白昼夢遊
日暮
白昼夢遊
それが世界で初めて発見されたのは、××××年、スペインでのことだった。
郊外に住むある女性が、前触れなく突然倒れ、そのまま昏睡状態に陥った。すぐに病院に運ばれ、精密検査を受けたが原因不明。家族は心配でしばらく眠れぬ夜を過ごした。
そのまま植物状態に陥るかとも思われたが、3日後、奇跡的に女性の意識は回復する。
しかし、目を覚ました彼女は昏睡状態にあった間の状態について奇妙な発言をしている。
『私は寝ている間、ずっと夢を見ていた。夢とは思えないほどリアルで、まるで魂だけが体から抜け出して違う世界にいたかのようだった』
臨死体験と呼ばれる現象は世界中で報告されている。だからこの女性のこの言葉も、よくある臨死体験のうちの一つだったかと当初は思われた。しかし、そうではないことを後に世界中の人々が思い知った。
その後すぐに、この女性と似たような症例が次々と各国で報告されたのだ。
突然意識を失ったかと思うと、そのまま昏睡状態に陥り、数時間から数日の間目を覚まさない。
そして、その後目を覚ました人達は一様に同じ事を語る。
『まるで魂が体を抜け出して違う世界に行ってきたかのようだった』
そしてもう一つ、この病でしか見られない奇妙な特徴があった。
最初に発見された症例から数日後、アメリカにて、昏睡状態に陥り集中治療室に入院中だった男性の1人が、ある朝、外傷を負った状態でいるのを巡回中の看護師にて発見された。
一命は取り留めたものの、何せ被害者が深い昏睡状態にある患者だった事から、当然病院関係者による犯行が疑われた。
しかし、防犯カメラの映像や関係者の証言から、男性が傷を負ったと思われる時刻に集中治療室に近付いた者はいない事が判明した。
話は俄かに怪談話のような気配を帯びてきた。
捜査が難航する中、当の男性が目を覚ました。そして、また例の報告。
しかし、その時は、捜査の進展にも繋がる何とも奇妙で特異な報告がなされたのだ。
『意識がない間、夢の中で、今まで見た事がないような化物に襲われて怪我をした。目が覚めたら同じ怪我を負っていた』
この報告もまた、同じような症例がその後続々と挙げられる事になり、この現象の大きな特徴の一つとして記された。
一度昏睡状態に陥った人々の、その後の追跡調査の結果は様々だった。
その後も何度か意識を失っては、しばらくして目が覚める状態を発作的に繰り返す者。
もう同じような事は起きず回復していった者。
徐々に悪化し、最終的にほぼ植物状態に陥った者。
昏睡状態のまま目覚めず、なぜか不思議と体調が悪化し、あるいは、誰も何も触れてもいないのになぜか突然深手を負い、息を引き取った者。
共通点は、突然意識を失い、数時間から数日間目覚めない事。
そして、その間、まるで現実と見間違うような夢を見る事。
そして夢の中で起きた出来事は、本人の肉体にある程度反映される事。それは、例え命を失うほどの外傷であっても。夢の中で怪我を負えば、現実での本人の肉体も実際に怪我をする。そうして命を落とした者も決して少なくはない。一見そうは見えないだけで、昏睡状態のまま急速に体調が悪化していった多くの者が、実際には夢の中で死に至ったと考えられている。
今では国の指定難病にも挙げられているこの現象は、一般には『白昼夢病』と呼ばれている。
僕が最初にそれに遭遇したのは、8月。夏真っ盛りのことだった。
あまりの暑さに、セミの鳴き声以外の音は、全て空気に溶けて消えてしまったように錯覚する、そんな夏だった。田舎の閑散とした電車の窓の外には、青すぎて目に痛いほどの空と、この季節特有の存在感ある雲と、柔らかく伸びやかな稲を携えた田園風景が広がっていた。降りたくないなあ。クーラーの効いた車内の外に、もう出たくない。
後ろから突き刺す日差しが辛くて、髪が燃え出さないか真剣に心配になってきた。がら空きの車内、日の当たらない位置に移動するのは容易い。今の僕にとって暑さを感じる最後の要素が消えると、途端に倦怠感に襲われる。もう眠ってしまおう。目を閉じた。降りる駅はまだ当分先だ。
絵に描いたような夏の風景。涼しく居心地のいい車内。
思考すらも、白く溶けて消えてしまってもおかしくない、そんな夏だった。だんだん意識がほどけてゆく。
心地よいまどろみから戻ってきたとき、そこは夜だった。
意識が浮上してくる。少しずつ、少しずつ思考を取り戻していく。ああ、乗り過ごさないよう起きなきゃ。でもまだ、現実に戻りたくなくて目を開けずにいた。
しかし、違和感を覚えた。
電車の走る音、時折伝わってくる振動。眠る前に当然感じていたそれらがない。どこかの駅に停まっている?でも、この電車はここまで長く停車することはなかったはず。
今までこの路線で味わったことのない不安に、思わず目を開けた。
暗い。
暗い。周囲は静寂と薄暗さに包まれていた。え?おかしいだろ。さっきまで真昼だったのに。今はどこにいるんだ?振り返り、窓の外を見ると
そこにあったのは夜空一面の星空だった。
数えきれないほどの星々。そのあまりの眩さからか、夜空全体がうっすらと明るく、薄紫色だ。その薄紫の空を背景に、見たことのない美しい星空が果てしなく続いている。
すごい。そんなつまらない感想しか出てこない。大自然が描く、壮絶なまでの美しさ。その前では僕の感想なんて本当に、本当につまらない。本当に。
星が降るような、という表現は、誇張じゃなかった。ほんとに、手を伸ばせば届きそうな、今にも降ってきてもおかしくないような星空だった。
しばらく見惚れたあと、ふと下に目をやると、そこにもまた、非現実的な美しさが広がっていた。
地上は一面水に覆われていた。見渡す限り、地平線の彼方まで。
いつか写真で見たウユニ塩湖を思い出した。
何の遮蔽物もなく、ただ、ただ澄んだ水が広がる空間。日常との剥離に眩暈がしそうだ。
果てしなく広がる澄んだ水は、うっすらと夜空を写し込んでいて、まるで星空が空も地上も、どこまででも続いているようだ。
そして、ようやく少しだけ見慣れる頃、やっと疑問が頭を掠めた。
ここはどこなんだ?
確か………大学からの帰宅途中、いつもの路線でうとうとしてしまって………。そう、そこまでは覚えてる。
じゃあこれは、夢か?
そっとその場を離れ、電車の扉の方へ向かう。開け放されていたそこからそっと下を覗き込むと、線路がすぐそこに見えた。どうやら水底に線路が敷かれているみたいだ。
星空を写し込んでいたから気付かなかったけれど、深さは足首ほどまでしかないようだ。よく目を凝らすと、滑らかそうな白い底が見える。
そっと手を伸ばした。水底に手をつけると、すべらかな石のような手触りが伝わってきた。水はひんやりと心地良い冷たさで、どこまでも受け入れてくれそうだった。
思い切って靴下とスニーカーを脱ぎ、ジーンズの裾を折ると、足をそこに下ろし、そのまま電車を出た。とにかく歩いてどこかに行ってみよう。
ちゃぷ。ちゃぷ………。
耳をすましても、僕が歩き水をかき分ける音以外、何も聞こえない。ただどこまでも美しさだけがある。
こんな異様な状況だというのに、不思議と恐怖はなかった。きっと周りの世界があまりにも美しいせいだろう。ただ漠然とした疑問だけが頭の隅にあった。ここは、どこなのか。僕はどうなってしまったのか。
とにかく、唯一僕以外の存在である電車だけは見失わないように行こう。そう決めてひたすら歩いた。電車が見えるぎりぎりの所まで来ると、向きを変え、今度は電車を中心に円を描くように歩いた。
疲れてきたら、電車まで戻り、横になって寝た。
目覚めても、まだこの世界にいた。そしてまた歩き始めた。
この世界はいつも夜だった。いつも星空が見えていた。そもそも昼夜という概念がないのかもしれない。
そんなことを繰り返し、何回目かに電車でまた眠りについた。
そして目が覚めたとき、そこは病院のベッドの上だった。
白い天井。白いベッド。点滴に繋がれた腕。
馴染みのある世界に帰ってきていた。白昼夢病。僕に下された診断は、そういうことだった。
それからの僕の生活は、意外な程変わりなかった。医師からは、発作が起こる頻度は少ない方だと言われたので、おそらくそのせいもあるんだろう。
ただ、元々僕の生活が、寂しく単調なものだったせいでもあるのかもしれない。
病気の件で実家に戻ってきたが、生活スタイルのズレなどで、家族とは特に話すこともなかった。大学でも適当に話す友人ぐらいしかおらず、趣味のゲームに熱中する毎日だった。思えば昔から、ずっとこう過ごしていた。
大学一年の夏に発症し、数ヶ月に一回ぐらいの頻度で、突然深い眠りに落ちる。目覚めるまで二、三日ほど。
夢の世界は、いつでもびっくりするぐらい美しい。
人によっては、夢の中で恐ろしい体験をした、という人もいるようなのだけれど、幸い僕は一度もそういう目に合わなかった。僕もこの病気を患ってから初めて知ったけれど、同じ症状とはいえ、夢の内容は一人一人違うみたいだった。
僕にとっての夢の世界はいつも、まるで美という概念をそのまま取り出したような美しさだった。
ある時は森の中。ある時は平野。ある時は海。ある時は延々と続く館の中。雲の上、なんてこともあった。雲の上、やわらかいクッションの上にいるような心地に、思わず背中からダイブする。どこまでも続く青い空。
実際には、雲は水蒸気の集まったものだから、こんな子供の夢想のような体験はできないんだろう。
現実世界では決してあり得ないだろう世界は、しかし、不思議と優しく僕を受け入れてくれる。
この世界では、いつだってあたたかく、優しく包まれている気がした。直接姿は見えないけれど、神様と呼ばれるような存在がいて、この世界の全てを、ここにいる僕までをも愛してくれている。見守ってくれている。そんな気がした。
発作が起こる頻度は少しずつ減り、就職活動を終えて社会人になる頃には、もう他の人と変わりない生活をしていた。医師からも普通の生活をして大丈夫だろうと言われた。
地元の中小企業に無事就職が決まり、総務課に配属された。
病気の件もあるため、一応営業や現場仕事は避けたのだが、無事希望は通り、事務作業がメインだった。順調な社会人生活が始まったようで、どこか安心した。
仕事は大変だった。学生時代の学業とはまるで違う。これはむしろ、文化祭の準備が延々と続くようだった。時間のやり繰りも、雑務の調整をする際の人への気の使い方も、文化祭の準備を思い出す。
こんなのなら、どうしてもっと早く、勉強よりも、イベントの準備で周りと協力しながら難なく進められる方が大事なんだと教えてくれなかったのだろう。
楽しさもない。祭り特有の浮かれた空気もない。たまに本番と片付けがやってくる。大変だった。
「あ、これ頼むね」
「はい」
「ここ違ってるよ」
「あ、すみません!」
「やあ。今夜の飲み会、来れそう?」
「あ、ぼ………俺、行けますよ」
休日はただひたすら寝た。
あの美しさから、かけ離れていく日々だった。
しかし何とか慣れてきた。趣味のゲームをする余裕も出てきた。
きっとこのまま、何とかなっていく。大丈夫だ。
慣れていくにつれて、仕事量も増えていく。3年目を迎える頃は、残業が当たり前だった。帰ってきたら、玄関先で倒れ込むように寝てしまい、家族に怒られることもあった。自分がこんなに体力がないなんて知らなかった。もっと頑張っている人達がいるのに。情けない。頑張らなくては。
趣味がゲームであるのは相変わらずだった。少し前から、オープンワールドと呼ばれるゲームをよくプレイしている。ゲームの中の広い世界を、まるで本当の世界のように自在に移動することができるのだ。グラフィックの完成度が高く、見た目が綺麗だった。その光景は、どこかあの夢に似ていて懐かしかった。
それなのに。なぜだろう。最近は不思議とゲームを手に取る気にならない。休日は寝てばかりだ。社会人になりたての頃のようだ。
虚しい。この所よく頭をかすめる一つの思考がある。
なぜ、生きているんだろう。
よくよく考えてみれば、これほど意味の無いこともない。人間はどうせいつか死んで無に帰るのだ。
ならば結局、現世での全ては無駄で虚しい。僕がすることやること、生きて成すこと全てが虚しい。
………何を考えてるんだろう。そんなの、当然のことだ。『死』という概念を知る人間なら当然、知っていることだ。今さら考えても仕方がない。
………なのに。
どうしてだろう。なぜ、今まで、その事は問題だと思わなかったんだろう。
頑張らなくては。
なのに、なぜだろう。仕事では少しミスが増えてきた。
何か前までと違う気がした。歯車が一つ、致命的にずれてしまったような、そんな錯覚がした。頭の中はどんよりと厚い雲に覆われている気がした。
考えても仕方がないことばかり考える。
これじゃダメだと、休日に半ば強制的にゲーム機のコントローラーを手に取ってもみる。そこに映し出されるのは、以前と変わらないはずの綺麗な世界だ。なのに。
どうしてだろう。やっぱり何か前までと違う。
何の関係もないキャラを操作し、何の関係もない世界の中を動かす作業に疲れ、ふっと顔を上げると、もうすでに夕方だった。
あんなに好きだったゲームなのに、休日を無駄に潰してしまった気がする。こんなことをして何になる。
別のゲームをやってみようか。でも、どれも結局同じだろうか。
そして気付いた。
ゲームを楽しく遊んでも、いずれその楽しさは尽きる。飽きる。そして次のゲームへ。それにも飽きて、次へ。そしてそれにも飽きて次へ………。
ふっと子供の頃を思い出した。スーパーで買ってもらった、子供向けの玩具付きのガム。味のなくなったあとも、かすかな甘さを求めてしばらく噛み続けていたっけ。
でももちろん、それはもう元には戻らなかった。
………ゲーム以外の何か趣味でも探そうか。
でも何なら無駄にならないのか。それが分からなかった。
食事も虚しく無駄な気がして、だんだん減っていった。食べるのが面倒くさくて仕方なかった。
ここのところ、夜の寝つきも良くないみたいだ。布団に入っても、以前まで、どうやって自然と眠りについていたか分からない。眠いのに、意識だけが眠りに落ちる手前で張り付いてしまっている。寝ずに過ごすには、この夜は長すぎる。市販の睡眠薬を流し込んで、どうにか意識を押し殺す。
いつかのような、暑い、暑い夏だった。眠れない夜には、夜空を眺めて過ごした。そこに満天の星空を探した。でも、ここでは星はほとんど見えやしなかった。
結局ほとんど眠れなかったある朝、会社に行く準備をしようと起き上がると、急に強烈な睡魔に襲われた。
今になってなぜ。絶望的な気分で、そのまま倒れ込むように眠りに落ちた。
ゆっくりと意識が浮上していく。
目が覚めていく。それが分かった。
戻りつつある意識の片隅で、会社に行く準備中だったと思い出し、かすかな抵抗感を無視して急いで体を起こす。
そこは一面の草原だった。
まず視界に飛び込んできたのは、地平線の彼方、天まで届くかのように聳え立つ、雄大な山脈だった。
青く色がかって見える山々は、てっぺんに儚く白い雪をかぶっている。
この距離なのに、山のゴツゴツした岩の質感がはっきり伝わる。それほど巨大で雄大な山脈だった。
思わず震えた。その恐ろしいまでの存在感に圧倒される。
その山々まで、優しい緑の草がずっと遠くまで続き、所々に色とりどりの花が集まって咲いている。よく晴れた昼下がりのような日の光の下、緑色に眩しい花々のアクセントが、綺麗だった。
柔らかい風が頬を撫でていったかと思うと、サーっと草花の間を、光の輪郭と共に楽しげに走ってゆく。
ああ………。
この世界はいつだって、本当にーーー。
その先の思考は、言葉にすらならなかった。
白昼夢病の再発。目が覚めた後、そう宣告された。それからは再び、時々発作が起こるようになった。
しかも、なぜか以前より頻度が増えた。
大学時代は数ヶ月に一回程度だったのに、今は一ヶ月に一、二回ほど。それは日常生活に支障を来すに充分な頻度だった。
会社でも、当然仕事を休みがちになり、申し訳なさは倍増した。
パートの女性達が何となくこちらを見てひそひそ話している気がする。被害妄想なのかもしれないが、そうじゃないかもしれない。きっとこういうのを居心地が悪い、と言うんだろう。
再発以来、気付いた事がいくつかある。
思い返せば僕は、こんな居心地の悪さを常に感じていた。
それはいつから、というような明確なものではなく、多分物心ついた頃から、ずっと。
多分、それほど確かなものじゃなかったけど、でも、気付いてしまうと、はっきり分かる。漠然とながらも、まとわりつく。その名の通り、どこに居ても自分の居場所じゃないようなおさまりの悪さ。
しかし、最近の僕は、よりいっそうそれがひどくなっていたようだ。
虚しさの奥に、胸の奥に潜むこの感じ。いつも皮膚の一枚下を這うこの感じ。何と言えばいいんだろう。未だによく分からない。
そういう事に気付いたのは、夢の世界との比較によってだ。
白昼夢病の夢の世界にいる時は、この感じを体感していなかった。どうしてなのか、あの世界はいつでも優しく、あたたかく、ただ、そこにいるだけで許されていた。
「今、ちょっといい?」
上司に別室に呼び出されたのは、そんな折だった。聞く前からどんな話なのかは想像がついた。
帰りの電車の中で、今日の上司の話を反芻していた。それは症状が落ち着きそうな頃まで休職し、それでも駄目そうなら部署の異動を勧めるという話だった。
こうなる事は納得していた。このままでは今の場所では仕事にならない。上司も気遣って話してくれた。実際、僕のためでもあるんだろう。
だけど、今の自分にとってそれは違う響きを伴って聞こえる話だった。
邪魔者。厄介者。お払い箱。だから休ませ、可能なら別の場所へ追いやりたい。
電車の中、1ミリも動けず、ただ思考がじわじわと侵食されていく。暑くもないはずなのにじっとりと汗が滲むようだった。
気付いたら、ここに来ていた。
海が見える展望台。ここは観光地であると同時に、近くの断崖は自殺の名所として有名だった。
自殺の名所である崖には、まるで何かを止めるかのように柵が張り巡らされていた。
構わず近付き、下を覗き込む。もうすっかり暗くなってしまって、崖に打ちつける荒い波の音が闇の中から聞こえるだけだ。
そうしながら、ぼんやり考える。
仕事が全てじゃない。他にも生きがい、と呼ばれるようなものを見つければいいのかもしれない。
でも、どうやって?何もかも虚しく、遠くなってしまった気がする。あれだけ楽しかった趣味も、家族も、食事も、睡眠も、何もかも。
そして気付いた。
ああ。
俺にとって、俺はもう、そんなに大事な存在じゃないんだな。
ずっとそうだった。いつも居心地が悪かった。深く人と関わるのは苦手だった。どこか、取り残されているような気がしていた。
だから普通でいたかった。できると思っていた。
仕事を頑張って、認められて、一応趣味もあって、立派な社会人になって。
でも、もう、失ってしまった。失ってしまったんだ。
普通にはなれなかった。
気付いた瞬間、涙があふれた。どうしてだろう。泣いたのなんて何年ぶりだろう。どうして泣いているのだろう。分からない。感情も思考も、意外と冷めていて、それほど悲しさを感じていないのに。それなのに。
なぜか涙だけが、とめどなくあふれた。
ようやく涙が止まる頃、僕はある一つの決断をしていた。
あるいはそれは、決断、と呼べるようなものじゃなかったかもしれない。
スマホを取り出し、ほぼ全てのデータを消去すると、残ったメモ機能に、文章を打ち込んだ。
家族宛ての遺書だった。手も震えるし、頭の中もまとまらなくて、結局、大した事は書けなかった。
靴を脱ぎ、その中に遺書だけを残したスマホと、身分証明になりそうな保険証などを入れ、柵を乗り越える。
暗い。暗い。どこを見渡しても真っ暗で、波の音だけが響く。
不思議と恐怖心はなかった。
むしろ、自分すらも黒く溶かしてくれそうな暗闇が、心地よかった。
少しだけ、深呼吸をし、夜空を見上げる。けど、やっぱりそこには何も見えなかった。
そして、柵から手を離し、一歩を踏み出した。
一瞬の浮遊感。次の瞬間にはもう、意識を失った。
意識が浮上してくる。少しずつ、少しずつ思考を取り戻していく。
………あれ?僕は、一体………。
ぼんやりした頭の片隅、わずかな疑問とともに目を開ける。
そこにあったのはーーーーーー夜空一面の星空だった。
いつかのような、懐かしい、夜空一面に瞬く星空だった。
ああーーー。
胸の奥が震えた。人間は実際の所、全ての感覚は脳で処理されているものにすぎない、なんて話を聞いた事がある。今だけは、信じられない。間違いなく、この胸が、心臓が、震えている。掴まれている。全身で、魂全部で、味わっている。
幸せだ。
これほどの美しさに出会えて、幸せだ。
しばらく星空に見惚れた後、ようやく今に至るまでを思い出す。
そうだ、僕は、あの後、飛び降りて………。
じゃあなぜこの世界にいるんだ?
未遂に終わり、偶然そのままここに来たのか。
それとも、ここは天国とかあの世だとか呼ばれる場所なのか。
柔らかい土に横たえていた身を起こす。澄んだ空気と優しい草の匂いが肺を満たす。どうもここは、古き良き時代の日本の村を彷彿とさせる山奥のようだった。
星明りの元、開けた場所に茅葺き屋根の家並みが続いているのが見えた。家々からは暖かい光がこぼれ、揺らめいている。
人がいるのだろうか?この世界では今まで他の人の存在を感じた事はなかった。一番近くの家に近付き、開け放された入口から中を覗いてみる。
三和土から上がってすぐ、八畳ほどの部屋が広がっている。その中心には囲炉裏があり、薪がパチパチと音を立てて控えめに燃えていた。外から見えた光はこれだろう。だがそこには誰の姿もなかった。
他の家も少し見て回ってみるが、やはりどこにも誰も見当たらない。やっぱりここには他の人はいないのか。
山奥の村。廃村のように人気の無い村。普通なら突然こんな所に放り込まれて、恐怖しかないだろう。
でも星明かりの下、僕にはそれはなかった。人がいないのになぜか燃え続ける薪の火も、僕を歓迎してくれているようだった。
ここではいつだって受け入れられている。優しく見守られている。全てがあるがままに存在し、そのままで許されている。それが分かる。理屈でなく言葉でもなく分かる。この世界の気配があたたかく包んでくれている。いつだって、それを感じている。
頭上を見上げた。
そこには相変わらずあの星空がある。
目の端に滲んだ涙を拭い、近くの家に足を向けた。ここがどこなのか。いつもの夢なのか、そうじゃないのか。そうであってそうでないのか。もうどうでもよかった。
近年になって、白昼夢病の仕組みについてある有力な仮説が提唱された。
いわく、白昼夢病は脳が自身の中のみで作り出す現実世界なのだと。
一体どういうことなのか。
人間が普段認識している現実世界は、実は、脳が感覚器官から集めた情報をもとに構築した世界だ。
例えば、視覚情報。目から入った光は、視神経を通じて脳の「視覚野」と呼ばれる部位に運ばれ、そこで何らかの映像として処理される。そうして初めて、人間が普段目にしている世界の見た目が形作られるという訳だ。
このように、脳は五感を通じて周囲から様々な情報を得て、それを処理することで人間は世界を認識し、共有している。
ある医科大学のグループが、白昼夢病により昏睡状態にある患者の脳活動を仔細に調べた所、驚くべき事が判明した。患者の脳活動は、外部からの刺激にこそほとんど反応を示さないものの、通常の活動とほぼ変わらない状態であったのだ。
つまり、白昼夢病とは、脳が外部からの刺激をほぼシャットダウンする代わりに、自らの経験を元に、独自の現実世界をその内部でのみ、構築している状態なのではないか。そのグループはそう発表した。
この類を見ない新説は、自然と人々に受け入れられた。未だ原因こそ不明だったが、症状のメカニズムはそう考えれば全てに説明がつく。夢の中で負った外傷が実際に反映されるのも、脳の強い認識によって引き起こされるのだろう。この説は瞬く間に世界に広がり、途方もない反響を巻き起こした。
白昼夢病は、ただの夢ではない。その中で見えているものも、聞こえているものも、感じているものも。
他人と共有できないだけであり、それは現実そのものなのだ。
その事実は、白昼夢病に罹患した人々の救いになるのだろうか。
僕は寝るため、囲炉裏の傍で横になった。
パチパチと優しく燃え続ける火が温かい。視界の隅には、ちょうど木枠でできた窓がある。
もしかしたらもう二度と、元の現実世界には戻れないかもしれない。
それでいい。それでもいいんだ。そう、思った。
窓からは、満点の星空が見えていた。
さあ、もう眠ろう。胎児のように丸まって目を閉じた。きっともう、眠れない夜は訪れないだろう。
そうして彼は、深い、深い眠りに落ちていった。
白昼夢遊 日暮 @higure_012
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