1-8 黒い煙

「信くんはどう?」




「信くんは、少々時間がかかるかもしれません」





 二人は信のベッド際へ移動した。


「かなり強いですね、今まで以上かも。でも、やります」


 石田は深呼吸をして目を閉じた。両手を信の頭にかざし、力を込める。動きなどはなく、そのまま黒い煙を吸い込むようだ。次第に、石田の両手から、金粉が舞い始める。



「かなり奥に入り込んでいますね……、もう少し力を強めていきます」


 信の頭に直接両手で触れる。


「信くん、ごめんね、相手が強力すぎるから……仕方ないの」


 石田はそう言うと、両手から猛烈な炎を出現させた。すさまじい力を放出しているため、霧子はさらに距離をとり、見守ることにした。石田の両手からは、三十センチほどの火柱が立っている。金色とオレンジが混ざったような美しい炎だ。



 だが、その炎は徐々に弱まり、信の頭全体に吸い込まれていく。




「どういうこと?! なぜ炎が!」




 霧子は驚き、石田に駆け寄って顔を覗き込んだ。





 石田は額に冷や汗をかき、目と口を閉じたまま、鼻から血を流していた。





「エリナッ」




 霧子は危険を察知し、信の頭に触れている石田の両手を強引に剥がした。二人は床に仰向けに倒れ込み、霧子はすぐに起き上がって、意識を失っている石田の額を手で覆った。





「何てこと……。大量に吸い取られているわ、エリナの力……」


 霧子は立ち上がり、信のベッド際に近づいた。


「まさか、わざとなの?」








「たまたまよ」








 霧子は咄嗟に、声がした病室の窓際に目線を移した。



 

 窓際には羽田野が立っていた。ベビーブルー色のワンピースを身に纏っている。顔や身体は青白く、真っ黒な瞳でじっと霧子を見つめていた。






「あなたが羽田野さんね。信くんをどうするつもり?」


「彼は可哀想なのよ、同胞のせいでこんなことに」

「どういう意味?」

「大丈夫よ、彼が悩まないようにしてあげたの」

「悩む?」

「彼女の力、良いわね。役に立ったわ。もっと強くなるわね」




 羽田野は石田を見つめて不気味な笑みを浮かべる。




「何をしたの?」

「ちょっとしたプレゼントよ」

「冗談は、ほどほどにしなさい」





 霧子は羽田野を睨み付け、鼻から息を吸い、口をすぼめ、細く息を吐き始めた。





「あら嫌よ、その力。あなたのは、ゾッとするわ、気色が悪いもの。私はこれから消えるから安心して」






 羽田野の身体は、黒い煙となって窓の外へ飛び出し、消え去った。





「信くん!」




 霧子がベッド際へ駆け寄ると、信は眠ったまま涙を流していた。





「信くんに、一体何を」






「失礼します!」


 病室のドアからノック音と大きな声が響き、ドアが開く。ピアノ教室の杉野だ。



「あの! 急にすみません、霊媒師さんって聞いたので。あれ? 大丈夫ですか!」


 仰向けに倒れている石田に駆け寄る杉野に、霧子は優しく声をかける。


「大丈夫よ、彼女は強いから。しばらくそのまま、そっとしておいて」


「あ、はぁ」

 杉野はきょとんとして霧子を見つめた。



「あなた、名前は?」

「杉野です」

「杉野さん。何か、私に言いたいことがあったんじゃないの?」

「はっ、そうなんです、霊媒師さん、羽田野先生なんですが……」

「どうかしたの?」

「それが……」




 杉野は困惑した表情で口を閉ざす。霧子はそれを見て首を傾げた。杉野は胸に手をあて、深呼吸をし始めた。




「可笑しいかもしれません、今から言うこと」

「落ち着いて発言しなさい。私はあなたの味方よ」

「ありがとう……ございます」





「どうなったの?」





 杉野のあとに続いて入ってきた直子が、杉野の話を遮った。



 病室の外に居た巴と礼央も、中の様子が気になり部屋に入ってきた。直子は信、巴と礼央は希のベッド際に駆け寄った。




「日比谷さん、二人は大丈夫なんですか」

「まだ、わかりません」




 霧子は窓の外を睨みながら返答する。直子は石田の姿がないことに気づき、床で仰向けに倒れている石田を発見した。




「えっ、倒れとる!」

「鼻血がっ」




 直子と巴は、石田に駆け寄った。直子が鞄からタオルハンカチを取り出し、石田の頭を持ち上げ、その下に敷いた。巴は持っていたポケットティッシュで石田の鼻血を拭き取る。直子は日比谷を睨み付けた。





「日比谷さん、彼女、倒れていますよ。何で放っているんですか!」





「ごめんなさい。信くんに取り憑いていたものが、まだ完全に消滅したか分からないので、今も警戒を解けない状況です」




 直子は、霧子が石田に向ける切ない表情を見て安堵した。




「なるほど、急に襲ってくるかもしれないということなんですね」

「ご理解いただき、感謝します。それで杉野さん、話の続きを」





 杉野は再び深呼吸をして、話し始めた。











「実は、羽田野先生は、自宅のマンションで……三週間前に亡くなっていたそうです」











「えっ!」






 巴が声を荒げて驚いた。礼央も無言で目を見開いている。直子は状況が分からず困惑していた。霧子はやはり、という顔をしていた。杉野は不安定なトーンのまま話を進めた。






「今日、そもそも先生は休講で来ていないんです。先週、先生からの電話でレッスンを全て休講にしてほしいって連絡があって。私、今日は先生のレッスンが無いから上の階でエレクトーンの配置換えとか、掃除とか色々作業をして、まさか希ちゃんたちが来ていたなんて全く知らんかったし、二週間前には、先生は普通にレッスンに来られていました。何も問題なく、普通に来られていたんです。間違いないです、私、そのとき直接話したんですよ? 先生と休憩時間も、近くのパン屋さんの話もして。私、何が起きたのか、ずっともう、何が何だか分からなくて――」






 杉野は、眉をひそめ、首を傾げながら唇を噛みしめている。





 一方、巴は、全身が悪寒に襲われ、身震いしていた。彼女の記憶上、二週間前といえば、レッスン休講の件で羽田野と直接、電話連絡を取っていたからだ。






 杉野は羽田野についてその後も少しずつ語り始めた。信たち三人が教室に来たと同時刻に、ピアノ教室を運用している会社の社員が、羽田野と連絡が取れないことから、羽田野の自宅を訪問していたことが分かったのだ。団地マンションの部屋に付くと、異臭とマンションの住人からの証言で、〔最近やたらと蝿が大量に発生している」という話を耳にしたため、社員は異変を感じ、すぐにその場で通報した。



 通報を受けて駆けつけた警察官と管理人が共に部屋へ侵入し、風呂場で死後三週間ほど経過した羽田野の遺体が発見された。希と信が病院に搬送された直後に、杉野に連絡がきたのだ。




 直子は巴らが青ざめている理由をようやく理解する。直子はゾッとしたまま巴に話しかけた。





「え、それって先生、ずっと死んでからも、幽霊のままレッスンに来とったってこと?」



「そういうことになりますね。私なんか、二週間前に先生と電話越しですが、直接話しているんです」



 巴は酷く怯えていた。直子はそれを見て頭を抱えた。



「信くん?」



 霧子が信に声をかけた。信が目を覚ましたようだ。



「信!」



 直子が信のもとに駆け寄った。









「先生、『私を見つけてくれてありがとう』って言うてた、『やっと死ねたよ』って」



 信はそう言うと、目を閉じ眠ってしまった。

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八月の約束 榊亨高 @sakaki_michitaka

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