第4話 結

 僕は妻と共にベランダへ出た。隣のベランダには、もう老人の姿は無かった。


 町の明かりは無く、どこまでも闇が広がっていた。雲は無いはずなのに星も見えない。その代わりに妻の瞳の中に見たあの異質な暗闇がそこにはあった。


 妻の瞳にあったのは夜の闇よりもさらに深い闇。どこまでも黒い黒。そんなものが頭上に広がっていて閉塞感を覚える。


 得体のしれない恐ろしいものが僕を見下ろしている気がした。


 遠くを眺めて、気付いた。町の外には空にあるのと同じ黒があった。黒い世界が街の外までやって来ていた。あの向こうはどうなっているのか。あまり考えたくはなかった。


「リコちゃん。君が見せたかったのは、あの空や遠くに見える黒色だったの?」


 尋ねると妻が頷くのが分かった。ほとんど闇だけの世界で、僕は妻の挙動を認識できた。そして彼女の瞳の中に広がる黒は、この闇の中でも目立っていた。


「ねえ、ヨモツ君。私の存在を感じることができているかしら?」

「この闇の中でも感じられるよ。君と目が合うと嫌でもその黒い目が気になってしまうしね」

「世界の闇が深まっているのね。私も、あの闇に居たころの姿に近づいているのよ」


 世界の闇が深まるほど、妻の姿はあの世の者に近づいて行っているらしい。


「リコちゃん。君から見て、僕の姿はもう君のように変わり始めているのかい? 君の瞳のように」


 妻は首を振った。彼女から見て、僕の姿に変化は起きていないらしい。


「でも、ヨモツ君は内側から変わり始めているわ。だってこの世界に入ってきた暗闇や、闇の中に居る私の存在を感じられるようになってきているのだもの」


 彼女は嬉しそうに言うが、僕の内心は複雑だった。いや、怖かった。


「ヨモツ君」

「うん」

「君も死者になるんだよ」

「……うん」


 僕は今、体の中から得体のしれない何かに変わろうとしている。それが怖い。僕が僕でない何かに変化していくのが恐ろしくて気持ち悪い。まるで、この身体がさなぎになって、内側から恐ろしい何かが出てこようとしているみたいだ。


「ねえ、ヨモツ君。変化することは怖いかもしれない。不安かもしれないし、気持ちが悪いかもしれない。でも、変わってしまえばそれが普通になるのよ」


 それは今の僕には受け入れがたいことだった。出来ることなら逃げ出したい。だけど、どこに逃げれば良いというんだ。僕はここで自分が何かに変わるのを待っているしかない。


 体が震えてきた。寒さのせい、だけじゃない。


「嫌だ。僕は……僕でいたい。僕でない何かになんてなりたくない」

「ヨモツ君」


 妻は一瞬、悲しそうな顔をした。それから、彼女はうっすらと笑って言う。


「今でも私がリコという人間であるように、君が死者になっても、君はヨモツ君のままなのよ。全てが変わってしまうわけではないの」


 彼女の笑みは、生前に見せてくれたものと、ほとんど同じだ。その瞳は冷たくて不気味だけど、表情は僕の良く知るそれだ。


「そうだとしても、僕は怖いよ」

「うん、そうだね」


 彼女は肩をすくめ、僕に提案する。


「ヨモツ君、煙草はある?」

「あるよ」

「なら、一緒に吸いましょ。落ち着くわ」


 僕も彼女も、大学に居たころから煙草を吸っていた。二人とも童顔だったからか、子どもたちが無理して煙草を吸っていると、よくからかわれたのを覚えている。


 彼女の提案に僕は頷いた。煙草は今の僕の心を少しは落ち着かせてくれるかもしれない。


 ポケットから煙草とライターを取り出した。今から火を扱うのだと思うと、少しだけ落ち着いた。この真っ暗な世界で火という明かりの存在が、僕に安心感を与えてくれているのかもしれない。


 少しずつ落ち着いて、体の震えを抑えていく。


 ライターを着火し、煙草に火を点けることは出来た。だがなぜか、すぐライターから火が出なくなってしまった。これでは一本しか煙草を吸えない。


「これが最後の一本かな?」

「煙草から煙草に火を移せば私も吸えるわよ」

「シガーキスかい? なんだか恥ずかしいな」


 大学のころ彼女とそれをやったことはあるが、当時から恥ずかしかったのを覚えている。思えばあの頃も、シガーキスを提案してきたのは彼女だった。


「君は、昔からそうだね」

「変わったところもあるけど、そのままのところもあるのよ」


 彼女は煙草を持っていなかったので、僕は彼女に一本渡した。そして彼女は火も持っていなかったのでお互いに加えた煙草同士でキスをした。彼女と数年ぶりのシガーキスは緊張して、どきどきするものだった。


 二人でベランダに並び、こちらへ迫って来る黒い世界を眺めていた。その闇が迫る速度はだんだんと上がって来ていて、煙草を吸い終わる前に僕たちは呑み込まれるのかもしれない。


 息を吸い、煙を吐いた。


「ヨモツ君。少しは落ち着いた? まだ怖い?」

「今も怖い。でも体の震えは落ち着いてきた」

「それは良かったわ」


 彼女は僕の横で、遠くの闇を見つめているのだと分かった。確かに彼女は色々と変わったのだろう。でも、今でも彼女は僕の妻だ。怖いけど、それだけは否定してはいけないと思った。


「ねえ、ヨモツ君」

「どうしたの?」

「あの世では、どこまでも暗闇が広がっていたけど、誰かの存在は感じることができたの」

「そう言っていたね」

「だから、私たちがあの闇に呑まれても、そこは寂しい場所じゃないわ。何も見えなくて感じられないだけで、そこは寂しい場所じゃないのよ」


 その言葉を聞いても、不安も怖さも未だにあった。でも。


「今は……君の言うことを少しは分かってきた気がする」


 闇が深まるほどに妻の存在を強く感じられるようになってきていたからだ。何年も感じられていなかった彼女の存在を、今の僕は強く感じていた。


「ヨモツ君」

「どうしたの?」

「戻ってきた私を受け入れてくれてありがとう。また、君と話せてよかった」

「僕もそう思うよ」


 息を吸うたびに煙草の先が赤く燃える。ほのかな明かりが、この終わり行く世界の中で、点いたり消えたりを繰り返していた。


 そうして、僕の吸っていた煙草から火が消え、最期の明かりを失った。


 目の前にはどこまでも黒い世界が続いていた。

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飽和した世界から あげあげぱん @ageage2023

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