紡言紀行

葦田河豚

紡言紀行

 昔、詩人がいた。

 

 彼は詩人として大成する格別の才能があった。しかし、情景、感情を表現する技術がなかった。彼は何しろ詩に関して独学であって、誰に教わることもなく自分の道を切り開いてきたのだから。


 そういうわけで、彼の詩は誰にも理解されないものであり、彼自身の納得のいくものでもなかった。それでも彼は毎日数十編詩を書き続けた。自分の納得できる詩を求め続けた。


 来る日も、来る日も、来る日も………




 ある日突然、金木犀の香りが彼の鼻を甘く刺激した。彼ははっと驚き、顔をあげた。と、老師が、十尺ほど先に佇んでいた。老師は彼の目を見つめ、頷くと、口を開いた。


「託宣有りて、我ここに至れり。若、陸奥に旅して、その道に詩歌を詠じ、その果てにてこれを飲め」


 彼が呆然としていると、霧が立ち込め、あっという間に老師の姿を隠した。老師の立っていた場所には、ただ金木犀の強い香りと竹筒、万年筆と”紡言帳”と書かれた数冊の手帳が残っていた。紡言帳には真新しいものと手垢に汚れたものとがあった。


 彼は我に返ると老師の言葉をまるで信じ、ただちに、竹筒、万年筆と紡言帳をまとめて、風呂敷に包み、そのまま歩き出した。歩きながら彼は手垢に汚れた紡言帳を読んだ。彼は初めて詩の高尚な技術に触れ、感動した。その紡言帳の詩は詩人として卓越した技術をもって書かれていた。


 彼は詩を読んで覚えたばかりの技術で、詩を書いた。言葉を練り直し、練り直し、練り直し、細く紡いでいった。思い浮かぶ言葉を洗練させていった。ついに、完成した繊細な言葉を彼は真新しい紡言帳に書き留めた。その出来は今までの詩とはまったく隔絶したものだった。


 この日から彼の詩作は極めて難解なものとなった。一日で一編完成しないこともあった。精神と肉体をすり減らすほどに集中していた。そうして彼は徐々に詩の技術を身につけて自分のものにしていった。


 技術を身につけた彼は、自分の感情を表現できることに喜びを覚え、道草を食い、様々な名所に立ち寄った。そして、彼がついに陸奥に足を踏み入れた時、紡言帳の最後の頁がちょうど埋まった。彼は旅の終わりを感じ、老師の言葉に従って、竹筒の中身を飲み干した――


 ――彼は突然苦しみ始めた。


 彼のうめき声は徐々に小さくなっていった。

 

 彼の遺体を見た者はこう言った。

「彼のわきには風呂敷が広げて置いてあった。元々何が入っていたのだろうか。それと、ああ、そうだ。金木犀の香りがしていたなあ」

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紡言紀行 葦田河豚 @ashida-fugu

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