木枯らしと愛

菊池浅枝

木枯らしと愛



 有希子のマフラーは短い。

「寒い」

 呟いた声は白い煙になって、消えた。遊ばせたジョッキーブーツの足先は冷えて、泣きそうになる。枯葉が細切れで美しくなかった。

 誰だパリは美しい街だとか言った奴は。これじゃ日本のこたつのある部屋に大差で劣るじゃないか。

 有希子は口の中で今にも飛び出しそうな不平を黙々と噛み殺した。

 有希子の手に手袋はない。いつだって素手でいるのが有希子の信条だった。けれどものすごく寒かった。気温は十度以下だし、さっきから風が有希子の横っ面を叩いていくのだ。冷静に自分が今いる状況を考えると、こらえた涙がさっきよりも倍の力で押し寄せてくる。

 パパにここで待つようにと言われていた。パリの、どこなのかは全然知らない小さな公園の隅のベンチ。白のダッフルコートに十二歳の子供には似合わないジョッキーブーツを履かせて、パパはママと話をつけに行った。有希子を置いて。有希子に、何時に迎えに来るかも言わず、ただ有希子を置き去りにして。

 有希子は辺りを見回す。公園には何もない。石畳の散歩道があるだけで、そこに葉を落とした木々が並んでいるだけで、何もない。風よけになりそうなものもないから、七、八分に一人の割合で目の前の道を通り過ぎる人を、有希子は風に叩かれながら一喜一憂の目で追いかける。パパが歩いていった方向に向け続けた首が悲しくなって、正面に戻す。それを繰り返す。

 もう、二時間もここにいた。ママは、二度目のママだ。有希子を生んだ人じゃない。 パパとパリで知り合って、日本に数回来て、そして来なくなった。ママ、と呼んでいるけれど、有希子はそのママの顔をはっきりとはおぼえていない。

 風が吹く。泣きたくても、意地と見知らぬ外国の土地が有希子の唇を閉ざさせた。ただ、詰まるような息で、目で、少しずつ体の中から押し出していくしかなかった。

 もうすぐ、二時間半。

 不意に、このままパパは帰ってこないんじゃないかと思った。パリに有希子を連れてきたのは初めてだった。どうして日本の家で待たせなかったんだろう。あそこなら、こたつもあったし、おばあちゃんも様子を見に来てくれたのに。一度目の時は、そうだったのだ。最初のママがいなくなった時は。そして、最初のママがいなくなった時、パパは数ヶ月帰ってこなかった。

 ――そんな事はない。いくらなんでも、そんなことパパはしない。

 有希子は自分の突飛な発想を笑った。同時にすごく情けなくなった。

 いつまで経っても帰ってこないパパが悪い。

 そう思う。パリになんか連れてきた、パパが悪い。

 木枯らしが吹く。たまらなくなって、有希子はついに唇を開く。

「寒い。寒い寒い寒い寒いさーむーい寒いー」

 足をバタバタさせる。素肌をさらした手を叩く。そうやって、自分がここにいることを強調する。確認する。誇示する。

 パパが悪かった。

 大好きだと言ってくれるのにいつも置き去りにするパパが悪かった。

 大好きだと言ったことはないけど、いつもずっとパパを待ってる自分が馬鹿だった。

 声を上げて泣けない代わりに、自分を馬鹿だと認めるために、そしてそれでも思い出してと叫ぶように、有希子は「寒い」を連呼し続ける。パパ、とは意地でも言わなかった。いつかは有希子の方がパパを置いていく。そう決めてるから、だからパパをつけ上がらせちゃいけないのだ。

 どぉ、と一際強い風が吹いた。体にぶつかるようなそれに、有希子は思わず声も動きも止めて目をつむる。

 細切れの木の葉が舞い上がる。数枚が髪に引っかかる。息を詰める。短いマフラーがとれそうになる。やがてゆっくりと、風は通りすぎて消えてゆく。有希子は、風が完全に止まるのを待った。

 目を閉じる一瞬前に、見覚えのある大きな灰色のコートを、視界の端に捉えていた。



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木枯らしと愛 菊池浅枝 @asaeda

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