永遠の帰宅部員

尾久沖ちひろちゃん

永遠の帰宅部員

 時刻は十六時三十分。


 眩しい西日が、白い校舎を鮮やかなオレンジ色に染め上げる頃。


「起立、礼」


 日直の挨拶と全員の一礼で、今日のホームルームは終わり、タイミングを合わせたようにチャイムが鳴り響いた。


 大きな傷と黒ずんだ染みが付いた通学鞄を手に、僕は席を立つ。


「それじゃあ、さようなら」


 去り際に隣の席の、名札に【渡辺】と記された女子生徒に挨拶したが、彼女の視線は部活動で使う画材に向けられており、全くの無反応。


 これはいつもの事なので、別に気にならない。


 元より反応など期待していない。


 教室を出たその足で、僕は脇目も振らず正面玄関へ向かった。


「さっき先輩から聞いたんだけど、明日からテスト期間で部活休みになるだろ? だから今日は練習倍だってよ」

「うわー、マジか。遅くなるって家族に連絡しとかねーと」


 道中、他の生徒達の楽し気な会話が耳に入って来る。


「部室に顔出さなくていいの?」

「いいのいいの。どうせ私、幽霊部員だし。しばらくはテストに集中したいな」


 他の生徒は皆、それぞれの部室を目指して移動するが、帰宅部の僕はただ帰るだけ。


 下駄箱の一番隅、ネームプレートの無い扉を開けて取り出したのは、他の生徒が通学用に履く革靴ではなく、陸上競技用の運動靴。


 まだ履かない。


 適当な場所に腰掛けて、布とブラシで丹念に磨く。


 綺麗に磨いたからと言って、歩く速度が上がったり、履き心地が良くなったり、誰かに褒められたり、なんて事は無い。


 しかし、野球部員がバットとボールの、サッカー部員がサッカーボールの、美術部員が画材の手入れを怠らないように、帰宅部の僕は帰宅時に使う靴の手入れを怠らない。


 これは日課であり、願掛けだ。


 磨き終えた靴に、傷んだ靴下を履いた足を入れ、靴紐をしっかりと絞め直し、堂々と校舎を出る。


 正門を出る手前で立ち止まり、小さく深呼吸。


「さあ、帰ろう――」


 一歩、踏み出して門を通過したその途端、辺りの空気が変わった。


 夕陽の暖かさが一転、真冬のような冷気が襲い来る。


 物理的に肌寒くなった訳ではない。


 精神で感じる寒さだ。


 これもいつもの事だが、こればかりは何度繰り返しても慣れはしない。


 まずは素早く、前と左右の安全確認。


 滅多に無い事ではあるが、この時点で見つかってしまう時もあるので、油断は禁物だ。


「よし……」


 そろりそろりと、慎重に自宅の方角へ歩き出す。


 電柱から電柱へ、素早く移動して身を隠す。


 通りすがりの飼い犬が僕の足元でマーキングしたけど、気にしない。


 次の柱に移る前に、もう一度辺りを確認して――


「……ッ!?」


 チラリとだが、百メートル程先に「奴ら」が見えて思い留まった。


 馬鹿正直に自宅までの最短ルートを進めば、五分としない内に「奴ら」に見つかってしまう事は、これまでの経験で嫌と言うほど知っている。


 急がば回れ。


 遠回りこそが最短の道。


 だから、信号待ちをしていた軽トラックの荷台に飛び乗って、うつ伏せになって身を隠した。


 発進した軽トラックが真横を通り過ぎたが、「奴ら」は僕の存在に全く気付かない。


 元々、本能だけで動いている連中なので、欺く事はそう難しくない。


「ふぅ……」


 自宅との距離は離れてしまったが、時間はどんなに掛かっても構わない。


 街の外には出られないが、数日掛けて遠回りした日もある。


 空腹と疲労と眠気に悩まされる事が無いのは有り難い。


「奴ら」との遭遇率が比較的高い市街地から充分に離れた所で、軽トラックから降り、今度は畑に身を隠す。


 芋虫のように地べたを這いずりながら様子を窺い、安全が確認できたら素早くダッシュ。


 畑のように、だだっ広く遮蔽物が少ない、見通しの良い場所は見つかり易いが、逆にこちらから先に「奴ら」を捕捉し易いというメリットもある。


 遠くに「奴ら」らしき影がチラリと見えたが、この距離なら問題無い。


 街の地理や時間毎の道路交通状況、バスの時刻表など、帰宅に役立つ情報は全て頭に入っている。


 車道を挟んだ先のバス停に、あと五分でバスが到着する。


 あれに乗れば自宅まで一気に近付ける上、「奴ら」はバスの中にまで入って来ない。


 バスが到着する一分前まで隠れていようと思ったら、すぐそこのファミレスの角から、「奴ら」がひょっこり出て来た。


「あっ」


 目と目が合った途端、「奴ら」が猛獣の如く走り出す。


 当然、僕も脱兎の如く逃げる。


 これでも元陸上部なので、足の速さには多少自信がある。


 残念ながら大会に出場した経験は無いけど、少なくとも「奴ら」よりは速い。


 多少は距離があった事も幸いした。


 相手が単独であれば逃げ切る事は難しくないが、この分ではバスに乗り遅れてしまいそうだ。


 と、次の瞬間、


「しまった……!」


 角を曲がった瞬間、その先に居た「奴ら」と目が合った。


 我ながら運が無い。


 再び逃げなければならないが、かと言って来た道から先程の「奴ら」が来ている以上、引き返す事もできない。


 完全なる挟み撃ちだ。


 昨日と同じパターンだが、僕は素早く打開策を講じた。


 すぐそこに荷下ろし中のトラックが停まっていたので、車体の下に入ってしがみ付いたのだ。


 数秒遅れて「奴ら」が来たが、どちらもキョロキョロとするばかりで、隠れた僕に気付かない。


「奴ら」はしばらく辺りを見回した後、諦めたように元来た方向へ去って行った。


 危ない所だった。


 ギリギリまで待ってからトラックから出て、例のバス停へ急いだ。


 到着した瞬間、丁度バスが到着した。


「何とか間に合ったな……」


 並んでいたお婆さんが、ゆったりとした動作で整理券を取っている隙に、僕は車内に身を滑り込ませた。


 シートには座らず、外の「奴ら」から見られないように床に腰掛ける。


 これでしばらくは安心だ。


 バスを降りた後も、真っ直ぐ家には向かわず、迂回する。


「奴ら」との遭遇率が最も高いのは、やはり自宅周辺だ。


 既に太陽は沈み、辺りは真っ暗。


「奴ら」を捕捉しにくい時間帯なので、今まで以上に慎重な行動が求められる。


 時間を掛けてじっくりと進んでいると、とある交差点に到着した。


 他の人にとっては、何の変哲も無い普通の交差点だが、僕にとっては特別な場所だ。


 この場所に来る度に、あの日の事が脳裏に甦る。


 甲高いブレーキ音と衝撃音、


 通行人の悲鳴、


 群がる野次馬、


 救急車のサイレン、


 踏み潰された鞄と革靴、


 アスファルトに広がって染み込んだ、大量の――


 そこまで思い出してしまった所で、僕は我に返り、「奴ら」の姿が見えないか警戒に戻る。


 幸いにも「奴ら」は居なかった。


 気を取り直して、僕は再び進む。


 道行く人も次第に少なくなり、いつの間にか辺りには僕一人だけとなった。


 家々の敷地内を進み、壁をよじ登り、時には屋根から屋根へ飛び移って進む。


 何度か落ちてしまう事もあったが、味わうのは軽い痛みのみ。


 どんなに無茶をしても、捻挫や骨折といった大怪我を負う事が無いのは有り難い。


 それよりも、音や声を聞き付けられないかの方が心配だ。


「奴ら」は知能こそ低めだが、視覚や聴覚は結構良いのだ。


「見えた……!」


 二十二時を過ぎた頃。


 遂に我が家の屋根が見えた。


 二階の部屋が明るい。


 きっと部屋の主は、テスト勉強の最中なのだろう。


 自宅まで、残り十メートル。


 辺りを見回して「奴ら」が居ないか確認しながら、慎重に慎重に、家へ近付く。


 ようやくだ。


 ようやく帰れる。


 胸が高鳴る事は無いが、それでも興奮はする。


 残り三メートル。


 今日こそは言うのだ――「ただいま」と。


 手を伸ばし、インターホンを押そうとしたその時、


「え……」


 がしっ、と手首を掴む黒い影。


「奴ら」が、すぐそこに居た。


 夕陽を浴びて浮かび上がる人影がそのまま立体化したかのような、夜の闇よりも更に真っ黒なそいつが、顔の無い顔面でじっと僕を凝視していた。


「そんな……どこから……ッ!?」


 夜は真っ黒な「奴ら」の視認が難しいとは言え、何度も周囲を見回していたのだ、見落とすはずが無い。


 そこまで考えて僕は気付いた。


「まさか、隣の家の玄関に隠れていたのか……!」


 盲点だった。


 氷よりも冷たい手によって、僕の体が凍り付いたように硬直する。


 こうなると、もうどうしようも無い。


 物凄いパワーで引き摺られていく。


「畜生……ッ、あと少し、だったの、に――」


 必死に手を伸ばすが、所詮それも空しい行為。


 僕の意識が遠ざかり、【渡辺】の表札が掲げられた我が家も、瞬く間に遠ざかっていった――。




 気が付けば、時刻は午前八時二十分、登校の時間帯だ。


 挨拶を交わして、生徒達が正面玄関に集う。


 そんな中、僕は校舎を見上げ、銅像のように呆然と立ち尽くしていた。


 既に「昨日」は終わり、「今日」が始まっていた。


「……また、いつも通り、か……」


 落胆の溜め息を吐いて、僕は教室へと歩き出した。


 下駄箱の一番隅、ネームプレートの無い扉に陸上競技用の運動靴をしまい、内履きに履き替える。


「お早う」


 教室の自分の机に腰掛けて、ホームルームが始まるまで、隣の女子の様子をぼんやりと眺めていた。


 しきりに欠伸をしている所を見ると、あの後もしばらくテスト勉強に励んでいたのだろう。


 その内担任教師が来て、ホームルームが始まった。


「出席を取るぞ。――相田」

「はい」

「淡田」

「はい」

「飯山」

「はい」


 担任教師が、生徒の名前を呼んで出席簿に印を付けていく。


「渡辺」

「はい」


 最後に、隣の彼女が返事する。


「よし、全員居るな」


 二年C組の生徒、全三十三名の名が呼ばれたが、僕の名前は呼ばれない。


 ホームルームが終わり、一時限目の数学が始まる。


 先生が数学のプリントを配り出したけど、僕の分は無い。


 鞄の中に教科書もノートも入っているけど、取り出す意味は無い。


 傷と血の染みが残る鞄からではなく、タイヤ痕が残る制服の内ポケットから、代わりに僕が取り出したのは、この街の地図。


 赤や青のペンで、びっちりと書き込みがされたそれに、昨日通ったルートを思い出しながら書き足していく。


「あと少しだったのに……僕もまだまだ甘いな」


 惜しくも失敗した事への悔しさは既に無い。


 いつもの事だ。


「タイムは六時間二十三分十四秒。移動距離は十キロと四〇五メートル。道中で確認できた『奴ら』の数は二十三。目撃地点は……」


 授業とは全く関係の無い作業を、ブツブツと独り言を呟きながら没頭していても、誰も僕を気に留めない。


 そう、いつもの事だ。


「正面から行こうとしたのが失敗だったな。隣の家から塀を越えたり、屋根を使うべきだった……」


 体育の時間になって皆が教室を離れても、休み時間になっても、昼食や掃除の時間になっても、僕はひたすら帰宅計画を練り続ける。


 そんな僕に、誰も依然として目もくれず、机も片付けようとしない。


 誰にも意に介される事が無いまま、今日の放課後が訪れる。


 時刻は十六時三十分。


 眩しい西日が、白い校舎を鮮やかなオレンジ色に染め上げる頃。


「起立、礼」


 日直の挨拶と全員の一礼で、今日のホームルームは終わり、タイミングを合わせたようにチャイムが鳴り響いた。


 大きな傷と黒ずんだ染みが付いた通学鞄を手に、僕は席を立つ。


「それじゃあ、さようなら」


 去り際に隣の席の女子生徒に挨拶したが、昨日と同じく彼女は無反応。


「渡辺さん、一緒に帰ろ」

「ええ」


 友達に声を掛けられて、彼女は席を立った。


 今日も彼女は、夜遅くまでテスト勉強に励むのだろう。


 きっとまた学年一位になるのだろうな、と予想する。


 今日からテスト期間、部活動所属の生徒も、この期間だけは放課後すぐに自宅を目指す。


 生徒達は、テスト勉強面倒臭いな、部活動やりたいな、今日の夕食は何かな、とか、他愛無い想いを抱きながら、それぞれの自宅へ帰るのだろう。


 二十年前、テスト期間になって陸上部の活動が休みになったあの日の僕も、そんな風に家を目指していた。


 両親と姉が待つ我が家へ、いつも通り帰るはずだった。


 しかし――


 その日を最後に、僕の帰宅を待ってくれる者は、この世から完全に居なくなった。


 両親は未だあの家で暮らしており、同居する姉とその夫は出来の良い娘を授かった。


 悲劇は過去のものとなり、家族五人で幸せな日々を送っている。


 何よりだ。


 しかし、街中を彷徨う「奴ら」に捕まる度に翌朝の学校まで連れ戻され、この二十年間、僕は家族が暮らす家に一度として帰れていない。


 帰り付く事さえできれば、繰り返される孤独な日々は終わり、永遠の安息を迎えられる。


 僕は永遠の帰宅部所属、その幽霊部員。


 いつか帰宅できる日を夢見て、今日も今日とて活動に勤しむ。


 どうか、今日こそは帰れますように……。

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