「助けて」が言えない私の話

間川 レイ

第1話

 1.

 魂の重さは肉体の重さだ、なんて。そんなことを思いながら起床する。


 起きた瞬間に気づいている。ああ、今日はダメな日だ。


 気分がびっくりするぐらい沈んでいる。あたかも鉛につけ込まれたように。手足の先は誰かに押さえ込まれたかのように重く、身を起こすことすら一苦労。何より何もする気にならない。大学に行きたくない。行ったとてまともに集中できるわけがなく、まともに他人と会話できる自信がなかったから。


 そうは言っても大学に行かないわけには行かない。きっと両親は今の私の気分なんて理解してはくれないから。高い学費を払ってやっているのにと怒鳴られるのが関の山だ。両親には元々サボり癖があると思われているから、いつものサボりがまた出ただけだと思われるに違いない。


 私だってサボりたくてサボっているわけではないのに。解けぬ難問。上がらぬ成績。受かる未来の見えない資格勉強。身体が、心が壊れてうまく動かないから動けないだけなのに。でもあの人たちにはわかるまい。私のそんな訴えをただのサボりの口実としか受け止めない。怠惰なお前が鬱になんかなるわけないだろと言って病院にも行かせてくれない。


 こっそり病院に向かおうにも肝心要のお金がない。保険証も父親の部屋にあるからこっそり抜き出すのもまあ無理だ。以前両親の留守の時に試みたことがあるけど、どこにあるのか分からずじまい。金庫にでもしまってあるのかもしれない。だからこそ私は鉛のように重たい肉体を引きずってリビングに行かざるを得ない。


 途中洗面所へ向かうと思しき母親とすれ違う。おはよう、そう挨拶すると聞こえるか聞こえないかぐらいの音量で舌打ちされる。それはいつもの光景。いつもの光景のはずなのに、ずーんと、身体に詰まった鉛が一気に重さを増した気がした。


 2.

 何も食べたくなかったけれど、残せばまた嫌味を言われるのは火を見るよりも明らかだったから、どうにかこうにか朝食を詰め込み家を出る。ひっくり返りそうになる胃をどうにかこうにかなだめすかしながら。いっそ指を喉の奥に突っ込んで吐いてしまったほうが楽になるかもしれない、そんな嘔吐感と戦いながら駅へと向かう。


 駅は普段より混んでいた。普段より空気が湿っていて、天気予報も曇りのち雨を告げていたからかもしれない。研究室に置き傘あったっけ。そんなことを考えながら普段よりぎゅうぎゅう詰めの電車に乗り込む。車内は死ぬほど混んでいた。誰かに身体を押し付けないで済むように、リュックサックを身体の前に回す。車内は人の吐く息が充満し、独特の息苦しさを感じさせる。やや上を向き他人に汚染されない新鮮な空気を少しでも吸おうとする。


 それはさながら酸欠の金魚。必死に人混みから浮き上がり口をパクパク開閉させる。ただでさえ憂鬱なのに、より一層憂鬱になりそうな人いきれ。他人の体温が気持ち悪い。


 人混みは嫌いだ。満員電車はもっと嫌いだ。元から他人がそこまで好きではないというのもある。何を考えているかわからない隣人。次の瞬間何をされるか分かったものではない、なんて。そんなことを考えるあたり、今日の憂鬱は本物だ。苦笑を一つ。インストールしてある資格のアプリを開こうとしたけれど、何となく気が乗らなくて諦めて閉じた。


 3.

 満員電車から解放され、大学へと向かう。大勢の学友を追い抜いて。おはよう、と挨拶して舌打ちが返ってこないことに安堵する。大学というのはいいところだ。理由もなしに殴られたりしない。理由があっても殴られたりしない。


 成績が悪いからと言って力一杯殴ってきたりしないし、この気狂いが!と絶叫しながら私の髪の毛を引き摺り回す人もいない。分からないことを質問して、そんなことも分からないのかよと嘲る人もいないし、本当に頭が悪いなと罵ってくる人もいない。大学とは私にとってパラダイスだ。今日の気分はそうも言っていられないけれど。ぶり返してきた吐き気とともに、大学に行くでもなく喫茶店に吸い込まれていく語学のクラスメイトを見送る。


 ああ、せめて今日みたいな日ぐらいは大学にもいかず喫茶店でダラダラしていたい、なんて思うけれど所詮それは無理な話。私の位置情報は位置情報アプリで両親に把握されているから。ビックブラザーがあなたを見ているではないけれど、気分はさながらジョージ・オーウェルの1984だ。以前監視されていることを忘れてついつい本屋で長々立ち読みしてしまった日は酷かった。正直思い出したくもない。だから私は一層重くなったような気がする身体を引きずって歩いていく。


 4.

 講義室に着くと、座席は半分ぐらいしか埋まっていなかった。最初の頃の方は座席もギチギチに埋まっていたことを考えるに、大分サボっている人間が多いらしい。でもまぁ、私には関係のないことか。そんなことを考えつつ講義の準備。何人かよく話す子とすれ違う。私の顔色が良くないことに気がついたのか、大丈夫?EVE飲む?と尋ねてくれる。ありがとう、もう飲んでると嘘を付く。心遣いは嬉しい。


 だが、私の不調はそう言った、生理的、肉体的なものではないのだ。辛いのは、心。家族関係や進路が辛い。家族とうまくいくコツを教えて欲しい、なんて。


 だけどそこまでは話せない。大学の同期なんてそんなものだ。どれだけ仲良くしようと、誰もが心の中に踏み込まない、踏み込ませない一線を引いている。一緒にいて楽しい子とつるんだりもするけど、どことなくビジネスライク。仲良しこよしみたいな顔をして、高校までの関係とは全然違う。クラスという強制的に一緒に学ぶ空間がなくなったからかもしれない。ある程度までは困りごとがあったら助けを出すけど、本当に困っている案件には踏み込まない、みたいな。そこまで深く相手と関わろうとしない。将来のリスク管理を考えて、不穏分子とは関わらない。そんな、どことなく緊張感をはらんでいる関係。不穏分子と見られれば、容赦なく切り捨てられる。そんな事、嫌というほどよくわかっているから。


 だから笑顔を作って私はいうのだ。大丈夫、キツかったら帰るから。そんなこと、出来るはずない。そんな内面は決して表に出す事なく。


 5.

 講義は相変わらず難しかった。板書をとり、レジュメの重要そうな所にはマーカーを引く。必要であれば補足説明を付け加える。現行犯の三要件は、プログラム規定説とは、会社法にいう会社の定義とは、土地通行権とは。講義、講義、講義、ゼミ、講義。額に脂汗を浮かべながら必死にノートを取る。


 先生の教え方がいいのか、授業を聞いているうちは分かった気になる。だけど、授業が終わり復習をしていると、やっぱりわからなくなる。ロジックの繋がりが、どうしてそうなるのかわからなくなる。わからないものをわからないなりにパターンとして覚えようとするから、中々覚えられない。覚えられたとしても応用が効かない。自覚があるからこそ直そうとする。わからないところは質問する。丸暗記ではなくロジックを把握する。だけどそうやって基礎からやっていれば時間が足らなくなる。何せ、並行して将来の資格勉強もしているのだから。


 このままでは間に合わない。その自覚はある。だからこそ優先順位をつけなければいけない。それはわかっている。だが、何から手をつけたものか。そんなパニックに陥りそうな内心を抑え込み、ひたすら机に向かう。頑張っていればいつかは報われる。そう信じて。授業と授業の空き時間には図書館にこもって。昼ごはんは適当な学食を詰め込んで。


 最後の講義が終わっても今日の学業は終わらない。学生研究室でのディスカッションの日だから。今日のテーマは憲法。表現の自由の判例の射程範囲が課題である。個人的に興味のある分野ではある。実務でどれだけ役に立つ分野かはわからないけれど、取り扱いの難しい、センシティブな案件だから。学生のうちに扱えるだなんて幸運だ。できる限り丁寧に取り組もう。


 だけど同時に思ってしまうのだ。疲れた。もう疲れた。休みたい。息抜きがしたい。あとどれだけ頑張れば私は報われるのだろう。資格試験の合格ラインは遥か彼方。意味もなく頭を掻きむしり叫び出したくなる。だけどそんなことをした日には即日精神病院送りだ。自傷防止のロープに繋がれて、誰もお見舞いに来ない病院にひとりぼっち。それは嫌だった。それだけは嫌だった。


 だから私は夕暮れの迫る窓を見ながら一人寂しくぼやくのだ。ああ、休みたいなあ、と。


 6.

 研究室でのディスカッションが終わる頃には既に空は真っ暗だった。今日も疲れたなと白い息を吐く。脳を限界まで酷使した時特有の、脳みそが溶けて流れ出しそうな感覚。脳みそがお粥のようにドロドロの液体になってしまったかのような感覚。これは帰ってからの自習は無理だな。ため息を一つ。


 今日も頑張ったという達成感がある一方で、帰って自習できないのであれば、また予定を組み直さなければならないという焦り。そんな焦りと達成感の入り混じった、奇妙にふわふわとした気持ちを抱え、帰りの電車に乗り込む。朝方は大分限界だったけど、まだ何とかなったな、なんて考えながら。帰りの電車は混んでいた。行きの列車なんて比べ物にならず、スマホを取り出す余地もないぐらい。行きの列車と同じようにリュックを体の前にまわす。


「次は西院、西院」


 最寄駅のアナウンスが流れる。そろそろ降りなければな。そう思いはじめた頃のことだった。


 違和感。お尻に。それは、肉の感触だった。手の感触だった。手の甲ではなく、手のひらの。ごつごつとして大きな、男の人の手の感触だった。それが這い回っていた。私のお尻の上を。最近肉のつき出した、私のお尻の上を。さわさわ、さわさわと。その感触を楽しむように。


 一瞬はただ手がぶつかっただけということを疑った。何かのはずみに、ぶつかっただけだと。だが、違った。その触り方には悪意があった。ねっとりと、揉みしだくような触り方には明らかに悪意があった。


 最初は自分が何をされているのかわからなかった。比喩などではなく、本当に。この人は何をしているんだろうって。だって今まで、痴漢になんてあったことなんてなかったから。私は思っていたのだ。私は胸なんてぺったんこだし、お尻も大きくない。私みたいな女を狙う人間なんていないだろうって。


 でも、ジーンズごしにお尻を這い回る蛞蝓のような感触。それは紛れもない本物で。私を性欲を満たす道具としか見ていないその手つき。私が小学生の時のことを思い出す。仲のいい男子とこちょこちょしあって戯れあっていたら、急に真顔になって。「なんかお前可愛く見えてきたわ」とか言って、私を押し倒して。無理やりキスをしてきた彼。親友だと思っていた彼がかつて私に向けた目を思い出す。温度を感じない唇に、ぬめりと熱い舌の感触。あの感触を思い出してしまう。


 うっぷ。思わず込み上げてきた酸っぱいものを慌てて飲み込む。喉が焼ける嫌な感覚。なのに、這い回る手は一向に止まってくれなくて。あの時はやめてって叫べた。ビンタもできた。何より周りの人が引き剥がしてくれた。


 でも今は。周りを見る。誰もが目を閉じ眠そうにしているか、手元のスマートフォンだけをみている。誰も気づかない。この痴漢が私を触っていることに気づかない。解決策はわかってる。やめてって叫べば良い。助けてって叫べば良い。それはわかっている。わかっているのに、口ははくはくと声にならない悲鳴をあげるだけで。


 抵抗しないと思われたのか、触る場所はどんどん大胆に。荒い息遣いすら聞こえてきそうな具合。


 でも。抵抗なんてできなかった。何で私が触られているのかわからない。今まで痴漢になんてあったことないのに。何で私なんかにこんなに興奮しているのかがわからない。今何をされているのか理解が追いつかない。あるのは無数のどうして?のみ。何で私が、そんな思いすら湧いてくる。なに、なんなの。そんな言葉だけがリフレインする。


 そして怖い。頭が真っ白になるぐらい怖い。今何をされているのかわからないという怖さ。何が起こっているかわからないという怖さ。それに昔みたいに抵抗して、万が一逆上させたら。私を触る手はがっしりとしていて、力で勝てるわけなんかない。それに万が一異常者で、刃物なんか持っていたら。死にたくない、死にたくなかった。こんなところで死にたくかった。痴漢なんかする人間だ、異常者に決まってる。怖かった。どうしようもないほどに。助けて欲しい。引き剥がして欲しい。そう思っているのに、ひゅ、ひゅと喉は掠れたような悲鳴をあげるだけ。振り払おうとする身体も呪縛されたように動かない。視界が滲み、世界はぐるぐる回る。私を触る手の感触しか感じられない。


 どれほどの時間が経っただろう。「西院、西院」のアナウンスと共に列車のドアが開く。人波に押し出されるようにして出たホーム。誰もが無関心に足早に改札へと向かう。そこで、ようやく私を触る手がない事に気づいた。


 7.

 駆け込んだトイレで個室に鍵をかけると、私は吐いた。げえげえ、げえげえと。そして泣いた。声を出したら迷惑をかけるから、自分の手の甲を噛んで声を押し殺して泣いた。えぐえぐと。メイクが落ちるんじゃないかってぐらい泣いた。散々に弄られた下半身。気持ち悪かった。情けなかった。悔しかった。汚されたと思った。何で私がこんな目にと思った。下半身を弄る手の感触が残っているような気がして、気持ち悪くて気持ち悪くて、何度も吐いた。夜学食で食べた、溶けかけの生姜焼きが流れていった。やがて吐くものがなくなって、胃液どころか唾液ぐらいしか出るものがなくなったころ。私はペタリとトイレの床に座り込んだ。


 誰かと話がしたかった。私はまだ汚されてない、よごされてないと認めてくれる誰かと。大丈夫?と抱きしめてくれる誰かと。


 両親に、祖父母にこんな話をしたってわかってくれないのはわかってる。だから友達をたよる。そして出てきたLINEの友達一覧をスクロール。こんな時に電話しても良さそうな子の名前を探す。弱みを見せても、守ってくれそうな子の名前を。香澄ちゃん。却下。最近連絡をとってない。美優。却下。サークルが同じだけ、そこまでは頼れない。真由美先輩。却下。心配をかけたくない。沙也加。却下。部活引退以来ご無沙汰だ。却下、却下、却下。


 どれだけの友達を却下し続けただろう。私はふと、スクロールバーがこれ以上動かない事に気づいた。却下して却下して却下して、電話できる子がいない事に気付いた。助けてくれる子がいない事に、気づいた。


 どうしよう。私はポツリと呟く。誰にもつながらないスマホを片手に、私はただペタリとトイレの床に座り込むことしかできなかった。







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