第4話

夏目はアイスペールから取り出した氷を氷嚢に入れ龍二に差し出した。

「すみません、親父」

受け取った氷嚢をまだ熱を帯びる左頬に押し当てながら、龍二は申し訳なさそうに礼を言った。

「気にするな。ついでだよ」

そう言うと夏目は再びアイスペールから氷を取り出しグラスに入れ、ウィスキーのボトルに手を伸ばした。

「水割りなら俺が作りますよ」

「いいから。怪我人は大人しくしてなさ」

「でも、何もせずにここに居るのはちょっと気が引けるというか」

「私の相手をしているじゃないか。もっと堂々としてなさい」

顔の腫れが引くまで客前に立つことを禁じられた龍二は2部のホストの客だけが使用する2席、所謂vip席で肩身を狭くしていた。

「2階に来るのは久し振りか?」

「充さんの派閥に入っていた時はヘルプとしてよく2階席にもきてましたけど」

「充か。懐かしい名前だな。確かヒモにしてくれる女を見つけてホストから足を洗ったんだったな」

「ええ。今もあの女と続いているんですかね?店を辞めたらみんな音信不通になっちゃうから生きてるかどうかも怪しいですよ」

裏社会に足を踏み入れしまった人間が社会復帰する上で一番大切なことは、過去と決別することである。

表の人間に戻ったら自分がホストをしていた事は絶対に周囲の人間に口外してはいけないし、昔の仲間とも関わってはいけない。

もし街でばったり出くわしてしまった時は、声もかけず互いに知らん顔をして素通りする。

初めてその流儀を教わったとき、なんて薄情な連中だと思った龍二だったが、8年も身を置いた今はすっかり人間関係が希薄なこの世界に順応してしまった。

彼はいつからか、同じ店で働くホスト達とは一定の距離を保ち付き合うようになった。

別れが淋しくならないように、誰とも仲良くならないようにしたのだ。

「それにしてもリチャードには驚かされましたね。とても同一人物には見えませんでしたよ。背が高い事は分かってましたけど、猫背とおどおどした動作のせいでひょろ長くて気持ち悪い奴って感じがしたし、前髪で顔を隠しているのだって醜い見た目をしているからだろうって決めつけてました」

そう考えていたからこそ、龍二の頭にはある疑問が浮かんでいた。

何故リチャードはあれほど優れた容姿を隠していたのだろうか。

あの見た目さえあれば2部で人気ホストになることだって夢ではない。

いや、ホストにならなくたって普通に生きているだけであらゆる恩恵を受けることが出来るだろう。

一体何のために顔を隠す必要があるのか・・・。

「小田には形一、いやリチャードを拾ってきたと言ったが、実はあいつは私の友人の息子なんだ」

「えっ!?」

まるで龍二の疑問に答えるかのように夏目は問わず語りを始めた。

「彼女は・・・リチャードの母親は私が通っていたダンス教室の講師をしていた。美しく、情熱的で、ダンスの才能にも溢れた素晴らしい女性だったよ」

「・・・そうですか」

だった、という過去形から龍二はある事を察した。

「美人薄命とはよく言ったものだよ」

「亡くなったんですね?」

「ああ。半年前に。交通事故だったから本当に突然の事だったよ」

「その時リチャードは?」

「まだ高校生だった。卒業後は母親の仕事を手伝いながらプロのダンサーを目指すつもりだったらしいが、その計画も全てパアになってしまっておばあさんと二人、路頭に迷う寸前のところまでいってしまった」

「それでホストに?」

「あの調子じゃまともな仕事に就けないだろうからな」

「どうしてリチャードはああなってしまったんですか?母親が死んだ事と何か関係があるんですか?」

矢継ぎ早に質問を投げ掛けた直後、龍二は自分の失言に気が付いた。

ホスト同士、互いの過去やプライベートに干渉してはいけない。

龍二は越えてはいけない一線を越えようとしていた。

「すみません。こんなこと聞いたらルール違反ですよね」

聞かなかった事にしてください。

そう言って龍二が自分の発言を取り消そうとした時、夏目が深刻そうな表情で口を開いた。

「日本での社交ダンスの地位の低さをお前は知っているか?」

「は、はい。聞いたことくらいは、あります」

思いもよらない切り口で話がはじまり龍二は少し狼狽えた。

「日本では長い間、見ず知らずの男女が抱き合って踊る社交ダンスはいかがわしいものとされ忌み嫌われていた。社交ダンスを踊る場は売春の温床になっている、それが一昔前の日本の常識だったんだ。戦後に風営法が制定されると社交ダンスは取り締まり対象にされ、飲食も提供しない普通のダンス教室すら国家権力の監視の目に晒されるようになった」

「そう言えば2年前に風営法の一部が改正されるまで、未成年者はダンス教室に足を踏み入れる事さえ禁じられていたんですよね?」

「ああ。イギリスでは義務教育として社交ダンスを子供達に教えているのに、日本では子供がダンスを踊ることを法律で禁じていたんだ。日本という国でダンスを生業にして生きていた人間は、程度の差はあれ皆色眼鏡をかけて見られた。ダンスホールで働いているダンサー崩れは勿論、ダンス教室の講師さえ堅気の人間として扱われないこともしばしばあった。じゃあ彼等の子供は世間からどう扱われるか、お前には分かるか?」

そあ問われた龍二は、1部のホストになってから通い始めたダンス教室で同じレッスンを受けていた上品な老婦人から聞いた話を思い出した。

「そう言えば親がダンスの先生をしていると子供がいじめに遭うことがあるって聞いたことがあります。あっ!もしかしてリチャードもいじめられてたんじゃないですか?それであいつはあんなに・・・」

まともな会話も困難なほどの社交性の欠如。

他者の視線を遮るかのような長い前髪。

異常なまでの挙動不審な態度。

リチャードはいじめを受けたせいであんな人間になってしまったと考えたら全ての辻褄が合うような気がした。

「いや、リチャードはいじめられていた訳じゃない」

「えっ?でも、」

「あいつが受けたのはいじめなんかじゃない。迫害なんだ」

「迫害?母親がダンス講師をしているってだけで?」

「あいつの場合それだけが原因ではない。外国の血が入っている上に父親まで居なかった。普通という枠組みから大きく外れていたんだ」

「外国の血が・・・」

「爺さんがアメリカ人らしい。今はそこまででもないが子供の頃はもっと外国人らしい見た目をしていたんだ。父親が不在で母親はいかがわしい仕事をし、見た目は周りの子供たちと随分違う。これだけ条件が揃えばあいつが子供の頃からどういう立場に置かれていたのか容易に想像出来るだろう。近所のおばさん、学校の先生、クラスメイトとその保護者。皆がリチャードな白い目を向けていた」

口を開く度に英語を喋れと詰められたせいで日本語もろくに喋れなくなってしまったこと、見た目のせいで仲間はずれにされているのだと思い長い前髪で顔を隠すようになったこと、普通にしようと意気込むものの普通がどういうものなのかが分からずに結局パニック状態になってしまうこと。

夏目はリチャードの19年間の歴史を詳らかに龍二に打ち明けた。

「リチャードにとって日本語を喋る事は外国語を喋るよりも難しい。その原因の一つにあいつ自身が言語を介してのコミュニケーションを端から諦めてしまっているということもある。どうせ何を言っても分かってもらえない。受け入れてもらえない。心が通じ合うはずがない、と」

「まあ、でも・・・今までの話を聞く限りじゃそういう心境になるのも無理はないと思います」

「そうだな。でも、あいつが凄いのは言語のコミュニケーションを諦めただけでは終わらないところだ」

「それは・・・どういう意味ですか?」

夏目は龍二の問いには答えず静かにソファから立ち上がると、1階のフロアが見渡せる場所まで行き『お前も来い』と言わんばかりに龍二に目配せをした。

既に1部の営業が始まっている1階フロアでは、ステージ上の生バンドの演奏に合わせホストと客達がダンスタイムを楽しんでいた。

「あっ!そう言えばリチャードは!?」

夏目と一緒に2階へ上がって来る前、リチャードは小田に連れられバックヤードに消えていった。

ホストとして働く上で、小田から諸々の説明を受けたのだろうが、それからリチャードはどうなったのか。

やっぱり無理、なんて言い出してまた家に帰ってしまったんじゃないだろうか。

龍二は目を凝らして広い店内から必死にリチャードの姿を探した。

すると、

「ほら、あそこ」

と、夏目がある方向を指差した。

「っっ!?」

龍二は絶句した。

夏目が指す方向に確かにリチャードはいたが、彼を引き連れている小田がぺこぺこ頭を下げている先に湯川真弓の姿があったからだ。

「よ、よりにもよって湯川のババアが相手かよ。最悪だな」

龍二は夏目の前ではっきりとそう口にしてしまった。

隣から無言の圧力と鋭い視線を感じたが、彼が思わず客の悪口を言ってしまったのにはそれなりの理由がある。

医者の一人娘として何不自由なく育てられ、現在は湯川整形外科の院長婦人の座に収まっている彼女は、乗馬、茶道、華道、そして社交ダンスを嗜む有閑マダムであった。

豊かな財力と有り余る時間の大半を優雅な習い事に費やす彼女が特に力を入れているのが社交ダンスであったのだが、その実力はレッスン代をどぶに捨てていると1部のホスト達から揶揄されるほど惨憺たるものだった。

だが当の本人はその事実に気が付いていないらしく、自分がうまく踊れないのはホストのせいだと決めつけダンスタイムが終わった後は相手を努めたホストに当たり散らす始末だった。

「親父。リチャードにあの人の相手は無理ですよ」

「何故だ?」

「酷いんですよ、あの人。足を踏む、全然動いてくれない、両手でがっしりしがみついてくるからこっちも動けなくなる、そして終わったら俺達のせいで全然気持ちよく踊れなかったって文句ばっかり言われて、1部のホスト達は誰が彼女の相手をするかでいつも揉めています」

「ふうん。小田からは何となく聞いていたが、そんなに酷い人なのか。それなら尚更リチャードに任せた方が良いだろうな」

「親父!?何を言っているんですか?湯川さんは、」

「龍二、口を慎みなさい」

「す、すみません」

てっきり客を悪く言ったことを咎められたと思った龍二だったが、夏目の真意は違った。

「せっかくのリチャードのダンスが楽しく見れないじゃないか」

夏目はそう言うと、湯川の手を引いてダンスフロアまでエスコートするリチャードを真剣な眼差しで見詰めた。

驚いた事にリチャードはダンスフロアの上では実に堂々とした男だった。

王者の風格、なんて言えば少し大袈裟かも知れないが、まるで空間を支配するような観るものを惹き付ける特別なものを龍二は感じた。

「何か、リチャードじゃないみたいですね」

龍二がぼそっと呟くと、夏目は含みのある笑みを浮かべながら

「驚くのはまだ早いぞ」

と言った。

龍二がその言葉の意味を理解したのはその直後のことだった。

「ど、どういう事ですか?あれは、」

その時ステージのバンドが演奏していたのはミュージカル、レ・ミゼラブルの劇中歌の中でも特に人気が高い〝I dreamed a dream〟(夢破れて)

ワルツによく合う曲だと夏目が大層気に入っており、度々専属バンドに演奏させているカペラお馴染みの一曲である。

哀愁漂う物悲しい旋律に合わせ思い思いの一時を楽しむホストと客。

完全に二人だけの世界に入っているペアもいれば、ダンスそっちのけで抱き合ったまま お喋りに興じているペアもいる

だが、龍二の目に映っていたのはたった一組、リチャードと湯川のペアだけだった。

「し、信じられません・・・リチャードが、いや、湯川さんがあんなに上手く踊れているなんて」

「違う、龍二。湯川さまは踊れているなんて訳じゃない。踊らされているだけだ」

「踊らされている?」

「社交ダンスの世界には踊らせる男と呼ばれるダンサーがいる。その名の通り、面白いくらいに女を踊らせることが出来る男のことだよ。彼らの手にかかればどんなに下手くそな女でも、ステップもろくに知らないずぶの素人でも熟練者のように踊れてしまう。まるで魔法をかけられたかのように」

「まさか。そんな都合の良い話がありますか?」

「それがあるんだよ。お前も知っての通り社交ダンスというのは男がリードして女がフォローするリード&フォローによって成り立っている」

「ええ、知っていますよ。ダンス教室に行けば最初に教えてもらう事じゃないです」

社交ダンスにおける男の役割とは、進行方向、ステップ、ターンのタイミング等を考えてどのように踊るかを決め、そのプランを相手の女性に伝えることだ。

伝えるといっても口で直接教えるわけではない。

そして相手の体を力ずくて動かしてもいけない。

正しいリードとは、全身を使って自分の気持ちを相手に伝えることだ。

例えば相手に後退して欲しければ自分の体の重心を前に傾ける、反対に前進して欲しければ今度は体の重心を後ろに傾ける、といった具合にほんの僅かな合図を相手の女性に送るのだ。

言ってみれば、言語を用いない究極のコミュニケーションなのである。

龍二は初めてのダンス教室で最初にその説明を受けた際、それがどんなに難しいことなのか理解していなかった。

むしろ話を聞く限り、簡単そうだ、ダンスなんて楽勝だ、とも思った。

だが、彼はすぐに厳しい現実に打ちのめされた。

リードが相手の女性に伝わらないのだ。

ダンス教室で先生相手に踊っている時は何も問題が無いのに、カペラで客相手に踊っていると一向に自分の意図を理解してもらえない。

下がって欲しいのに前に来られる、あっちに進みたいのに付いてきてくれない。

全然動いてくらないから、つい力ずくで相手の体を動かしてしまう。

すると当然の事ながら「痛い」「やめて」と怒られる。

よくよく考えてみれば、ダンス教室の先生はそもそも一般人とは桁違いのフォロー力を持っているので、龍二がどんなに拙いリードをしても彼の意図をきちんと読み取ってそれに合わせて動いてくれていただけなのだが、未熟者な龍二煮はそんな明瞭な事実にすら気付くことが出来なかった。

Aさんとなら上手く出来ることがBさんとなら出来なくなる。

と言うことは、問題があるのはBさんなのだと決めつけて自分にもその責任の一端があるとは露程も疑わない。

龍二が抱えていたのはダンスが上手い、下手なんかの話ではなく、人間性の問題だったのだ。

「そうか。じゃあ俺は湯川さんと大差ない人間だったって事ですね。彼女が踊れないのは彼女に問題があるからだと、絶対に俺のせいではないって心のどこかで決めつけていました」

「そう自分を責めるな。社交ダンスを始めたら殆どの人間が通る過ちだ。それに彼女がろくにフォローを出来ない人間であることは確かだ」

「でも、リチャードのリードにはちゃんと応えられています」

「それはあいつのリードが普通ではないからだ」

「どう普通じゃないんですか?」

「さあな。私も一度だけあいつと踊ったことがあるが、正直何をされているのか理解が出来なかった。勝手に体が動き出すというか、自分の体が自分のではないみたいに踊り出してしまうんだ」

「リチャードはそんなに凄い奴だったんですか?あんな、まともに言葉も喋れない奴が」

「これは私の想像だが、人と喋れないリチャードにとってダンスは相手と気持ちを通わすことが出来る唯一の言語なのかも知れない。何をしたいのか、何を考えているのか、何を求めているのか、ダンスを通してなら相手に伝える事が出来るのだろう」

夏目の言葉通り、リチャードのダンスは確実に固く閉ざされた湯川の心をこじ開けようとしていた。

〝今日も素敵なお召し物ですね〟

〝髪型を変えたんですか?よくお似合いです〟

〝いつも若々しくて本当に素敵ですね〟

ご機嫌取りの言葉をいくら並べても仏頂面を貫き、ダンスを踊れば般若のような顔で怒る彼女が、リチャード相手に伝える頬を緩ませ慈母のような優しい笑みを浮かべてるのだ。

「親父。一体リチャードは・・・あいつは何者なんですか!?」

「今はまだ何者でなくていい。ただ何れ、そう遠くない未来に、皆が口を揃えてこう言うだろう。〝彼こそホストの花形だ〟と」









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ホストの花形 秋ノ季凛 @kirin11

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