空白

@ninomaehajime

空白

 帰り道には空き地がある。

 私が住む住宅地の角地にある、子供の歯抜けにも似た空白だった。隣家の金網とブロック塀に仕切られ、実際の土地面積より窮屈に感じる。まばらに丈の長い草が生え、ところどころに砂利が混じった地面が覗いている。風にそよぐ草の先端に、茶色いトノサマバッタが止まっていた。

 もう長いあいだ買い手がついていないのだろう。「売地」と書かれた立て看板には赤錆が浮き、下部に記載されている不動産の電話番号は半ばかすれている。

 この町に引っ越してきてから、もう何年もその空き地を意識していなかった。自分が勤務する小学校の通学路にあり、当然徒歩で通勤している私の目に入っていたはずだ。なのに、今までその空白を認識することができなかった。

 ああ、きっとあのときからだ。何の変哲もない日常風景の中に、異物が出現した瞬間。

 私が暮らす地域は閑静で、住民同士などのいさかいはほとんど起こらない。それでも煙草の吸い殻や空き缶を道端に投げ捨てていたり、塀にくだらない落書きをする人々はいた。一定数の人間が集まれば仕方のないことなのだろう。

 そういった輩にとって、がらんどうの空き地は格好のごみ捨て場に見えたのかもしれない。野外で酒盛りでもしたのか、ビール瓶やワンカップ焼酎の容器が草むらに横たわり、古い週刊誌や新聞紙の束、果てはサドルが外れた自転車が野晒しになっていた。

 先述の通り、当初私は空き地の惨状に見向きもしなかった。きっかけになったのは、あの靴だ。

 私は手提げ鞄を持って通勤していた。頭上の電線で鴉が鳴いており、燃えるごみ袋を手にした主婦と軽く世間話をした。毎日同じ時間に家を出るため、すっかり顔見知りだった。鴉がごみ捨て場を荒らして困ると、愚痴をこぼしていた。

 話を切り上げて別れた。十字路を曲がった先で、ふと違和感を覚えた。見慣れた住宅地の光景。年季の入った木造の家々に、ガレージを備えた新築の住居が共存している。赤いペンキが剥がれかけた郵便ポスト。塀の上には、この辺りを縄張りにしている黒ぶちの野良猫が寝そべってあくびをしていた。

 平素と何ら変わらない。きっと思い過ごしだろうと歩き出したとき、視野の片隅に何か奇妙な物体が映った。眼球が吸い寄せられて、そこで初めて空き地の存在を認識した。

 軽い驚きとともに、私の視線はある一点に注がれていた。職業柄、日常的に目にする。だからこそ異彩を放っていた。

 上履きである。大きさからして、小学校低学年の履くものだろう。児童が校内で履き替える上履きが片方だけ空き地の中に転がっていた。泥で汚れており、幾度か雨に晒されたのだろう。持ち主の姿はなく、視界内には片割れも見つからない。まるで何かを訴えかけるように、こちらに丸い履き口を向けている。

 なぜか目が離せなかった。上履き自体には何の変哲もない。常識的に考えれば小学校の児童が外に持ち出し、何かの理由でこの空き地に置いていったのだろう。ただ場違いで、どうにも薄気味が悪い。

 いかにも履き古された穴は暗闇をたたえ、その奥は見通せない。どこか得体の知れない場所に通じていそうな不気味な想像に駆られ、首を振った。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 早く学校に向かおうと視線を逸らす寸前で、上履きの中で何かがうごめいた。思わず注視すると、穴から細長い虫が出てきた。黒光りする胴体に赤い頭部、おびただしい対の脚をそなえている。

 かなり大きい百足むかでだった。おそらく上履きの中を仮の住処としていたのだろう。体節がある長躯をよじらせながら、まだ弱々しい日光に身を晒す。触角を震わせ、周囲を睥睨へいげいした。その無機的な単眼が私を捉えた気がして、生理的な嫌悪感を覚えた。

 幼少時、古い民家に住んでいた。畳敷きの部屋で遊んでいると、片隅に毒々しい色の百足が這いずり回っており、まだ幼かった私は悲鳴を上げた記憶がある。人の視線に敏感なのか、百足はすぐに箪笥の裏へ隠れた。

 あのときと同じく、上履きから出てきた百足は二又にわかれた尾を最後に、草むらの中へと消えていった。

 それだけの話だ。何かおかしなことが起きたわけではない。

 気味が悪い。ただ、そう思っただけだ。



 奇妙な噂がある。

 職員会議で問題になっていた。学校に対して不審者に関する問い合わせが相次いでいるのだという。

 昨今、 児童を標的にした性犯罪が後を絶たない。まさに言語道断である。子供たちは庇護すべき存在であり、我々大人が害することなどあってはならない。

 ともかく、保護者が我が子の安全に対して過敏になるのは当然であり、変質者が出没するとあってはいても立ってもいられないだろう。問題なのは、その頻度が尋常ではないことだ。

 昨年と比べて、ひと月の問い合わせが倍を優に超える。無論学校側は事実確認に追われ、児童に対して注意喚起を行なう。しかしながら実際に不審者が確認された事例は少なく、私が知る限りでは未成年が危害を加えられた事件はここ数年起こっていない。

 つまるところ大半が事実誤認なのである。酷い例となると、児童に挨拶をしただけで不審者と間違えられた人間もいる。地域の関わりが希薄な現代社会においてなお、異常な事態と言わざるを得ない。

 原因はわかっている。あの噂だ。

 町の住民のあいだで、とある誘拐事件の噂が囁かれていた。変質者によって男児が誘拐され、未だに犯人も被害者も発見には至っていない。さらわれた児童はすでに殺害されており、猟奇的な殺人者は次の標的となる子供を品定めしているという。

 根も葉もない噂話だ。警察によって事実確認が行なわれ、未成年略取が発生したという事案は一切ない。他愛のない家出が数件あった程度で、いずれも一日と経たずに保護者の元へ帰されている。

 保護者たちに対して、こういった説明を根気良く繰り返した。多くは信じてはもらえず、我が子の身を案じるあまりに逆上した母親が言った。

「警察が隠してるのよ。おおやけになればパニックになるから」

 ここまで来ると集団ヒステリーに近い。確かに誘拐被害者の身の安全が危ぶまれる場合、警察の要請で報道規制が行なわれることがある。だが、一般に公開されていない情報がここまで市井しせいに広まっているのはおかしいではないか。

 結局、保護者の強い要望に後押しされる形で、学校側は防犯対策に力を入れざるを得なかった。防犯ブザーの徹底、不審者に遭遇した場合の対処法を記したプリントを配り、集団下校を徹底させた。

 町を歩くと、児童公園や団地の広場は閑散としたものだった。大多数の子供たちは外で遊ぶことを禁じられ、遊具の類は錆びついて見えた。木製のベンチには、暇を持て余した老人が新聞を広げている。

 子供連れの母親をほとんど見なくなり、町は年老いた印象を受けた。猜疑さいぎ心に満ち、常に隣人を見張っている。さながら魔女裁判で密告は後を絶たない。しかし、魔女は存在しないのだ。

 私はこの現象に興味を抱いた。架空の誘拐事件を恐れる住民たち。噂が蔓延するに至った下地があるのかもしれない。

 放課後、まだ廊下でお喋りをしている三人組の児童がいた。一人は赤いスカーフを首に巻いた女の子で、男子二人に何事かを熱弁している。私は眉をひそめた。部活動でもなければ、校内に残ることは禁じられている。子供たちを叱ろうとして、少女が発した言葉が耳に入った。

「だから、カケルくんは殺されたんだって」

 随分と物騒な話をしている。漫画か小説の話題だろうか。ともかく、私は三人組に早く下校するようにうながした。彼らは渋々といった様子で廊下を歩き去ろうとする。ただ、少女が発した「カケルくん」という名前が妙に心に残って、つい好奇心で聞いてしまった。

「その、カケルくんって何だい」

 どうやら赤いスカーフの少女は噂好きらしく、瞳を輝かせて怒涛のごとく語り出した。私は己の浅はかさを悔いることになった。

「カケルくんはね、かわいそうな子なの。少し頭が遅れててね、そういう子たちが集まる特殊な学級にいたの。背が高いけど頭でっかちで、母子家庭だから貧乏でお金がなかったんだって。だからいつも縞々のセーターと鼠色のズボンだったの。でもいつも明るくって、おっきな頭を揺らしながら前歯が欠けた口でよく笑っていたの。良い子だったのに、変質者に誘拐されちゃって、今も行方不明なんだ。きっともう殺されちゃったのよ」

 少女の口から吐き出される情報量に圧倒されて、私は半ば逃げ出す形で話を打ち切った。

「カケルくん」の名前は、度々児童が口にしていた。どうやら全校生徒のあいだで広まっているらしい。先述の通り、誘拐されて殺された児童はいない。この「カケルくん」がこの町に蔓延している噂話の根幹こんかんと見て間違いあるまい。

 特殊な学級とは、軽度の障害を抱えた児童たちが学ぶために創設された特別支援学級のことだろう。ただし、この小学校には設置されていない。他校にあることはあるが、結局のところ誘拐事件が発生していないという点に帰結してしまう。

 興味深いのは、この存在しないはずの誘拐された児童は人物像がはっきりとしているところだった。誘拐された時期や経緯、通っていた小学校については語り手によってさまざまだ。多くの噂話で共通するのは憶測による変遷へんせんである。

 ところが「カケルくん」の容姿や性格などは一致していた。特別支援学級に在籍しており、母子家庭でいつも同じ服を着ている。縞柄のセーターに鼠色のズボン。

 一方で、誘拐犯の正体については全くの不明だった。児童を攫う変質者としての記号でのみ語られ、犯人像については闇に包まれている。大衆が語る噂話の中で跋扈ばっこし、この町に潜んでいるとされる誘拐犯は、集団幻想によって生み出された名無しの怪物なのかもしれない。

 確かな根拠もなく語り継がれる噂は、こう呼ばれるべきだろう。すなわち、都市伝説と。



 秋を迎える頃、存在しない児童誘拐事件は鳴りを潜めていた。だが保護者に根づいた恐れを払拭ふっしょくするには至らず、日が落ちると子供たちの姿は消えていた。

 秋の行事に関する打ち合わせを職員会議で話し合っているうちに、外はすっかり暗くなっていた。校舎を出て空を見上げると、一番星が輝いていた。もう空気は肌寒く、身震いとともにコートの襟首を寄せる。

 熱心な部ならば、この時間まで汗を流していただろう。運動場の屋外照明が練習に励む部員たちを照らしていたはずである。校庭は、静まり返っていた。

 教員が車を停める駐車場を抜けて、裏門をくぐる。小さな文房具屋を横切った。民家の一階が商店になっている、昔ながらの店だ。とっくに開店時間は過ぎ、シャッターが下りている。二階は灯りがついており、かすかに夕餉ゆうげの匂いがした。

 下り坂になった大通りを歩く。住宅地に入ると、舗装された地面には通学路であることを示す白塗りの文字が横たわり、道の角に設置されたカーブミラーの丸みを帯びた鏡面がくたびれた中年男を映していた。

 同じ道でも朝と夜では表情を変える。外灯に大きな蛾がぶつかり、塀や道路に肥大化した影がせわしなく踊る。家々の中からは灯りがこぼれ、暗闇を外側へ追いやっていた。団らんを過ごす家族たちは、窓を覗きこむ暗がりには気にも留めないだろう。

 私もまた家路を急いでいた。疲れているのもあって我が家で一息つきたかった。未だ独身で、帰りを待つ肉親もいない。それでも冷たい夜闇やあんに身を浸すよりは上等だろう。

 靴底を打ち鳴らす音が、閑静な住宅地に響き渡る。人気はない。遠くで自転車に乗った男性が通り過ぎるのを目撃したぐらいで、うら寂しい夜だった。

 思いかけず足を止めると、たちまち静寂に包まれる。立ち止まった私の視線の先には、あの空き地があった。隣家の塀や錆びついた金網に囲われた、買い手のつかない土地。外灯の仄暗い光に照らされ、壊れた自転車に加えて、画面が割れたブラウン管のテレビや箪笥などの家財道具まで捨てられていた。

 草に埋もれているのは戦隊物の人形だろうか。勇ましく片手を上げた姿勢のまま横倒しになり、無機的な仮面の半分を覗かせている。

 日々を追うごとに不法投棄が酷くなっている。ここは児童たちが通学する道だ。このままでは事故の原因にもなりかねない。懸念を抱きながらも今夜は疲れが勝って、私は顔を背けた。

 家までもう少しだ。早く帰って、温かい飲み物を喉に通したい。そのようなことを考えていると、私の網膜が異変を訴えた。

 長年に渡って通い慣れた路地で、風景の細部まで覚えている。最近になって花をつけた金木犀きんもくせいの庭木、マンホールの位置、いつも家の前に停めてあるスクーター。電球が古くなったのか、頭上で灯りが不規則に明滅していた。

 例えば 幼児向けの絵本に載せられる間違い探しにも似ており、気づかずに通り過ぎてもおかしくなかった。そうであれば、どれほど良かったことか。

 違和感の正体が視界をかすめた。少し通り過ぎたところで、私は振り返る。そこには電柱があった。野良犬が小便でも引っかけていったのか、根元には濡れた痕跡があった。

 踵を返し、電柱の反対側に回る。そこには張り紙がしてあった。学校でもよく使う大きさの紙で、千切ったガムテープで四隅を乱雑に留めてある。目に飛びこんできたのは、太字のマジックペンで書かれたらしい文字だった。

『カケルくんをさがしています』

 一切の迷いなく、悪戯いたずらだと断じた。

 きっと噂を知った人間の仕業だろう。被害者が存在しないとは言え、近隣住民の不安を煽りかねない。私は憤りを覚えながら、張り紙に書かれた残りの部分に目を通していく。

 電柱の丸みを帯びた張り紙の中央に、歪な形をした人間のものらしい絵が描かれている。極端に頭部が肥大化しており、黒々と穿たれた両目に、大きな歯抜けの口が無邪気な笑みを象っている。反比例して胴体は細く、手足は異様なほど長い。まるで出来の悪いマリオネットだ。

 明らかに頭を支え切れないであろう首の下には、のたくった蚯蚓みみずを思わせる線が執拗に描きこまれている。 被害者児童が着ていたという横縞のセーターの模様を表現したものだろう。

 さらにその下には、たどたどしい字で書かれた文章があった。

『カケルくんは学校の帰りみちでゆくえふめいになりました。わるい人にゆうかいされたのです。いつもしましまのセーターを着ていて頭がすこしおくれています。心あたりのある人は……』

 次の部分には電話番号が記載されていた。最初の番号は市内局番ではなく、フリーダイヤルで用いられる四桁の数字だった。少なくとも個人の連絡先ではない。おそらく広告などから拾ってきたのだろう。

 手間はかかっているが幼稚である。肉親を装うにしても、これではペット探しの張り紙にも劣る。子供の悪戯でなければ、精神的に幼い人間がやったことだろう。

 いずれにせよ看過はできない。私は張り紙の隙間に指を差し入れた。雨に濡れて乾いた独特の湿り具合をしている。不安定な電灯の下で、あの黒く塗り潰された瞳と目があった。光加減のせいか、まばたきをしているように見える。思わず視線を逸らした先に、小さな走り書きを発見した。

『カケルくんはいまもこの町にいます』

 力を入れて張り紙を剥がした。夜の住宅地に存外大きな音が響いて、人の金切り声にも聞こえた。私は顔をしかめ、少々乱暴に紙を丸めた。湿り気を帯びた感触が不快だった。道端に捨てるわけにもいかず、コートのポケットに入れた。

 そこで気づいた。

 電柱全体と張り紙が張られていた四角い箇所だけ色合いが異なる。色褪せておらず、そこだけ風雨に晒されていなかった印象を受ける。

 何年ものあいだ、張り紙がずっとそこにあったように。



 疲れているのかもしれない。

 冬休みを前にした教室はどこか浮き足立っていた。空の色は薄く、時折強い風が窓枠を揺らす。教室の片隅に設置されたストーブは全体を暖めるには至らない。それでも子供たちは、寒さよりも休みの予定の方が気になるらしい。

 国語の教科書を片手に、黒板にチョークを走らせる。小説の一文を取り上げ、児童に答えさせるためだ。このときの作者の気持ちを述べよ。

 文章を書き終え、振り返る。なぜだか少し怖気がした。騒がしかった子供たちの声が静まり返り、いずれも無機的な表情を向けている。

 咳払いをし、彼らに挙手を求めた。このクラスには積極的に解答する児童は少ない。こちらが指名するまで沈黙が続くだろう。慣例に従って出席番号で決めようとしたとき、誰かの手が挙がった。

 珍しいこともあるものだ。感心とともにその子の名前を呼ぼうとして、私は硬直した。それは窓際の後ろの席に座っており、真っ直ぐ手を挙げていた。のたくった蚯蚓を彷彿とさせる縞柄のセーターを着ており、妙に腕が細長い。異様に膨らんだ頭部を揺らしながら、歯抜けの口を見せて笑っている。

 絶句したまま、 その眼差しから目を逸らせなかった。大きさが不揃いの黒い点々に過ぎないのに、二つの目がまばたきをした。その仕草がいやに生々しく、現実にそぐわなくて気持ちが悪い。

 先生。その一声で我に返った。金縛りから解き放たれ、声の主に目を向ける。前の席に座っていた女子で、首に赤いスカーフを巻いていた。

「どうしたの。たくさん汗をかいてるよ」

 心配そうに教壇を見上げる少女に、私は気持ちを落ち着かせて答える。

「何でもないよ。ちょっと疲れているんだ」

 窓際の席に目を戻した。そこには誰もおらず、ぽっかりと空いた空席があるだけだった。

 その後、滞りなく授業は進行した。児童の朗読に耳を傾けながら、私は必死に思い出そうとしていた。あそこの席には以前、誰が座っていたのだろう。

 頭の中で、小さな歯車が欠け落ちている。正常に回っていた日常に狂いが生じていることを自覚した。

 件の張り紙を剥がした後日、その電柱があった場所に赴いた。もう一度確かめたかったからである。金木犀の花が咲く庭、無造作に停められた中古のスクーター。記憶違いでなければ、ここで間違いないはずだ。

 ところが電柱には何の痕跡もなかった。あの四角い痕もなければ、四隅に破れた紙片やガムテープも見当たらない。力任せに張り紙を破り取っただけなのだから、何かしらの断片が残っていてもおかしくはないというのに。

 近隣住民や電気工事の業者が綺麗に剥がしていったのだろうか。念のため、道の前後にある電柱もあらためた。やはり何の異常もなく、最初から張り紙などなかったと言わんばかりだった。

 私は途方に暮れた。なぜならコートのポケットに放りこんだはずの紙屑は、帰宅したときには跡形もなく消えていたのだから。

 この一連の事象に私なりの答えを出すならば、自分は病気ではないかということだ。記憶の欠落、幻覚症状から鑑みるに脳の異常を疑わざるを得ない。少なくとも不可解な現象を信じるよりは現実的だろう。

 本来ならば教育の現場から一時離れ、病院で検査を受けるべきだったかもしれない。ただ私は恐ろしかったのだ。教職の地位を失う危惧もさることながら、どうして自分が正気ではないと認められよう。

 ただの思い過ごしだと何度も自分に言い聞かせた。ただ疲れているだけなのだ。見て見ぬ振りをすれば、きっと何もかもが元通りになる。

 冬休みを迎え、通学路はより静かになった。厚着をした子供たちが駆け回ることがあっても、すぐ消える幻影に等しい。遠ざかる笑い声を耳に残しながら、小学校へ向かう。児童たちが休みに入っても、教職員が学校に行かなくていいわけではない。さまざまな校務に加え、新学期の授業計画を立てなければならなかった。

 ゆったりとした足取りで通学路を歩いていた私は、看過できない光景を目にして足を止めた。あの空き地の前である。

 夥しいがらくたが積み上げられていた。マグネットがつけられたままの冷蔵庫、型の古い扇風機、ベビーカー。勉強机に黒いランドセル、綿がはみ出たライオンのぬいぐるみなど、数え上げればきりがない。

 自分の身の丈を超える粗大ごみの山を前にして、私は唖然あぜんとした。心ない人々の悪行で片づけていい限度を超えていたからだ。

 いつからこうだった。この惨状に近所の人間は何も思わないのか。もし子供が好奇心で入りこめば、いつ事故が起きてもおかしくない。

 義憤に駆られた。この状況を放置するのは行政の怠慢であり、元を正せば土地を所有する不動産の管理不行き届きである。私は懐から折り畳み式の携帯電話を取り出した。「売地」と記された立て看板の下部には、不動産への連絡先が記されている。

 眼鏡越しに目を凝らし、数字をなぞる。番号を打ちこむと、小さな液晶画面にそのまま数が連ねられた。 受話器のマークが描かれたボタンを押そうとして、その親指が止まる。ある疑念に駆られたからだ。果たして、目の前の光景は現実なのだろうか、と。

 私は何度もこの道を通ったはずだ。どうして今になって、この現状に驚愕しているのか。昨日今日でこうなったわけではあるまい。

 まだ営業時間外で、誰も出ないかもしれない。それならそれで構わない。だがもし不動産に繋がり、否定されたらどうする。

 そんな空き地はない、と。

 あまりに突飛な考えだった。現に今、こうしてがらくたが積み上げられた空き地が目の前にある。ただの杞憂だと言い聞かせても、親指が動かなかった。

 液晶画面に映し出された電話番号が、不意に蠢いた。まるで百足が身をくねらせるように、おぞましい動きで私の網膜を這いずった。

 短い悲鳴を上げ、携帯電話を手から取りこぼした。路面に落ちても、画面の中で数字の羅列が蠢動しゅんどうしている。無我夢中で踏みつけると、折り畳みの携帯電話は半分になり、ひび割れた液晶画面は黒くなって何も映さなくなった。

 私は何度も頭を振り、その場から足早に立ち去った。背中には粘つく視線を感じた。あの暗い穴の底を思わせる瞳が、どこまでも追いかけてくる気がしてならなかった。



 雨が降っている。路地に水たまりをこしらえ、その表面に波紋が生まれては消えていく。

 住宅地は鬱々と沈み、色を失くしていた。空は児童が絵の具を使い終わった後の水入れの色に似ていた。つまりは濁っている。

 頭上から降りそそぐ雨粒を傘が受け止め、その露先を雨水が絶え間なく滴り落ちる。雨に煙る視界は見たくないものを覆い隠すのに好都合だった。視野の端では、そそり立つ影が存在感を滲ませている。

 あれから数日、空き地のごみは肥大化していた。次々とがらくたの類が積み上げられ、その高さは今や隣家の屋根を超えるほどだ。ありふれた町並みにあって異彩を放っており、もはや無視できる範疇はんちゅうにない。

 ずっと同じ疑問が渦巻いていた。なぜだ。誰もこの光景をおかしいとは思わないのか。通行人が目もくれず素通りする様子を何度も目撃した。あれほどまでに異様で、傲然ごうぜんとこちらを見下ろしているというのに。

 雨が降りしきる中、傘の柄を握る手が汗ばんでいた。湿った唇の隙間から漏れる呼気は震え、眼前で白いもやとなって消える。ただ前だけを凝視していた。

 何度も考えた。いっそ道を変えてしまえばいい。多少遠回りになろうが、毎日往復するたびに視界の外で圧迫感を放つ異物に神経を削られなくて済む。今まで実行に移せなかったのは、その行為が何年も変わらずにいた平穏を否定することになるからだ。

 私はまだ日常にしがみついていた。異常な空き地の存在を認識しながら、かといって直視することもできない。自らの正気を疑われることを恐れて、誰かに訴えることもしなかった。

 愚かしいにも程がある。

 傘を深く傾け、一刻も早くこの場を通り過ぎようとした。革靴の底が水たまりを踏みつけ、飛沫が上がる。ズボンの裾が濡れることなど、今はどうでもいい。早く家に帰って何もかも忘れてしまおう。

 気を急く足を止めさせたのは、靴の側面にぶつかった軽い衝撃だった。目線を下げると、足元で揺れていたのは泥で汚れたサッカーボールだった。

 一体、どこから転がってきた。舗装された道路で、ここまで泥水にまみれるだろうか。そもそも雨の日にサッカーをする子供などいないだろう。

 頭の中で制止の声が響く。やめろ、見るな。意志に反し、曇った眼鏡の下で眼球が引っ張られる。そこには空き地があった。屹立きつりつする影を中心に据えている様子を目の当たりにして、ああ、と吐息がこぼれた。

 まさしく瓦礫と形容とするにふさわしい。天井の梁とおぼしき木材が滑り落ちる寸前で引っかかっていた。屋根の瓦が散乱し、何枚もの剥がれた畳が雨に打たれている。モスグリーンの冷蔵庫、鏡が割れた化粧台、箪笥たんす、錆びた自転車、ブラウン管のテレビ。以前目にしたがらくたに加え、芥子からし色の軽自動車まで瓦礫の山に呑みこまれる形で車体の前半分が露出していた。重機でも使わない限り、ここまで大量の廃棄物を積み上げることはできないだろう。

 例えるなら震災で倒壊した家屋に似ていた。外壁が破れ、その家の住人が使っていた家具が外に溢れ出している。突拍子のない発想に自ら戦慄した。

 これは、家になろうとしているのか。

 足元のサッカーボールのことも忘れ、呆然と立ち尽くす。だから、瓦礫の隙間で揺らめく細長い影に気づくのが遅れた。最初は布切れが風になびいているのかと思ったが、この雨天の下では不自然な動きだった。

 首から下が硬直したまま、瞳だけがその一点に吸い寄せられる。布を被せた木の枝にも似ており、ちょうど半分ほどの長さで折れ曲がっている。こちらに向けられた部分が弱々しく手招きをし、その袖口から覗く先端は枝わかれしていて、ああ――。

 何が枝だ。あれは人間の腕ではないか。すぐに泥まみれのサッカーボールと関連づけて、全身の血の気が引いた。

 恐れていた事態が現実のものとなったのだ。ボール遊びをしていた子供がこの空き地を発見して、格好の遊び場とした。そして瓦礫の山に近づき、事故に巻きこまれた。

 無意識に叫んでいた。全て、私のせいではないか。問題を認識しながら保身のために放置した。教職者にも関わらず、守るべき子供の命を危険にさらしたのだ。

 傘と鞄を路上に放り出し、無我夢中で空き地に足を踏み入れた。冷たい雨が全身から体温を奪っていく。ぬかるんだ泥土に革靴が沈み、足が取られそうになる。空気は粘性を帯びて、さながら底なし沼をかきわけていくようだった。

 ずぶ濡れになりながら、私は屹立する瓦礫の足元へと辿り着いた。ここから助け出して病院に搬送すれば、まだ間に合うかもしれない。一縷いちるの望みをかけ、その子に呼びかけようとして、かすれた息が漏れた。

 間近で見れば、その腕の輪郭がおかしいとわかる。妙に肘から先が細長く、太さが不自然だ。指には関節が見当たらず、一本一本が人体の構造に反した動きで独立している。歪な縞々のセーターを着ており、軟体動物を思わせるおぞましい伸縮性で眼前に伸びてきた。

 強張る顔の前で、不器用に握った拳を開く。その冗談じみた手のひらの中には、半分に折れた銀色の携帯電話があった。

 私は絶叫した。足をもつれさせて無様に転びながら、コートを泥で汚して空き地から逃げ出す。革靴のつま先に当たったサッカーボールが宙を舞った。

 それから記憶は曖昧だ。気づけば、雨の音を遮る玄関の扉を背にして座りこんでいた。雨に濡れた全身が冷え切っている。髪の先や服から水が滴り、沓掛を濡らしていた。

 誰もいない玄関で、一人笑い声を立てた。何が現実で何が幻覚なのか、自分にはもうわからない。

 肩を揺らした拍子に、垂れ下がったコートの端に違和感があった。ポケットのあたりだ。笑うのを止め、考えるよりも先に手でまさぐった。その感触はどうやら紙で、くしゃくしゃに丸められている。湿り気を帯びており、人肌に近い生温かさだった。

 その正体を察していても、私はそれを取り出さざるを得なかった。酷く震える手でその紙を広げる。薄暗い玄関に幼稚な子供の絵が浮かび上がった。歪んだ文字でこう書かれている。

『カケルくんをさがしています』



 紙屑は消えなかった。

 桜が咲き、葉桜となって路面には薄くなった花びらが張りついている。新年の入学式で軽やかだった空気も落ち着きを取り戻し、私が暮らす町は平穏に包まれていた。

 教職を辞することも考えた。こうして変わらず通勤しているのは、他の生き方を知らなかったからだ。言い訳を重ねるならば、道を変えて奇妙な幻覚を見ることはなくなった。

 自然と「カケルくん」の噂は薄れていった。校内で子供たちの口に上ることはなくなり、不審者に関する問い合わせもほとんどなくなった。あれほど町を騒がせた架空の誘拐事件のことを覚えているのは、今や私だけとなった。

 新調した革靴の踵が鳴る。手提げの鞄を握り、焦げ茶色のコートに身を包んでいた。朝日が柔らかい時間に、徒歩で小学校へ向かう。

 古い民家が取り壊され、新しい住居の土台が築かれていた。工事中の道路には立ち入り禁止の看板が立っている。黒ぶちの猫は縄張りを散歩しているのか我が物顔で塀の上を歩いており、その腹は以前より膨らんで見えた。

 景色は変わっていく。私はどうだろう。

 誰かが駆け足で私を追い抜いた。赤いランドセルを背負っており、防犯ブザーが揺れている。首に巻いた赤いスカーフが目を引いた。その子は振り返り、私に笑顔を見せる。先生、おはよう。

 一瞬虚をつかれ、すぐに挨拶を返す。不思議な感覚に見舞われた。見覚えがあるはずなのに、この子のことがよく思い出せない。

 唐突に手を引っ張られた。こっちに来て、と彼女は言った。戸惑ったままの私は抵抗することもできず、急き立てられてあの場所へ導かれる。

 塗り直された赤い郵便ポストを通り過ぎる。辿り着いたのは、あの空き地があった住宅地の角地だった。私は見上げるなり「ああ」と嘆息した。

 そこにあったのは家だった。低い生け垣で囲われた二階建てのモルタル仕上げで、灰白色かいはくしょくの外壁には年月を感じさせる亀裂と長い蔦が這いずり回っている。玄関口は木枠で囲まれた磨りガラスの引き戸であり、小さな鉢植えが置かれていた。裏庭の限られた空間には物干し竿が据えられ、一着のセーターが干されていた。模様は横縞である。

 物干し竿の下には使い古されたホースがとぐろを巻き、勝手口から伸びている。その向こうは台所だろう。ホースのそばにサッカーボールがあり、錆が目立つ自転車が斜めに傾いで停められていた。

 玄関の表札はかすれて読めない。

「カケルくんはね、かわいそうな子なの」

 赤いスカーフの少女は急き切って話し出した。まるで脈絡がなく、私は困惑するしかなかった。相手は構わず早口で続ける。

「カケルくんは母子家庭でね、お父さんがいないんだけど、お母さんが頑張って育てたんだ。普通の子より少し頭が遅れてて、でもいつもにこにこしてるから、皆カケルくんのことが好きだったんだよ。だけどある日、行方不明になっちゃって、悪い人に誘拐されたんだって皆心配したの。だから張り紙をして、カケルくんのことを捜してたんだ。ああ、もう見つからないかも、って悲しんで」

 少女は一旦そこで言葉を切った。

「でも、あの子は帰ってきたの。ずっと、この町にいたんだよ」

 全部、先生のおかげ。赤いスカーフの少女は笑う。私には何もかもが理解できない。目の前の児童も喋っている内容も、その全てが得体が知れなかった。

 ただ、脳裏に妄想じみた考えが浮かんだ。「あれら」は、空白に棲むのではないだろうか。何もない空き地、根拠のない都市伝説、誰も座らない席。存在しないものが人の認識を介し、こちら側へと現れる。ちょうど、ぽっかりと空いた上履きの穴から百足が這い出てくるように。

「ほら、見て」

 少女の声に意識を戻した。その白い指先に釣られて、突如として出現した家の二階を見上げる。そこには窓枠があり、向こう側には何者かが佇んでいた。頭でっかちで、明らかに体の輪郭が歪んだ人影。

 私は立ち尽くした。すぐそばにいた赤いスカーフの少女が忽然と消え、もう顔も思い出せないことなど、どうでもいいことだった。

「お前は、何なんだ」

 とうとう私は認めた。

 窓の向こうにいる影は頭を揺らし、歪な指をガラスに押しつけた。

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空白 @ninomaehajime

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