横たわっている。目をつむっているのか、開けているのか、自分でもわからない――
でも、そんな都合のいいものは、現実にはどこにも存在しない。そんなものを持っているのは、手品師の人くらいかもしれない。この世界では、需要のないものが生産されることはないのだ。
だからわたしは、自分の部屋にあるクローゼットで我慢することにする。あるいは、妥協することに。
中の荷物を適当に片づけて、膝を抱えて座れるだけのスペースを確保する。そしてちょっと苦労して扉を閉めると(何しろ、クローゼットというのは中から開け閉めすることを想定していないのだ)、ぺたんと床におしりをつける。
クローゼットの中は暗くて、とても静かだ。わたしが要求するほど完璧にじゃないとしても。
そうやって床に座ってじっとしていると、心の中にあるいくつものでこぼこが消えていくのがわかる。ちょうど、柔らかな砂場を平らに整地していくみたいに。
――わたしはそこで、とても平和で、平静で、平穏でいられる。
念のために言っておくと、別にわたしは変わった人間というわけじゃない。短めの髪に、特徴に欠けた低い鼻。性格も、外見も、頭の出来だって、いたって普通の人間だ(ある意味では、〝残念ながら〟と言うべきなのかもしれないけど)。
少なくとも、誰かから〝変わってる〟とか〝ちょっと変〟とか、そんなふうに言われたことはない。自分でそうなりたい、と思ったことも。
ちょっと、孤独癖みたいなものはあるかもしれない。わたしは特に、誰かといっしょにいたいとか、みんなで楽しくやりたいとかいうふうに思ったことはない。それを毛嫌いするとか、否定するとかいうほどじゃないにしても、自分から積極的に参加していこう、みたいなことは。
一人のほうが気は楽だし、ことさらにそれを寂しいとか、気に病むとか、問題視したりしたことはない。
でもだからといって、ずっと一人きりでいるというのは現実的に難しい。この世界は、そういうシステムには出来ていないのだ。
そのことは子供の頃からわかっていたし、だからどうだというわけじゃない。まともに考えれば、それはまともなことで、わたしとしては文句や、不満や、反感なんかはない。世界はみんなの力で維持されているし、そのためにはお互いの協力が必要不可欠だ。利便性や必然性について考えれば、それが最適なんだということはわかる。
――最善ではないとしても。
そんなわけで、わたしは別に変人でも変わり者でもなく、いたって普通の人間として生きている。クラスメートと普通におしゃべりもするし、普通に友達もいるし、普通に遊びに行ったりもする。
少なくともはたから見れば、わたしはごく普通の女の子だろう。どこかがおかしなわけでも、変てこなわけでもない。大抵の人が、そうであるのと同じで。
それでも時々、わたしはこうやって自分の部屋のクローゼットに閉じこもったりする。理由は、自分でもよくわからない。特に何かがあったとか、そのことを習慣にしているとかいうわけじゃない。
でも、時々そうするのだ。
静寂と暗闇と自分だけが存在する場所で、わたしは一人でじっとしている。
――そして、思うのだ。
誰も、この扉を開けないでくれればいい。このままずっと、わたしを放っておいてくれればいい。そうすれば、わたしはわたしでいられるから。そのことに疑問も、不満も、不自由も感じずにいられるから。
そして、どれくらいたったかわからないころ、わたしは自分で扉を開けて外に出ていく(宿題をするため、用事があるから、お腹がすいたせい、理由はいろいろ)。
クローゼットの外には、いつもと同じ自分の部屋が広がっている。明るくて、騒々しくて、不確かで、どこにも境目なんてなくつながっている世界が。
わたしは一度大きく息をすって、ゆっくりとそれを吐きだしていく。時計のネジを巻いて、世界と自分のスピードをあわせるために――
※
「――いや、わからん」
と、まひろは前の席で、ストローで牛乳をちゅうちゅうやりながら言った。
うん、まあそうだろうな、わからないだろうな。
わたしはクラスの友人であるところの
朝の時間、HRまではまだ間があって、教室の中は子供が散らかしたおもちゃ箱みたいな状態だった。みんな、思いおもいの場所でしゃべったりふざけたり、あるいは自分の机で何かしていたりする。
六月初め、中間試験も終わって、教室の空気はどこかゆるんでいた。高校生活に慣れはじめたせいもあるかもしれない。衣替えの時期だし、暑い日もあるしで、大抵の生徒は半袖姿だった。
そんな中、わたしとまひろは廊下側に近い前後の席で、いつも通りの会話をかわしていた。
バスケ部で朝練を終えたばかりのまひろは、パン屋さんで買ってきたコロッケパンを消化中だった。むしゃむしゃとパンにかぶりつくその姿は、どっちかというと男の子っぽい。昔からそうなのだけど、女の子らしいつつしみなんかは薬にしたくもないほうだった。
まひろとわたしのつきあいは、中学一年の頃まで遡る。入学式後のクラスで偶然、席が隣で、それから自然と仲よくなった。以来、高校一年になる今でもそのつきあいは続いている。
女の子としては背の高いほうで、まひろの身長はわたしより頭一つぶんくらいは大きい。すらっとした手足は、使いこまれた道具みたいな確かさでその体にくっついていた。伊達に三年間もバスケをやっているわけじゃない。
まひろは見ため通りのさばさばした性格で、陽なたぼっこ中のオットセイくらい細かいことにこだわったりしなかった。そばかすのある、どちらかというとシャープな顔立ちをしていて、笑うときは人目を気にしたりしない。そして、ぼさぼさの髪をぼさぼさのままでまとめているという、実に乙女失格の女の子でもあった。
「……今、何かあたしを貶めるようなこと考えてなかった?」
コロッケパンを咀嚼しながら、まひろは疑りぶかそうな目でわたしのことを見る。まひろには野生動物的に勘の鋭いところがあるのだった。
「ある意味では」
と、わたしは正直に答えておく。王様が裸でいたら、口にはしなくても変だと思うのが人情というものだ。
「――ま、いいけどね」
そんなわたしに、まひろは肩をすくめてみせるだけだった。もしも、まひろを怒らせたり慌てさせたりしたかったら、まあまあの天変地異が必要なのだ。
「んで、話を戻すけどさ」
と、まひろはコロッケパンを食べ終えてから言った。
「そんなに気になるわけ、その子のこと?」
〝その子〟というのは、わたしが学校の図書室で見かけた子のことだ。記憶の最初までは思い出せないけど、何度も見かけるうちに気になりはじめた。
「うん、まあ――」
わたしはちょっと、曖昧にうなずいておく。まひろは口元についたソースを親指でふきとって、それを舐めながら(なかなか無作法だ)わりとどうでもよさそうな口調で訊く。
「けど、名前も知らないんでしょ?」
そう――そうなのだ。
同じ場所で何度も見かけているとはいえ、それだけのことでしかなかった。話しかけたり、こっそり手紙を渡したりなんてことはしていない。たぶん向こうは、わたしのことになんて気づいてもいないだろう。
現在、唯一わかっているのは、その子がわたしたちと同じ一年生だということだけだ。
「あとは、女の子だってことだけだよね」
ストローで牛乳を吸いながら、まひろは澄ました顔で言う。
「
「――趣味じゃないよ?」
ちなみに、希咲というのはわたしの名前だ。
「いやいや、乙女チックでいいんじゃないの?」
まひろはにやにやしながら言った。
「あたしは応援するよ。お姉さま、あたしずっと前からあなたのことが……とかさ」
やっぱり、まひろの勘はなかなか鋭い。彼女を貶めるようなことは、迂闊に考えられない。
「そうじゃないけどさ――」
友人のからかいをやんわりといなしつつ、わたしは続ける。
「ただ、何となく目につくっていうか。ほら、あるでしょ。誰も気づかないし、気にしないんだけど、自分だけ妙に気になったり」
「ま、別に何でもいいけどね」
そう言って、まひろはパンの入っていた紙袋をくしゃくしゃに丸める。
「あんたにそういう趣味があっても、なくても。あんたがパンの代わりにケーキを食べても、ため息をつきながらかわいそうな花びらを一枚一枚ちぎっていっても、ね」
何故か、なかなかに貶められている気がするのは、気のせいだろうか?
ちなみに、本当はケーキじゃなくてブリオッシュらしいけど。
「何でも」
まひろは軽く肩をすくめてみせる。
「それはともかく、本当にその子のこと、そんなに気になるわけ?」
訊かれて、わたしはちょっとだけ目をつむる。記憶の中にある写真を何枚も、あらためて確認するみたいに。
それから、
「――うん」
と、ただこくんとうなずいてみせた。
するとまひろは、風船の空気が少しだけ抜けるみたいな、そんなため息をついている。
「ま、あんたがそう言うなら、そうなんでしょうね。あたしにはわかんないけど……あとは、その子が幽霊だったとか、そんな話じゃないことを祈るよ」
まひろはそれから、くしゃくしゃになった紙袋を教室のごみ箱に向かって放りなげる。
バスケ部らしい、きれいなシュートフォームで投擲された紙袋は、見事にごみ箱の枠をとらえている。それはやっぱり、乙女らしい行為とはいえなかったけれど。
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