第3話 転

 妻がふっと目を閉じた。警戒して彼女の様子を伺うが、瞼を閉じた彼女はゆらゆらと楽しそうに頭を動かしている。


「良い曲よね」


 そこでようやく彼女が音楽を楽しんでいるのだと分かった。彼女は子どものころから、この曲が好きだった。


「ヨモツ君」


 彼女は目を閉じたまま言う。


「私はあの世に居て少し変わったのだと思う。だけど、今でも私はこの曲が好きで、桃色が好きで、君のことが好きなの。私は全く違うものに変わってしまったわけではないのよ」


 僕はどう答えるべきだろうと迷っていた。それが沈黙という形になる。


「私は死んで、昔よりも暗闇と仲良くなった。君もその時が来れば分かるはずよ」

「……僕は、まだあの世に行く準備ができていない。暗闇と仲良くなるのは、ずっと先のことになると思うんだ」


 僕の返事を聞いて彼女は口元を緩めた。穏やかな笑みだった。


「たぶんね。そういうわけにはいかなくなるよ」

「そういうわけって?」


 彼女の言葉は不気味だった。僕は彼女の顔をじっと見る。閉じられていた目がゆっくりと開いた。彼女は僕の目を見て言う。


「あの世の壁が壊れたと言ったでしょう。きっとあの世からやって来るのは死者だけではないのよ」


 彼女の言っていることが分からない。


「天使や悪魔があの世からやって来るとでも言うのかい?」

「違うわ」


 妻は僕の言葉をはっきりと否定した。彼女には、ちゃんと答えが分かっているかのような、確かな自信が感じられた。


「あの世には天使も、悪魔も、きっと居ない。あの世にあるのは死者と暗闇だけなの」

「じゃあ……」


 僕は不安を覚えながら言葉を続ける。


「あの世から暗闇がやって来るというの?」


 言いながら僕には彼女の言う暗闇というものが、よく分からなかった。暗闇という単語そのものは理解できるし、意味も分かるし、どういうものかも知っている。でも、彼女が言う暗闇は僕の知っているものとは異質な何かのように思えた。なぜだか、そう感じてしまうのだ。


「暗闇がやって来ると、何が変わるのかな?」


 不安が大きくなっていくのを感じながら僕は尋ねた。妻は子どもに教え諭すように僕へ言う。


「今、この世とあの世は混ざり合おうとしているわ。変化しようとしているの。私は今、あの世から出てきた暗闇がこの世界を塗りつぶして行くのを感じている。ヨモツ君。もうすぐここにも暗闇がやってきて、全てを塗りつぶすわ。それは避けられないことよ」


 妻の言っていることは荒唐無稽だ。そう思いたいはずなのに、彼女の言葉には真実味がある。僕は否定しようと思っても、彼女の言うことを心のどこかで認めてしまっている。


「ねえ、リコちゃん。もう一度訊くよ。暗闇がやって来ると何が変わるの?」

「この世が、あの世に変わるのよ。そして全てが暗闇に包まれて、生者は死者に変わる。この世界は新たな年を迎えることはなく、ただ、ずっと闇が続くのよ」


 嘘だ。嘘だと思いたいのに、僕の心はそれを真実だと感じてしまう。


「ヨモツ君も感じているはずよ。暗闇の存在を。どこにも逃げ場がないことも」


 嫌だ。そんなのは嫌だ。


「暗闇から逃れる方法は無いの? いや、何かあるはず」

「無いわ。それは今までの長い歴史の中で誰も死から逃れることはできなかったように、私たちに必ず追いつくわ。いえ、すでにヨモツ君は追い詰められている」

「追い詰められているって、どういうこと?」


 僕の問いに答える代わりに、彼女は静かに笑った。


「ヨモツ君。ベランダに出ましょう」

「ベランダに? どうして?」

「君に見せたいものがあるから」


 妻はゆっくりと席を立った。僕はすぐには立ちあがることができない。そんな僕に妻はテーブルを回りながら、ゆっくり近づいてくる。その途中、不意に部屋の明かりが消えた。レコードから流れていた音楽もぴたりと止まった。


「停電したみたいね。発電所がやられたんだと思うわ」

「やられた? 誰に?」

「正確には発電所が暗闇に呑み込まれた。というべきだったかしら」


 やがて彼女は僕の隣に立った。闇の中でも彼女の気配は、はっきりと分かった。


 彼女から手を差し伸べられる。


「ヨモツ君、世界が変わるところを特等席で見ようよ」


 横に立つ彼女を見上げ、僕は息が詰まるかと思った。今も穏やかな笑みを浮かべる彼女の瞳にはどこまでも深い暗闇が広がっていた。


 それは今まで見たどんな暗闇とも異質だった。闇の中で、その瞳の中にだけ、さらに深い闇が存在している。どこまでも深い闇が僕のことを呑み込もうとしているような気がしてくる。それは決して生物の瞳の中にあって良いものではなかった。


「リコちゃん。君は本当に……僕の知っているリコちゃんなのか?」

「私は少し変わってしまったかもしれないけど、今でも君の知っているリコよ」


 僕たちの間には長い沈黙があった。


 きっと、僕の知っていた世界はもう終わってしまうのだろう。それはこの世界の誰にもどうすることもできなくて、先に待っているのはあの暗闇だけだ。


「……リコちゃん」

「どうするの?」


 どうするの? と訊き返してきた彼女の前で、僕はため息をついてから言った。


「見せたいものがあるんだろう?」

「うん」

「なら、行こう。ベランダに」


 そう言って僕は席を立つ。

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